1 硝子のランウェイ、泥濘の洗礼
はじめまして(お読みいただく前のお願い)
数ある作品の中から、このページを開いてくださり、本当にありがとうございます。
初めて「小説家になろう」に投稿させていただきます。右も左もわからない初心者で、操作一つひとつに緊張していますが、ずっと自分の中で温めてきた物語を形にしたくて、執筆を始めました。
不慣れなため、読みづらい点などあるかと思いますが、精一杯書き進めていきたいと思っています。
閲覧にあたっての注意点
本作は、絶望の淵に立たされた主人公の再生を描く物語ですが、テーマの性質上、以下のような描写が含まれます。
• 過去の辛い経験(性被害など)に関する回想や、心の葛藤
• 女子プロレスの試合等における、激しい痛みや流血、怪我の描写
• 精神的に追い詰められるような重いシーン
これらは犯罪や暴力を肯定する意図は一切ございませんが、読む方によっては強いショックを感じたり、お気持ちが沈んでしまう可能性があるかもしれません。
もし「少しでも辛いな」と感じた時は、無理をせず、すぐに閲覧をお控えください。
作品のテーマと設定について
• 本作はR15設定および**「残酷な描写あり」**の設定にしています。
• 物語の根底には**「被害者と加害者の境界線はグラデーションである」**という考えがあります。誰しもがどちらの立場にもなり得るという人間の多面性や、その果てに辿り着くそれぞれの場所を描きたいと思っています。
• 登場する人物や団体はすべて架空のものです。
執筆環境について(AIの使用明示)
本作は、執筆の補助として生成AI(AIアシスタント)をパートナーとして活用しています。
私自身、視覚障害や難聴といった体調面での制約があり、長い文章を一人で整えることが難しい場面があります。そのため、私が考えたプロットや言葉、込めた想いをAIに伝え、表現の肉付けや文章の整理を相談しながら原稿を作り上げています。
物語の核心はすべて私自身の経験や想いから生まれたものですが、AIという最新の補助具を借りて表現していることをご理解いただけますと幸いです。
感想・評価などの受付について
本作では、感想、評価、レビューの受付をすべて停止させていただいております。
まずは自分自身の心身を整えつつ、自分のペースでこの物語を最後まで書き抜くこと、そして一つひとつの言葉を大切に紡ぐことに集中したいと考えております。あたたかく見守っていただけますと幸いです。
更新は少しずつになるかもしれませんが、この物語がどこかの誰かの心に、微かな光として届くことを願っています。どうぞよろしくお願いいたします。
プロローグ:噛み合わない視線
都内某所。地下にある多目的ホールを借り切った会見場は、むせ返るような男たちの熱気と、そして安っぽい芳香剤が混じり合った独特の匂いに満ちていた。天井の低い空間には、無機質なパイプ椅子が並べられ、壁際に陣取ったカメラマンたちが放つ無数のフラッシュが、不規則なリズムで視界を白一色に塗りつぶしていく。その中心、安っぽい会議テーブルを挟んで、決定的に異質な二人の女が座っていた。
「今回の試合、とっても楽しみです! 私の『エメラルド・ジャンプ』で、プロレス界に新しい風を吹かせたいなって!」
マイクを握り、レンズの向こう側にいるであろう数万人のファンへ向けて「完璧な笑顔」を向けるのは、市原いずみ。ファッションモデルとしての「いっちゃん」だ。 有名雑誌の専属モデルとしてトップを走りながら、中学・高校時代は走り幅跳びの有力選手として国体の舞台にも立った。その異色の経歴が、彼女を格闘技界の寵児に押し上げていた。スポットライトを弾くエメラルドグリーンのドレスは、殺伐とした会見場においてあまりに眩しく、そこだけが別の時間が流れる華やかなランウェイであるかのような錯覚を抱かせた。デビュー戦で元アイドルの麻子を破って以来、彼女はこの熱狂の中に、自分の新しい居場所を見つけたつもりでいた。
しかし、その隣で不機嫌を隠そうともせず、組んだ腕をピクリとも動かさない女がいた。女子プロレス界の門番にして、容赦なき「鬼」と呼ばれるベテラン、紅。 使い込まれた黒のレザージャケットが、彼女が動くたびに「ギュッ」と硬い音を立てる。紅はいっちゃんが語る夢や期待に対し、ただの一度も視線を合わせようとはしなかった。その沈黙は、雄弁な侮蔑として場を支配していた。
「……おい、モデル」
紅の低く、地を這うような声が、マイクを通さずに会見場の空気を切り裂いた。騒がしかった記者たちの私語が、引き潮のように消えていく。
「お前、ここをどこだと思ってる? ファッションショーか? 汗をかいて、ちょっと痛い思いをして、それで『頑張った私』を売り込みに来たんだろ」
「え? いえ、そんなつもりじゃ……私は本気で、この世界に……」
いっちゃんの頬がわずかに痙攣し、モデルとして何万回も練習してきた「隙のない笑顔」に、目に見えない亀裂が入る。視界の隅で、紅の指先が机をトントンと叩くのが見えた。そのリズムは、いっちゃんの焦燥を煽るように正確だった。
「本気? 笑わせるな。お前のその薄っぺらい覚悟、リングの上でへし折ってやるよ。泣いて、叫んで、マスカラがぐちゃぐちゃに落ちたお前の顔……楽しみにしてるぜ」
紅はマイクを放り投げると、背後にあるパイプ椅子を大きな音を立てて蹴倒し、一度も振り返ることなく退席した。会場には、倒れた椅子の金属音だけが冷たく残響していた。
残されたいっちゃんは、まだその言葉の本当の意味を理解していなかった。それどころか、この緊張感さえもが「プロフェッショナルの洗礼」であるかのように、どこか高揚した気分で受け止めていた。
「あはは……怖い先輩ですね。でも、正々堂々とぶつかります!」
再びカメラに向けられたその笑顔。 それが、彼女のこれまでの人生における最後の「無垢な笑顔」になることを、彼女はまだ知らなかった。
第1章:硝子のランウェイ
1.エメラルドの光、鉄の匂い
試合当日。会場を包む空気は、モデルの仕事現場にあるような洗練された香水の残り香とは無縁だった。鼻を突くのは、古びたマットのゴムの匂いと、大勢の男たちが放つ熱気、そしてどこからか漂う鉄のような血の匂い。 煌びやかな入場曲がホールに響き渡ると、重いカーテンを割り、いっちゃんが花道へと足を踏み出した。
天井から降り注ぐまばゆいスポットライトの束が、彼女の全身を逃げ場のないほど鮮明に射抜く。特注のエメラルドグリーンのセパレートコスチュームは、激しい照明を反射して鱗のように明滅していた。スポットライトは、陸上競技で長年培われたしなやかな太腿の筋肉の躍動を縁取り、モデルとして極限まで磨き上げられたウエストのくびれを、残酷なほど際立たせている。観客たちのどよめきが、彼女の歩みに合わせて波のように広がっていった。
2.震える鼓動、再スタートの誓い
(大丈夫。私には、あの砂場を飛び越えてきたバネがある)
いっちゃんは、コスチュームの下で激しく波打つ鼓動を鎮めるように、深く息を吐いた。28歳。モデルとして頂点を極めながら、彼女はこの痛みの世界を「人生の再スタート」の場所に選んだ。 脳裏をかすめるのは、あの雨の夜の路地裏。自由を奪われ、声も出せずに震えていたトラウマ。あの時、逃げ場のない絶望に押し潰された自分を、肉体同士が剥き出しでぶつかり合うこのリングの上で上書きしたかった。
彼女は四方の客席に向かって、大きく手を振り、いつもの「完璧な笑顔」を振りまいた。その一挙手一投足は、これから始まるのが身体を壊し合う残酷な儀式であることを忘れさせるほど優雅で、まるで華やかなファッションショーのランウェイを歩いているかのようだった。
3.泥濘の洗礼
リング中央に立ったいっちゃんは、試合開始のゴングを待つ間、先月のデビュー戦の記憶を反芻していた。相手は、自分と同じように芸能界から転身した「豊田麻子」。同じ他業界からの侵入者として、どこか親近感さえ抱いていたが、ゴングが鳴った瞬間に突きつけられた現実は、あまりに非情だった。
麻子の攻撃は、お世辞にも「プロレスの技」とは呼べない、執拗で粘着質な暴力の塊だった。モデルとして「いかに美しく見られるか」を追求してきた身体にとって、それはあまりに無防備で、屈辱的な洗礼だった。顔面を襲う熱い衝撃、鼻を突くマットの汗の匂い。
(えっ……、ちょっと……!?)
戸惑ういっちゃんの視線の先で、麻子の瞳がギラリと光る。そこには親愛の情など微塵もなく、「お前さえいなければ」という剥き出しの執念だけが渦巻いていた。その熱量に、いっちゃんはただ圧倒されるしかなかった。
4.存在の証明、全能感の罠
けれど、アスリートとして、そして一人の女として培ってきた「負けず嫌い」の怪物が、いっちゃんのなかで静かに火を噴いた。
(このまま、終わらせてたまるもんか……!)
一瞬の隙。いっちゃんは陸上で鍛え上げた爆発的なバネを使い、必死に麻子を跳ね除け、なりふり構わず麻子の体を押さえ込んだ。
「……ワン」
「……ツー」
「…………スリー!」
終幕を告げるゴングが耳を打つ。内容はボロボロで、技術の欠片もない勝利だった。けれど、掲げられた自分の右手の先に見た景色は、これまで見てきたどの光よりも眩しかった。
地鳴りのような拍手と、自分の名前を叫ぶ何千もの熱い声。それはモデルのランウェイで浴びる計算された視線とは違う、もっと泥臭くて、自分の「生」そのものが全肯定されているような、震えるほどの高揚感だった。
いっちゃんは、ただ純粋に、この場所に「光」を見出した。自分がこのリングで、誰にも奪われない自分になれると確信したのだ。このランウェイの先に、底なしの泥沼という地獄が口を開けて待っていることなど、この時の彼女は一ミリも疑っていなかった。
第2章:握り潰されたプライド
1.岩の密度、軋む指先
ゴングの音が、耳の奥で冷たく響いた。リング中央で対峙した紅の肉体は、いっちゃんよりも一回り小柄なはずなのに、そこにあるのは圧倒的な「個」の質量だった。鍛え上げられた筋肉は、触れずともその密度が岩のように硬いことが伝わってくる。
「来いよ。モデル。挨拶だ」
紅が両手を差し出す。プロレスの基本、手四つの力比べの誘いだ。いっちゃんは、アスリートとしての礼儀を重んじ、その手に応じた。だが、指と指が絡み合った瞬間、彼女の表情は恐怖で凍りついた。
ミシミシッ……!
「あ、痛っ……!」
紅の指の力が、いっちゃんの細い指関節を粉砕せんとばかりに食い込む。ネイルサロンで丹念に手入れされた爪が、紅の岩のような硬い皮膚に押し潰され、割れそうなほど歪んでいく。
「どうした? 綺麗な指が台無しだな」
冷笑と共に手首を捻り上げられ、いっちゃんは逃げ場のないマットにねじ伏せられた。
2.蹂躙される肢体
紅が上から覆いかぶさり、その圧倒的な体重が細い体にのしかかる。
(重い……! 人間の重さじゃない!)
肺から酸素が押し出され、視界がチカチカと明滅する。押し潰される圧迫感の中で、かつて路地裏で男性に襲われ、自由を奪われたあの日の記憶が、どす黒い濁流となって脳裏をかすめた。いっちゃんはパニックになりかけながら、なりふり構わず這い、必死の思いでロープへと逃れた。
しかし、一度距離を取ったいっちゃんに対し、紅の攻撃はさらに陰湿さと苛烈さを増していく。髪の毛を掴んでのヘア・ホイップ。いっちゃんの身体は雑巾のように軽々と宙を舞い、受け身も取れずに硬いマットへ背中から叩きつけられた。
「顔はやめて! 仕事が!」
その叫びを嘲笑うように、紅はコーナーポストに追い詰めたいっちゃんの顔面を、迷いなく踏みつけた。トップロープを掴んで全体重を片足に乗せ、いっちゃんの頬骨を靴底でグリグリと踏みにじる。
「んぐっ、ぐぅぅぅーーっ!」
靴底にこびりついた泥の味と、息ができない苦しみ。いっちゃんの美しい顔が歪み、抗いようのない涙が滲んだ。
3.場外の奈落
紅はいっちゃんをリング中央に引きずり出すと、逃げ場を塞ぐようにコブラツイストに捕らえた。 モデルの命とも言えるしなやかなウエストが、限界を超えて引き絞られる。肋骨が悲鳴を上げ、いっちゃんの口から「ギブ、ギブ……いやだぁ……」と弱々しい声が漏れた。
「ぬるい! リングの下で根性叩き直してやる!」
紅はいっちゃんの髪を力任せに掴むと、そのままトップロープ越しに場外のコンクリートへ放り投げた。
ドサッ!
場外マットの感触は薄く、すぐに硬いコンクリートの冷気が背中を襲った。観客が悲鳴を上げて逃げ惑う中、紅はいっちゃんを引きずり回し、パイプ椅子が並ぶ客席エリアへと雪崩れ込んだ。
「ひっ、ごめんなさい、許して……!」
狭い通路、無数の足、怒号 。いっちゃんはかつてのトラウマと目の前の暴力が混ざり合い、完全なパニック状態に陥っていた。
4.鉄の咆哮
紅はそこにあった長机にいっちゃんを叩きつけると、観客席からスチール製のパイプ椅子を奪い取った。いっちゃんは長机の上で震え、身を守るように体を丸めて両手で頭を抱えた。
(怖い、怖い、助けて!)
あの日の路地裏と同じ、逃げ場のない絶望。紅は、震えるいっちゃんの背中に向かって、加減のない力で椅子を振り下ろした。
ガシャァァァン!!
「ぎゃあぁぁぁぁっ!!」
重い金属音と共に、いっちゃんの絶叫が会場に響き渡る。背中の筋肉が断裂したかのような、焼けるような激痛。衝撃で長机が崩れ、いっちゃんは瓦礫の中に無惨に埋もれた。
「痛い、痛いよぉ……」
もはやモデルのプライドも、カメラを意識したポーズも何もない。鼻水と涙で顔をぐしゃぐしゃにし、いっちゃんは冷たい床をのたうち回った。エメラルドグリーンのコスチュームは黒く汚れ、その輝きを完全に失っていた。
第3章:折れた翼の飛翔、だが……
1.十九カウント目の帰還
「……十六!……十七!……十八!」
レフェリーの無機質なカウントが、遠くで響く。いっちゃんは、血と汗の混じったマットに頬を押し付けたまま、肺の奥から絞り出すような呼吸を繰り返していた。背中は焼け付くように熱く、指先一つ動かすのにも、全身の神経が悲鳴を上げる。
(……あ……)
視界の端で、紅がリングの上から冷ややかに自分を見下ろしているのが見えた。その瞳には、獲物を仕留めた後のような退屈ささえ漂っている。
「……十九!」
その瞬間、いっちゃんの指先が、硬いマットの縁を強く掴んだ。極限の痛みが、逆に彼女の意識を現実へと引き戻す。喉の奥に広がる鉄の味。それは、あの日の路地裏で味わった、ただ震えるだけの「被害者」の味ではなかった。いっちゃんは這いつくばりながら、泥臭くエプロンに手をかけ、カウントぎりぎりでリングの中へと転がり込んだ。
2.エメラルド・ジャンプ
トドメを刺しに歩み寄る紅。その圧倒的な威圧感を前にして、いっちゃんは残ったすべての力を、その両脚に集約させた。中学時代の校庭、夕焼けに染まった砂場、あの踏み切り板の感触。二十八歳。モデルとして、そしてレスラーとして。彼女は今、人生で最も重い助走を開始した。 マットを強く蹴る。その一歩ごとに、過去の絶望を振り払う。
「いっけぇぇーー!」
いっちゃんの身体は、高く、あまりにも高く舞い上がった。空中で完璧な弧を描くドロップキック。その一撃が、紅の強固な顎を真っ向から射抜く。どよめきが歓声へと変わる中、いっちゃんは止まらなかった。ふらつく身体でコーナー最上段へ駆け上がる。
(今だけは……私は、自由だ!)
重力に逆らうように飛び込んだ「ダイビング・ボディプレス」。空中姿勢は、かつてのどの跳躍よりも美しく、残酷なほどに完璧だった。全体重を乗せた一撃が紅の腹部に突き刺さり、マットが大きな音を立てて波打った。
3.逆「く」の字の絶望
「とった! ギブアップしろぉ!」
いっちゃんは紅の足首を死に物狂いで抱え込み、アキレス腱固めを極めた。指関節の痛みも、背中の激痛も、すべてはこの瞬間のためにあった。会場の熱気が爆発し、勝利の予感にいっちゃんの瞳が輝いた。
しかし、悪夢は終わらなかった。紅は痛む足を引きずりながらも強引に立ち上がり、いっちゃんの顔面を、迷いのない、鋼のような蹴りで射抜いた。
「……っ!」
衝撃で視界が弾け、仰向けに倒れたいっちゃんの腹部に、紅の全体重を乗せたダブル・フットスタンプが突き刺さる。
グエッ!
肺の中の酸素が、胃液とともにすべて吐き出された。さらに、紅はいっちゃんの軽い身体を、まるで使い古された案山子のように持ち上げた。アルゼンチン・バックブリーカー。
「あぁぁっ! 腰が、腰がぁぁっ!」
紅の太い肩の上で、いっちゃんの肢体は逆「く」の字に折れ曲がった。血が頭に上り、視界がドス黒く鬱血していく。背骨が一つ、また一つと無理やり外されていくような、生々しい感覚。手足は空を掻くばかりで、どこにも掴まる場所がない。
「降ろして……お願い、壊れちゃう……!」
4.静寂への沈下
いっちゃんは白目を剥き、口の端から泡を吹いた。視界は点滅を繰り返し、意識の糸が一本ずつ、ぷつりと切れていく。紅はいっちゃんをゴミのようにマットへ投げ捨てると、最後の仕上げに入った。うつ伏せでピクリとも動かないいっちゃんの背中に跨り、その細い顎を両手で掴んで、一気に引き上げる。キャメルクラッチ。
ミシッ、ミシッ……。
「ーーーーっ!!」
いっちゃんは、声にならない叫びを上げた。既に限界を迎えていた腰と背中が、逃げ場のない力で完全に破壊されていく。首が不自然な角度で後方へ逸らされ、呼吸が完全に途絶えた。紅の厚く、熱い胸板が、いっちゃんの後頭部を無慈悲に押し潰す。
(もう……だめ……)
痙攣した指先が、最期の力を振り絞るようにして、三度マットを叩いた。
ギブアップ。
ゴングが乱打され、会場の喧騒が遠のいていく。勝者の入場曲が虚しく流れる中、いっちゃんはマットに突っ伏したまま、自力で起き上がることはできなかった。
第4章:瓦礫の中の「私」
1.残骸のリング
勝者を讃えるテーマ曲が、耳の奥で壊れたレコードのように歪んで響いていた。マットに沈んだいっちゃんの視界は、どす黒い鬱血と涙で細かく刻まれている。肺が空気を拒絶し、指先一つ動かすことさえ叶わない。
「おい、立てるか?」
セコンドの手に抱え起こされた彼女の姿は、もはや凄惨という言葉すら生ぬるいものだった。完璧に整えられていたはずの髪は、紅の汗とマットの埃を吸って無惨に絡まり、切れ上がった唇からは絶え間なく血が滴っている。かつて「芸術品」と称えられたエメラルドグリーンのコスチュームは、彼女自身の涙と涎、そしてのたうち回った際についた黒い汚れにまみれ、誇り高き戦装束は今や無残な残骸と化していた。
2.剥ぎ取られた仮面
「……っ、う……」
いっちゃんは力なく頷くと、ガクガクと小刻みに震える膝を必死に叩いた。一歩踏み出すたびに、破壊された腰から全身に火花が散るような激痛が走る。けれど、彼女は差し伸べられたセコンドの腕をそっと振り払い、自分の足で立とうとした。
そこには、世界を魅了した「モデル・いっちゃん」の天真爛漫な笑顔はもうどこにもなかった。美しく、隙のない「市原いずみ」という仮面は、紅の圧倒的な暴力によって粉々に砕かれ、剥ぎ取られたのだ。だが、腫れ上がった瞼の奥に宿る瞳は、入場時よりも深く、鋭く、昏い光を放っていた。
(怖かった。痛かった。……死ぬかと思った)
震える手でロープを掴み、客席を見渡す。そこにあるのは称賛だけではない。驚愕、同情、そして一人の女が壊れていく様を見た者の、卑俗な好奇心。けれど、いっちゃんはそれらすべてを飲み込んだ。徹底的に叩きのめされ、尊厳を蹂躙されても、自分はあのリングから逃げ出さなかった。その事実だけが、今の彼女を支える唯一の重力だった。彼女は深く、深く頭を下げ、足を引きずりながら、自分だけの地獄へと続く花道を下がっていった。
3.無機質な白、肉の塊
次にいっちゃんが目を開けたとき、視界を埋めていたのは、煌びやかなスポットライトでもエメラルドの輝きでもなかった。それは、すべてを無効化するような、無機質で真っ白な天井だった。
「……あ……っ」
声を絞り出そうとして、彼女は絶望した。キャメルクラッチで極限まで絞り上げられた喉は、呼吸をするだけで焼けるような熱を持ち、音を紡ぐことを拒絶していた。
わずかに身体を動かそうとするだけで、紅に破壊された腰と背中を、電流のような激痛が走り抜ける。鏡を見る必要さえなかった。包帯に固められ、湿布の鼻を突く匂いに包まれた自分の身体。
数日前まで、世界中の羨望を集めていたはずの肢体は、今はもう、自分の意志では制御できない、重く、ただ痛みを訴えるだけの「傷ついた肉の塊」に過ぎなかった。モデルとしての「美」という価値を失った彼女に残されたのは、剥き出しの「生存」という苦痛だけだった。
4.地獄の興行ポスター
静まり返った病室に、足音が響いた。見舞いの花も、労いの言葉も持たず、所属団体の代表が音もなく入ってきた。彼は、いっちゃんの惨状を一度も視界に入れていないかのような無関心さで、ベッドの端に一枚の紙を置いた。それは、鮮やかな色彩で彩られた次回の興行ポスターだった。
「目が覚めたか。……次のカードが決まったぞ」
いっちゃんは声の出ない喉で、ただその紙を見つめた。そこには、再び戦場へと引きずり出される「獲物」としての自分の名前が記されていた。代表は立ち去り際、ドアに手をかけたまま、氷のように冷たい独り言を落とした。
「豊田のようにはなるなよ……」
意味ありげなその言葉が、耳の奥に呪いのようにこびりつく。窓の外には、かつて自分がいたはずの、煌びやかで、軽薄で、光に満ちた世界が広がっている。けれど、今の彼女にとってそれは、ガラス越しに見る遠い星のようだった。 二十八歳のいっちゃんは、無音の病室で悟った。あの日、リングで見たのは地獄の入り口に過ぎなかったのだ。 本当の地獄は、今、この瞬間から始まったのだということを。




