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水平線のグラデーション ー光の射す地獄、影の落ちる天国ー  作者: いつろう


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2 空を掴む指先、暗転の記憶

はじめまして(お読みいただく前のお願い)

数ある作品の中から、このページを開いてくださり、本当にありがとうございます。

初めて「小説家になろう」に投稿させていただきます。右も左もわからない初心者で、操作一つひとつに緊張していますが、ずっと自分の中で温めてきた物語を形にしたくて、執筆を始めました。

不慣れなため、読みづらい点などあるかと思いますが、精一杯書き進めていきたいと思っています。


閲覧にあたっての注意点

本作は、絶望の淵に立たされた主人公の再生を描く物語ですが、テーマの性質上、以下のような描写が含まれます。

• 過去の辛い経験(性被害など)に関する回想や、心の葛藤

• 女子プロレスの試合等における、激しい痛みや流血、怪我の描写

• 精神的に追い詰められるような重いシーン

これらは犯罪や暴力を肯定する意図は一切ございませんが、読む方によっては強いショックを感じたり、お気持ちが沈んでしまう可能性があるかもしれません。

もし「少しでも辛いな」と感じた時は、無理をせず、すぐに閲覧をお控えください。


作品のテーマと設定について

• 本作はR15設定および**「残酷な描写あり」**の設定にしています。

• 物語の根底には**「被害者と加害者の境界線はグラデーションである」**という考えがあります。誰しもがどちらの立場にもなり得るという人間の多面性や、その果てに辿り着くそれぞれの場所を描きたいと思っています。

• 登場する人物や団体はすべて架空のものです。


執筆環境について(AIの使用明示)

本作は、執筆の補助として生成AI(AIアシスタント)をパートナーとして活用しています。

私自身、視覚障害や難聴といった体調面での制約があり、長い文章を一人で整えることが難しい場面があります。そのため、私が考えたプロットや言葉、込めた想いをAIに伝え、表現の肉付けや文章の整理を相談しながら原稿を作り上げています。

物語の核心はすべて私自身の経験や想いから生まれたものですが、AIという最新の補助具を借りて表現していることをご理解いただけますと幸いです。


感想・評価などの受付について

本作では、感想、評価、レビューの受付をすべて停止させていただいております。

まずは自分自身の心身を整えつつ、自分のペースでこの物語を最後まで書き抜くこと、そして一つひとつの言葉を大切に紡ぐことに集中したいと考えております。あたたかく見守っていただけますと幸いです。

更新は少しずつになるかもしれませんが、この物語がどこかの誰かの心に、微かな光として届くことを願っています。どうぞよろしくお願いいたします。

第1章:空を掴む指先

1.砂場の魔法

「市原いずみ、跳びます!」

中学校の放課後、夕焼けに染まった校庭。いっちゃんは自分自身に気合を入れるように声を出し、助走路のスタートラインに立った。児童養護施設で育った彼女にとって、学校は「自分を何者かとして証明できる唯一の場所」だった。パンッ、と地面を蹴る。加速するごとに視界から雑音が消えていく。踏み切り板を力強く叩いた瞬間、重力から解放された。

(あ、今、空にいる)

わずか数秒の滞空時間。その間だけは、親の顔を知らない寂しさも施設での窮屈なルールも、すべてが砂の彼方に消えていく。着地した砂場は温かく、自分を優しく受け止めてくれる気がした。

「いっちゃん、すごい!」

その真っ直ぐな瞳と笑顔。彼女の才能はまたたく間に開花し、中学3年の全国大会で入賞。陸上の名門高校のスカウトの目に留まった。


2.青いユニフォームの罠

「いっちゃん、そのフォーム、すごく綺麗。私、見惚れちゃうな」

そう言って優しく微笑むのは、陸上部の二年生、川崎美優先輩だった。 児童養護施設からスポーツ推薦という切符を掴んで入学したいっちゃんにとって、美優は最初に出会った、眩しいほどに洗練された憧れの存在だった。

高校1年の初夏、県大会の予選。いっちゃんは支給されたばかりの新しい青色のユニフォームに身を包み、緊張でわずかに震える脚をパンパンと叩いた。

「大丈夫、いずみちゃんなら跳べる。自分を信じて」

美優にそっと背中を押され、いっちゃんは静まり返った助走路へと向かった。

結果は、自己ベストを大きく更新する、堂々の3位。

「やったぁ! 跳べた、跳べたよ!」

いっちゃんは歓喜を爆発させ、満面の笑みで美優に飛びついた。

「おめでとう、いずみちゃん。……本当に、すごいのね」

美優はいっちゃんを抱きしめ返した。その腕に込められた力が、抱擁にしては少しだけ強すぎることに、真面目で真っ直ぐないっちゃんは気づかない。美優の肩越しに見えた彼女の瞳が、一瞬だけ、濁ったガラスのように冷たく光ったことにも。

「ねえ、いずみちゃん。次の大会でもっと記録を伸ばすために、特別なトレーニングを取り入れてみない?」

「特別なトレーニング? はい! 私、もっと高く、遠くに跳びたいです!」

疑うことを知らないいっちゃんは、美優の手を力強く握り返したそれが、自分を奈落へ突き落とすための甘い誘いであるとは、夢にも思わずに。


3.軋む音と湿った手のひら

大会を1か月後に控えた放課後、美優に連れられて高負荷のトレーニングマシンに向かった 。

「いきます……っ!」

力を込めた瞬間、支えられていたはずのバランスが急激に崩れる。

――ブチッ。

生々しい音が響き、視界が真っ白になる。のたうち回るいっちゃんの傍らで、美優は顔を覆って泣き真似を始めた。

「私のせいで……ごめんね、いずみちゃん!」

診断は重度の靭帯損傷。大会出場は絶望的となった。

唇を噛むいっちゃんに、美優が「救い」を差し出す。

「罪滅ぼしに、凄腕トレーナーを紹介させて」

町外れの小さな接骨院。そこで待っていたのは、細い目をした男、市川守だった。市川の手は驚くほど冷たかった。彼は患部だけでなく、太ももの付け根や腰のあたりまで執拗に指を這わせた。

(……えっ?)

あまりに長く、不必要な場所に手が留まっている気がした。

(でも、美優先輩が紹介してくれたんだから……)

いっちゃんは不快感を無理やり飲み込み、真っ白な天井を見つめて歯を食いしばった。これが、彼女の誇りを侵食していく「地獄」の始まりだった。

高校2年の冬。市川の「治療」はさらにエスカレートしていた。彼と会う日は決まって吐き気に襲われた。ある日、彼の指が治療を越えた場所へ伸びた瞬間、いっちゃんの中で何かが弾けた。

「……もう、結構です」

いっちゃんは彼の腕を振り払い、ベッドから飛び降りた。足首の激痛以上に、自分の魂が汚されていく恐怖に耐えられなかった。


4.地獄の淵での跳躍

それからの練習は過酷だった。独学でリハビリを続け、テーピングで固める日々。

ある日、卒業して専門学校に進学した美優がいっちゃんのもとに現れる。

「市川さんの、断ったんだって? せっかくよくなってきてたのにって、市川さん言ってたよ」

「ありがとうございます。でも、自分の身体だから、自分でやろうと思って……」

いっちゃんは美憂にそう言うと、トレーニングに戻った。


迎えた高校最後の大会。

いっちゃんはジャージを脱いだ。いっちゃんの脚には痛々しいほどのテーピング跡が残っていた。大観衆に見られていることを気にすることもなく、いっちゃんは助走路に立ち、深く息を吐く。

(私のこの脚だけは、私のものだ!)

全速力の助走。美しく跳ぶのではない。泥臭く、執念で空を掻く。記録は、入賞。

いっちゃんは砂まみれのまま、空を仰いで泣いた。

後日、その泥臭い努力を評価した大学から、スポーツ推薦の連絡が入った。


第2章:暗転する二十歳の夜

1.牙を剥く執着

大学2年、20歳。 いっちゃんは、かつての絶望的な怪我を完全に克服していた。大学陸上界では「市原いずみ、奇跡の完全復活」と大きな注目を浴び、彼女の周りには再び、かつてのような称賛の輪が広がっていた。自己ベストを更新した、記念すべき大会の夜。 陸上部の仲間たちと居酒屋で開かれた打ち上げは、祝福の声に包まれていた。

「いっちゃん、本当におめでとう!」

「ありがとうございます! 幸せすぎて、明日が来るのが怖いくらいです!」

お酒に弱いいっちゃんは、数杯のカクテルで頬を林檎のように赤く染め、これまでの努力が報われた幸せな余韻にどっぷりと浸っていた。

しかし、その帰り道のことだった。駅から自宅へと続く、街灯のまばらな、人気のない路地裏。小雨が降り始め、アスファルトを湿らせる独特の匂いが立ち込める中、彼女の前に音もなくひとつの「影」が立ちはだかった。

「……久しぶりだね、いずみさん。一段と綺麗になった」

街灯の淡い光に照らされたのは、2年前よりも少し老け、だが瞳の奥に、より一層ねっとりとした異常な光を宿した男――市川だった。

「……市川、さん?」

酔いが一瞬で冷め、背筋に氷を押し当てられたような戦慄が走る。逃げようと身を翻した瞬間、いっちゃんの細い腕を、男の強靭な力が万力のように掴んだ。

「君が活躍する姿、ずっと見ていたよ。僕が治してあげたその脚で、楽しそうに跳び回って……。私の手にかかれば、もっと良くなるよ」

男の低く濁った声が、耳元にこびりつく。


2.塗りつぶされた記憶

暗闇の中から、バンのスライドドアがガラガラと開く重い音が響いた。抵抗する間もなく、いっちゃんは無理やり車内へと押し込まれる。冷たいシートに投げ出された彼女の視界に飛び込んできたのは、固定されたスマートフォンの、無機質なレンズだった。

(なんで……どうして私ばっかり、こんな目に遭うの?)

真っ直ぐに、ただ純粋に、前を向いて生きてきたはずのいっちゃんの瞳から、みるみるうちに光が消えていく。飛び散ったボタン。車内に響く冷酷なシャッター音。そして、男の荒い息遣い。それらが、彼女が守り抜いてきた誇り高き「二十歳の記憶」を、逃げ場のない闇で塗りつぶしていった。


3.止まった時計、動き出す影

その後、市川は逮捕された。動画という言い逃れのできない証拠、そして次々と明るみに出た余罪の数々。彼に下されたのは、10年という実刑判決だった。だが、法律が彼を裁いても、いっちゃんの心にかかった重い鍵は外れることはなかった。

「あの日」の絶望的な雨音。自分を剥製にするかのように狙い続けたスマートフォンのレンズ。そして、自分の尊厳が音を立てて砕け散る感覚。それらが幾度となくフラッシュバックし、彼女を蝕んでいった。いっちゃんは大学を休学した。そして、アパートの一室で、外の世界との繋がりをすべて断ち切り、1年もの間、ただ息を潜めるようにして過ごした。

「……外が、怖い」

かつて太陽の下、眩しい光を浴びながら砂場を駆けていた少女は、今やカーテンを閉め切った暗闇の中で、自分の体を抱きしめて震えることしかできなかった。埃の積まった部屋で、彼女の時計はあの雨の夜から、一歩も前に進めないまま止まっていた。


第3章:ランウェイの光と、毒の蜜

1.差し伸べられた「偽り」の手

事件から一年。いっちゃんを外の世界へと連れ出したのは、陸上時代の友人であり、今は読者モデルとして活動する岡部佳奈カナだった。

「いっちゃん、いい加減に開けてよ!」

アパートのドアを叩くカナの声が、カビと停滞した空気が満ちる暗い部屋に響く。引きこもって一年、いっちゃんは太陽の光を浴びることさえ忘れていた。

「いっちゃんのその脚、その顔。もう一度、光の下に出よう? 読者モデルなら、私の紹介ですぐ始められるから」

厚いカーテンの隙間から漏れるわずかな光を見つめながら、いっちゃんはその声を、沈没しかけていた自分に差し伸べられた唯一の命綱のように感じていた。


2.震えるスタジオの入り口

初めて連れられた都内のスタジオ。重い防音扉の前に立ったとき、いっちゃんの脚は鉛を流し込まれたように動かなくなった。

(……怖い。また、誰かにジロジロ見られるのかな)

心の奥底で、市川のあの冷たい指の感触が蘇る。知らない人々が行き交う空間に身を置くだけで、喉の奥が引き攣るような動悸がした。

「大丈夫、私がいっちゃんのマネージャー代わりだよ」

カナに背中を押され、いっちゃんは意を決して一歩を踏み出した。

「お、新人さん? 噂通りのいい素材だね。じゃあ早速、着替えてきて」

スタッフの何気ない、値踏みするような視線さえ、今のいっちゃんには皮膚を切り裂く刃物のように感じられた。


3.控え室の魔法

用意された控え室には、見たこともないような華やかな衣装が並んでいた。シルクのドレス、繊細なレース、そして一際強い光を放つ、エメラルドグリーンのワンピース。

「……綺麗」

いっちゃんは震える手で、その柔らかな布地をなぞった。肌を露出することに強い拒絶感はあったが、衣装を纏い、鏡の前に立つと、そこには「被害者ではない自分」が立ち現れていた。

(これなら……この服が、私を守ってくれるかもしれない。これを着ている間だけは、私は『市原いずみ』じゃない別の誰かになれる)

丁寧にメイクを施され、髪を巻かれるうちに、心の重荷が少しずつ、魔法にかかったように軽くなっていくのを感じた。


4.ぎこちない初撮影と「知らない自分」

いよいよカメラの前に立つ。

「じゃあ、もう少し顎を引いて。次は肩の力を抜いて、楽しそうに笑って!」

カメラマンの要求は矢継ぎ早に飛んでくる。いっちゃんは戸惑い、体は石のように強張った。男性であるカメラマンがレンズを覗き込むたび、あの日のバンの記憶がフラッシュバックする。シャッター音が、自分を切り刻む音に聞こえてしまう。

「うん、今の表情、最高にいいよ。見てごらん」

撮影の合間、モニターを覗き込んだいっちゃんは息を呑んだ。そこには、汗と涙でぐしゃぐしゃになっていた自分とは正反対の、眩しいほどに輝く一人の女性がいた。

(これが……私? 嘘みたい。こんなに綺麗に笑えるの?)

照明に照らされ、欠点さえも魅力に変えられた自分の姿。それは遠い世界の住人のようでもあったが、その輝きが確かに自分の中に眠っていたものだと知ったとき、頬を熱いものが伝った。

(……まだ、私は終わってない。まだ、まだ……)


5.エメラルド・モデルの誕生

撮影を重ねるごとに、いっちゃんの存在感は圧倒的なものになっていった。

「彼女の体は、ただ細いだけじゃない。長年鍛え抜かれたアスリートの『意志』が宿っているんだ」

業界内でそんな噂が広まるのに、時間はかからなかった。陸上競技で培ったしなやかな筋肉のラインは、どんなドレスも気高く着こなし、どこか憂いを帯びた瞳は見る者の心を掴んで離さなかった。いっちゃんは、雑誌の表紙を飾るトップモデルへと瞬く間に駆け上がった。かつて砂場で浴びた拍手とは違う、無数のフラッシュの光。彼女は自分を「エメラルド・モデル」と呼ぶメディアの期待に応えるため、必死に完璧な笑顔を作り続けた。

(この光の中にいれば、あの日の雨の音は聞こえない。みんなが私を見ていてくれれば、私は独りじゃない……)

その傍らには、いつもカナがいた。

「いっちゃん、おめでとう! ついに表紙だね。私、自分のことみたいに嬉しいよ!」

華やかな祝勝会の席。カナはいっちゃんを親友として満面の笑みで抱きしめた。

「ありがとう、カナ。カナが誘ってくれなかったら、私、今頃どうなっていたか……」

いっちゃんは心から感謝し、カナの温もりを信じ切っていた。しかし、カナがスマホでいっちゃんのフォロワー数を確認するたび、グラスを握る指先が白くなるほど震えていることに、彼女は気づいていなかった。カナの瞳の奥には、いっちゃんが手に入れた「光」をすべて奪い取りたいという、どす黒い嫉妬が渦巻いていた。

カナはいっちゃんの「男性が怖い」という弱さを誰よりも知っている。そして、その弱さを利用して、彼女をより過酷なステージへ突き落とす計画を、笑顔の裏でじっくりと練り上げていた。


6.克服できない恐怖

モデルとして成功を収める一方で、いっちゃんの心の内側には、拭い去れない「影」がどろりと溜まっていた。撮影現場で、男性スタッフが「いいよ、今の表情!」と軽く彼女の肩に手を置いた瞬間、いっちゃんの全身を電気のような拒絶反応が走り抜ける。

(……っ!)

肌は粟立ち、市川のあの冷たい指先が這いずり回る感覚が鮮明に蘇ってしまう。さらに彼女を追い詰めたのは、スマートフォンの存在だった。街中で向けられるレンズ、楽屋で何気なく構えられるカメラ。その小さな黒い穴が、あの日、雨の路地裏で自分を無慈悲に写し続けていた市川のレンズと完全に重なり、息ができなくなる。

(壊したい。あのカメラを、レンズを。……怯えて震えるだけの自分も、壊してしまいたい)

「……強くなりたい。もう二度と、あんな思いをしたくない。誰にも、私の尊厳を汚させたくないの」

ある夜、震える声でこぼしたいっちゃんの独白。その切実な祈りを、隣にいたカナは見逃さなかった。カナはいっちゃんの背中を優しくさすりながら、蜘蛛が糸を紡ぐような滑らかさで語りかけた。

「ねえ、いっちゃん。最近、女子プロレスが流行ってるの知ってる? 肉体を極限までぶつけ合って、自分の殻を粉々に砕くんだって。トラウマを克服するには、それが一番だって評判だよ」

カナは用意していたスマホの画面を差し出した。そこに映るレスラーたちの泥臭い姿は、清潔で完璧なモデルの世界とは真逆のものだった。けれど、だからこそ、いっちゃんの目にはそれが「真実の強さ」のように映った。

「モデルとして綺麗に着飾るだけじゃ、過去は消せないよ。でも、戦う体を手に入れれば、もう誰もいっちゃんを傷つけられない。私、全力で応援するから」

カナの言葉はいっちゃんの心に、毒を含んだ甘い蜜のように染み込んでいった。


7.地獄への第一歩

「……プロレス。私、やってみる!」

震える唇から漏れたのは、確かな決意。肉体を剥き出しにして戦うことで、あの日の路地裏に置き去りにしてきた魂を、自らの手で奪い返す。いっちゃんの脳裏には、夕焼けの校庭で、何も恐れずに砂場へ飛び込んでいたあの頃の自分がよぎっていた。

「いっちゃん、最高! 応援してるからね」

カナの声はどこまでも優しく響く。自分を暗闇から救い出してくれた恩人が、今また新しい扉を開いてくれた――いっちゃんはそう信じて疑わなかった。

それが、親友の仮面を被ったカナが仕組んだ「モデル・市原いずみの公開処刑」への序章であることを、知る由もない。


数日後。いっちゃんは都心の外れにある古い雑居ビルの前に立っていた。窓からは重いものが叩きつけられる鈍い音と、獣のような叫び声が漏れている。いっちゃんは、モデルの仕事で使うブランドバッグを強く抱きしめ、深く息を吸った。

「……お願いします」

錆びついた扉を押し開け、受付の前に立つ。そこには華やかなトップモデルの姿はなかった。

「市原いずみです。……本気で、強くなりたいんです!」

受付のテーブルが揺れるほど、いっちゃんは深く頭を下げた。その背中には、かつて中学の校庭で「市原いずみ、跳びます!」と叫び、誰よりも高く空を掴もうとしていたひたむきな少女の影が重なっていた。地獄へと続く階段を、いっちゃんは自らの足で、一段ずつ登り始めたのだった。


第4章:エメラルドの産声

1.剥ぎ取られる「モデル」の皮

入門した女子プロレス団体の道場は、これまで彼女が身を置いてきた華やかなファッション業界とは、何もかもが対極にある野生の世界だった。扉を開けた瞬間に鼻を突く、湿った熱気と染み付いた汗の臭い。そして、重い肉体が床を叩く鈍い衝撃音。

「おい、モデル! 足が止まってるぞ! 辞めるなら今のうちだ!」

鬼教官の怒号が響き渡り、先輩レスラーたちは冷ややかな目で見守っていた 。彼女たちは確信していた。この「お嬢様モデル」は、数日もすれば泣き言を言って逃げ出すだろうと。

しかし、いっちゃんは止まらなかった。何百回ものスクワットで脚は棒になり、首を鍛えるブリッジでは視界に火花が散る。

「……っ、はぁ、はぁ……!」

モデル時代の細い体は悲鳴を上げ、何度も道場の床に這いつくばった。だが、泥と汗にまみれた彼女の瞳だけは、かつてないほど鋭い光を放っていた。

(……苦しい。でも、この痛みは『生きてる』証拠だ。誰かに一方的に傷つけられた痛みじゃない。私が、私自身で選んだ、強くなるための痛みなんだ!)


2.過激さを増す「かわいがり」

いっちゃんがどれほど追い込まれても根を上げないのを見て、先輩たちの「かわいがり」は次第に過激さを増していった。それはスパーリングとは名ばかりの、一方的な蹂躙だった。

重戦車のようなラリアットが首を刈り取り、硬いエルボーが肺の空気を力ずくで押し出す。アームブレーカーで腕を極められ、鋭いドロップキックが腹部をえぐった。

「ぁあああああ!!」

いっちゃんは絶叫し、悶え苦しんだ。だが、叩きつけられるたびに彼女は這い上がった。その執念が、さらに先輩たちを苛立たせていく。

攻撃は関節技、そして絞め技へと移行した。アキレス腱を千切らんばかりに締め上げる「アキレス腱固め」。顔面を力任せに引き絞る「フェイスロック」。腰が折れるほどの衝撃が走る「キャメルクラッチ」や「ボウバックブリーカー」。さらに、宙に吊り上げられる「ロメロスペシャル」や、膝をねじ切る「ドラゴンスクリュー」。三角絞めで視界が暗転し、コブラツイストや逆エビ固めで全身の骨がきしむ音がする。仕上げに、高角から落とされるパワーボムが、彼女の意識を飛ばしそうになった。

いっちゃんは悶え、苦しみ、幾度も涙を流した 。けれど、降参だけはしなかった。

「……もう一度、お願いします……!」

その声はかすれていたが、かつて中学の砂場で響かせた、あの真っ直ぐな意志に満ちていた。


3.魂の色、エメラルド

ついにデビューが決まった日、いっちゃんは一着のコスチュームを手渡された。それは彼女の希望で作られた、鮮やかなエメラルドグリーンの装束だった。

「……綺麗。これ、すごく気に入りました」

キラキラと輝くスパンコールを指先でなぞる。それは、数々の技を受け、傷だらけになった自分の魂を包み込む「最強の鎧」のように思えた。

宣材写真の撮影現場は、奇しくもモデル時代に何度も通ったあのスタジオだった。かつての彼女は、カメラのレンズを「自分を奪う市川の瞳」のように感じ、震えていた。だが、今のいっちゃんは違った。エメラルドのコスチュームを纏い、レンズの前に立つ彼女の背中には、鍛え抜かれた筋肉と、地獄のトレーニングを耐え抜いた誇りが宿っていた。

「いっちゃん、いい笑顔だ! いや、前よりもずっと『強い』笑顔だよ!」

カメラマンの賞賛が飛ぶ。

かつては「自分ではない誰か」を演じて輝いていた場所に、今は「市原いずみ」として、ありのままの自分を晒して立っている。シャッター音が響くたび、過去の呪縛が一つずつ剥がれ落ちていくのを感じていた。いっちゃんは確信していた。このエメラルドの光とともに、私はもう二度と、誰にも屈しない。


第5章:まばゆい光の洗礼

1.決戦前夜:鏡の中の「二人」

試合前日の夜、都内にある自宅の鏡の前で、いっちゃんは自分の体をじっくりと見つめていた。有名雑誌の専属モデルとして、これまで何万回と繰り返してきたルーティンだ。けれど、明日守るべきなのは「完璧なポーズ」ではなく、自分自身の「尊厳」なのだ。

(いよいよ明日なんだ……。モデルじゃなくて、レスラーの『いっちゃん』として立つ初めてのリング)

クローゼットには、特注のエメラルドグリーンのコスチュームが静かに出番を待っている。相手の豊田麻子は、自分と同じように芸能界からプロレスに身を投じた先輩だ。

(麻子ちゃんも、アイドル時代はあんなにキラキラしてた。きっと、私と同じ不安を抱えて、それでも自分を変えたくて頑張ってきたんだよね。明日は、お互いの新しい門出になるような、良い試合をしたいな)

いっちゃんは、まだ麻子の胸に渦巻く「執念」を知らない。自分と同じ「光」を求めている仲間だと、純粋に信じていた。

(大丈夫。私には、あの砂場を飛び越えてきたバネがある。あの日、路地裏で奪われた私の自由を、今度はこの足で取り戻すんだ)


2.鉄の匂いと香水の記憶

試合当日、会場となるホールに足を踏み入れた瞬間、いっちゃんは鼻を突く独特の匂いに圧倒された。モデルの仕事現場にある、高級な香水やヘアスプレーの匂いではない。湿布と、汗と、そして少しだけ血の混じった「鉄」のような匂いだ。

「おはようございます! 今日はよろしくお願いします!」

元気よく挨拶をするいっちゃんだが、すれ違うレスラーたちの視線は冷ややかだった。

「……フン、モデル様のお出ましだ」

そんな陰口が聞こえてきても、彼女は無理に笑顔を作った。

(いいの、今は何を言われても。私の本気、リングの上で見てもらえばわかるはずだから!)

控室の隅で、一人コスチュームに袖を通す。エメラルドグリーンの布地が肌を締め付けるたび、心臓の鼓動が早くなっていくのがわかった。手入れの行き届いた指先が、わずかに震える。

(落ち着いて、いっちゃん。あんなに練習したんだから。エメラルド・ジャンプを決めれば、きっとみんな認めてくれる)

そこへ、対戦相手の麻子が通りかかった。いっちゃんが「よろしくお願いします」と会釈をすると、麻子は一瞬だけ足を止め、氷のように冷たい視線を投げかけてきた。挨拶すら返さないその態度に、いっちゃんの心に初めて小さな「ささくれ」ができた。


3.硝子のランウェイへ

「第1試合、30分一本勝負――!」

華やかな入場曲がいっちゃんの背中を押し、煌びやかな照明が花道を照らし出した。ゆっくりと、けれどアスリートらしい確かな足取りで、いっちゃんは歩き出す。

(わあ……すごい。モデルのランウェイとは、全然違う熱気!)

視界を埋め尽くす観客。怒号のような歓声。全身を突き抜けるスポットライトを浴びながら、いっちゃんは四方の客席に向かって、いつもの「完璧な笑顔」を振りまいた。まだ、自分のその肢体が、これから男たちの視線に晒され、麻子の嫉妬によって蹂躙される獲物になるとは、夢にも思っていない。

(見てて、私、変わるから。あの日、怖くて動けなかった自分を、今日ここで追い越してみせる!)

リングに上がり、コーナーポストでポーズを決める。28歳のいっちゃんが、人生の再スタートを確信した瞬間だった。彼女は、これから始まるのが「残酷な解体ショー」ではなく、新しい自分を見せるための「最高のステージ」だと、心から信じて疑わなかったのである。


しかし、ゴングが鳴った瞬間に突きつけられたのは、これまで生きてきた世界には存在しなかった、剥き出しの「悪意」と「戸惑い」だった。

「……えっ、ちょっ、何を……っ!? やだっ!」

麻子の攻撃は、いっちゃんが練習で教わった「技術」とは程遠い、執拗で粘着質なものだった。恥ずかし固め。マットに背中をつけられ、観客の目の前で、無理やり両脚を大きく開かされる。モデルとして「いかに美しく見せるか」を叩き込まれてきたいっちゃんにとって、それはあまりに無防備で、あまりに醜く、女性としての尊厳を土足で踏みにじられるような格好だった。

フラッシュで目の前が真っ白になる。

(やめて……! みんなが見てる、カメラが……!)

顔が火が出るほど熱い。羞恥心で頭がおかしくなりそうだった。リングサイドで光るフラッシュが、自分を祝福する光ではなく、自分を剥製にする冷たい刃のように感じる。何をされているのか、プロレスとしてこれが正解なのか、それともただのイジメなのか。判断する余裕すら奪われていく。

続いて、細い腰を強引に反らされるバックブリーカー。ミシミシと軋む脊髄の音に、恐怖が全身を駆け巡る。さらに、うつ伏せになった顎を力任せに引き上げられるキャメルクラッチが追い打ちをかけた。喉が圧迫され、酸素が途絶える。吐き出したくても声がまともに出ない。

(痛い……苦しい……っ! 助けて、誰か……。どうして、麻子ちゃん、そんなに必死なの? どうしてそんなに、憎そうな顔で私を見るの……?)

キャメルクラッチに捕らわれ、無理やり顔を引き上げられた視界の端で、麻子の瞳が見えた。そこには親近感など微塵もなく、「お前さえいなければ」という剥き出しの嫉妬と、後がない者の狂気じみた執念だけが渦巻いていた。

いっちゃんの心臓が、ドクンと大きく跳ねた。羞恥心と恐怖に塗りつぶされそうになっていた彼女の奥底で、中学・高校と陸上競技に捧げてきた「負けず嫌い」の怪物が、静かに目を覚ました。

(……このまま、終わりたくない。こんな、恥ずかしい姿のままで、負け犬としてリングを降りるなんて……絶対に嫌だ!)

一瞬の隙だった。いっちゃんの反応の薄さに、麻子の力がわずかに緩んだ。その瞬間、いっちゃんは陸上競技で鍛え上げた、爆発的な脚のバネを解き放った。

「ーーーーっ!!」

声にならない叫びと共に体を反転させ、逃げるのではなく、自分を辱めた麻子ちゃんの体に必死にしがみついた。体重を乗せ、なりふり構わずその体を押さえ込む。

「……ワン!」

「……ツー!」

「……、……スリー!」

乾いたゴングの音が、会場に鳴り響いた。内容はボロボロ、技術も未熟。けれど、なんとか掴み取った「勝利」の二文字。

その直後、レフェリーによっていっちゃんの右手が、天高く掲げられた。その瞬間、彼女の視界を覆っていた泥沼のような恥辱が、一気に吹き飛んだ。

(わあ……すごい……!)

天井から降り注ぐ、まばゆいばかりのスポットライト。地鳴りのような拍手と、「いっちゃーん!」と自分の名前を叫ぶ、観客たちの熱を帯びた声。モデルのランウェイで浴びる、計算された冷たい視線とは違う。もっと泥臭くて、生々しくて、熱い――自分の「生」そのものが、誰かに強烈に肯定されているような、震えるほどの全能感。

(私って特別なんだ!)

いっちゃんは、ただ純粋に嬉しかった。自分がこの場所で、誰かの心を動かす新しい「光」になれる。この時は、そう、心の底から確信していた。このランウェイの先に、逃げ場のない底なしの地獄が口を開けて待っているなんて。この瞬間のいっちゃんは、まだ、一ミリも疑っていなかったのだ。


4.地獄からの招待状

勝利のゴングが鳴り響き、レフェリーに右手を掲げられた瞬間。会場を包む割れんばかりの歓声は、いっちゃんの耳の奥で心地よい痺れとなって残っていた。しかし、リングを降り、花道を戻ろうとしたその時だった。セコンドに肩を貸され、よろめきながら去っていく麻子が、すれ違いざまに低く、呪詛のような言葉を吐き捨てた。

「……良かったわね、モデル様。あんたのあられもない姿、会場中の男が舐めるように見てたわよ。汚れたのは、あんたも同じ。せいぜい、その『綺麗な思い出』を大事にすることね」

(……え?)

氷水を浴びせられたような感覚だった。沸き立っていた熱が一気に引き、背筋に冷たいものが走る。麻子の瞳には、敗北の悔しさ以上に、深い沼のような闇がよどんでいた。

会場を出た廊下で、数人の記者がいっちゃんを取り囲んだ。

「デビュー戦勝利、おめでとうございます!」

「最後は気力の丸め込みでしたね。今のお気持ちは?」

いっちゃんは、引きつりそうになる頬を必死に動かし、モデル時代に身につけた「完璧な笑顔」の仮面を被った 。

「……ありがとうございます。本当に、無我夢中でした。皆さんの声援が、私の背中を押してくれました。プロレスって……本当に、熱い世界ですね」

言葉とは裏腹に、胸の奥はざわついていた。

(私の、あられもない姿……。みんな、試合じゃなくて、『それ』を見てたの?)

記者の質問を受け流し、ようやく一人きりになった控室。いっちゃんはベンチに深く腰を下ろし、大きく息を吐いた。静寂。さっきまでの熱狂が嘘のように遠い。

(勝った。私は、勝ったんだ……)

震える手で、エメラルドグリーンのコスチュームの肩紐を下ろす。鏡の中には、汗と涙でぐちゃぐちゃになり、腕や足に赤紫色の痣を作った自分がいた。ゆっくりと衣装を脱ぎ、それを膝の上に広げて眺める。

(この子が、私を守ってくれた。……でも、この子が、私をあの姿にしたんだ)

汗の匂いが染み込んだエメラルドグリーンの布地。それは勝利の勲章であると同時に、自分が晒した恥辱の証でもあるように見えた。いっちゃんはそれを丁寧に畳むと、いつもの、凛とした私服に着替えた。


5.フラッシュの残像

帰宅し、バスルームで一人、鏡の前に立つ。シャワーの熱い湯が、痣の浮いた体を叩く。

(……っ!)

目を閉じると、鮮明に蘇ってくる。麻子に強引に脚を開かされた、あの瞬間の感覚。向けられた無数のカメラのレンズ。フラッシュ、シャッター音。レンズの向こう側にある、好奇の視線。それはモデルとしての「憧れの対象」としての視線ではなく、一人の女を消費し、凌辱するかのような、ねっとりとした欲望だった。

(恥ずかしい……消えたい……。私、あんな姿を……)

屈辱の感情が、黒い泥のように足元から這い上がってくる。あの日、路地裏で襲われた時のトラウマが、別の形をとって自分を締め付けているようだった。しかし、いっちゃんは俯かなかった。濡れた髪をかき上げ、鏡の中の、少しだけ鋭くなった自分の瞳を見つめ返す。

(……ううん。私は、あの日と同じじゃない。あの時、私はただ震えていただけだった。でも今日は……私は自分の足で立ち、自分の手で勝利を掴んだ)

麻子が何と言おうと、観客が何を見ようと。この痛みと、この痣と、そしてこの勝利の感触だけは、自分だけの真実だ。

(見ててよ。私は、見せ物なんかじゃない。私は、レスラーになるんだ)

彼女の視線は、鏡の自分を通り越し、まだ見ぬランウェイの先――地獄のさらに先にある光を見つめていた 。


第6章:ランウェイから地獄へ

1.削り取られていく日常

デビュー戦の勝利から、いっちゃんは取り憑かれたようにリングに上がり続けた。モデルとしての華やかな撮影の合間を縫っては道場へ通い詰め、泥にまみれてマットの砂を噛むような敗北を喫しても、彼女が足を止めることはなかった。 ボロボロになり、何度倒されても最後の一秒まで牙を剥き続けるその姿に、「モデルの余興」と揶揄していた観客たちも、次第にその本気に気づき始めていた。

「いっちゃん、いけー!」

「立て! 立つんだいっちゃん!」

会場に響く声援は、いつしか以前よりも切実で、腹の底から絞り出されるような熱を帯びたものに変わっていった。

しかし、現実はどこまでも甘くはなかった。激しい練習と試合は、彼女が長年守り続けてきた「モデル」としての肢体を、確実に、そして残酷に変えていった。コンシーラーでも隠しきれない青紫の痣、筋肉で太くなった太腿、荒れた肌。

「市原さん、その痣、どうにかならない? 次の撮影、露出の多いドレスなんだけど」

マネージャーからの小言は日に日に増え、かつては引きも切らなかった大きな仕事のオファーが、砂時計の砂が落ちるように少しずつ、確実に減っていった。プロレスにおいても、持ち前の身体能力だけでは超えられない、経験と技術という厚い壁が彼女の前に立ちはだかっていた。

(どっちも中途半端なんじゃないかな。私は、どこに向かってるんだろう……)

焦燥感に胸を締め付けられる中、運命のカードが告げられた。対戦相手は、女子プロレス界の「門番」であり、現役最強と目されるベテラン・紅。 周囲からは「無謀だ」「壊されるだけだ」と反対する声が上がった。けれど、いっちゃんの心は不思議なほど静かだった。

(最恐の相手。……いいじゃない。正々堂々とぶつかって、私のすべてを出し切る!)

「怖い」という本能的な震え以上に、自分のすべてを賭けてみたいという純粋な闘争心が、彼女を突き動かしていた。


2.麻子の転落

試合前日の夜。最終的な確認のためにスマートフォンを開いた彼女の目に、ネットニュースの片隅にある動画が飛び込んできた。心臓が、嫌な音を立てて波打つ。 そこに映っていたのは、あの麻子だった。 かつての清楚なアイドルの面影は、どこにもなかった。卑猥なほどに露出の多いコスチュームを纏わされ、虚ろな瞳で、男に蹂躙されるがままの、あられもない姿をカメラに晒している。

「……っ!」

いっちゃんは逃げるようにスマートフォンの画面を伏せた。指が小刻みに震えて止まらない。もしあの日、自分が負けていたら。もしあの日、立ち上がれなかったら。鏡の向こう側にいたのは、自分だったかもしれない。暗い部屋の中で、いっちゃんは壁に掛けられたエメラルドグリーンのコスチュームを手に取った。指先でスパンコールの冷たい質感を確かめる。

(麻子ちゃん……。あなたの絶望を私は背負うことはできない。でも、忘れることもできない)

明日、自分を待っているのは紅という名の「鬼」だ。そこは、麻子が今いる場所よりも、もっと凄惨で、もっと厳しい場所かもしれない。それでも。

「……飛ぶんだ。私」

いっちゃんは自分に言い聞かせるように、コスチュームを強く抱きしめた。自分の誇りを、そして踏みにじられた誰かの想いを、この翼に乗せて。ランウェイの先にある地獄を、彼女はもう一度、その瞳に焼き付けていた。


3.運命の朝、静かな儀式

試合当日の朝。午前六時。 いっちゃんは、モデルの仕事で借りている都内のマンションで目を覚ました。カーテンを開けると、かつて中学の校庭で浴びた温かい夕焼けとは違う、青白く、鋭い朝の光が部屋に差し込む。 彼女は鏡の前に立ち、ゆっくりと冷たい水で顔を洗った。

(今日、私は生まれ変わる)

クローゼットから取り出したのは、かつての自分を守ってくれた柔らかな私服ではない。バッグに丁寧に詰められた、あのエメラルドグリーンのコスチューム。祈るような気持ちでそのバッグを抱きしめ、彼女は慣れ親しんだ街へ、戦場へと向かう一歩を踏み出した。


4.鋼の鎧を纏う

会場の控え室。いっちゃんは、モデル時代の華やかな着替えとは全く違う「重み」を感じながら、コスチュームに袖を通していた。かつての撮影現場では、衣装に着替えることで救われていた。今は、自分の肉体そのものを武器に変えるための、鋼のような覚悟の感触。鏡の中に映る自分は、もはや「被害者」でも「お嬢様モデル」でもない。引き締まった太腿、地獄のようなトレーニングで作り上げた腹筋。

「……よし」

彼女は最後に、エメラルドのスパンコールを強く撫でた。それは、過去の自分と今の自分を結びつける、たった一つの絆のように思えた。

着替えを終えたいっちゃんは、礼儀として対戦相手である紅の控え室を訪れた。

「市原いずみです。本日はよろしくお願いします」

深く頭を下げた彼女に返ってきたのは、返事ではなく、肺が凍りつくような冷たい沈黙だった。紅はいっちゃんの顔を見ることもなく、ただ一言だけ吐き捨てた。

「……プロレスごっこなら、他所でやれ。ここから先は、命のやり取りだ」

その言葉は、かつて市川が投げかけた嘲笑よりも鋭く、彼女の胸を貫いた。だが、今のいっちゃんは、もう震えて立ちすくむだけの少女ではなかった。


5.最後の助走路、真実のランウェイ

いよいよ、試合会場へと向かう時間が来た。 控え室から扉へと続く長い廊下。いっちゃんが歩き出す。その一歩一歩は、かつて中学の校庭で、砂場へ向かって加速していったあの助走路と重なっていた。「市原いずみ、跳びます!」と叫んだあの日、空を掴もうとした指先。その足取りは、まばゆい照明を浴びて、誰かを幸せにするために歩いたファッションショーのランウェイとも重なっていた。会場の扉の前に立つ、いっちゃんの背中。それはモデルとしての優雅さを保ちながらも、かつてないほどに力強く、そして孤独だった。

(これは、私が見つけた、私だけのランウェイ)

彼女は重い扉を、自らの手で押し開けた。


その先に待つ地獄へ、彼女は自らの足で踏み出していった。

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