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駅前の幽霊は定時で帰る

作者: 猫じゃらし

朝の通勤ラッシュが始まる午前七時。

神奈川県某駅前の雑踏の中で、真理子はいつものように改札口へと向かう足を止めた。

今日もあの人がいる。同じ場所に、同じ時刻に。


駅前広場の片隅、小さなカフェチェーン店の看板の下。そこに立つ三十代半ばくらいの男性を見つめながら、真理子は息を呑んだ。整った顔立ちに、きちんとアイロンのかかった白いシャツ。紺色のネクタイは完璧な結び目を作り、黒いスマートフォンを両手で握りしめている。朝の陽光が彼の横顔を照らし、まるで油絵のモデルのように美しかった。


彼の周りだけ時が止まったような静寂があった。通勤客たちが慌ただしく行き交い、駅員の声がマイクから響き、電車の発車ベルが鳴り響く中、彼だけが微動だにせず佇んでいる。まるで世界から取り残されたように、あるいは世界を見守るように。


真理子が彼を気にするようになったのは、三週間前のことだった。転職したばかりの新しい職場への通勤路で、毎朝同じ時刻に同じ場所に立つその姿に、なぜか心を惹かれていた。最初は単なる偶然だと思っていた。忙しいサラリーマンが電車を待っているのだろう、と。


しかし、日が経つにつれて気づいた。誰も彼に目を向けない。駅員も、通行人も、まるで彼が見えていないかのように素通りしていく。けれど、彼は確かにそこにいる。真理子にははっきりと見える。


四日目の朝、真理子は勇気を振り絞った。「おはよう」という言葉の代わりに、照れながらも彼の方へ視線を向けた。すると不思議なことが起こった。彼のスマートフォンの画面が光り、真理子の携帯に通知音が響いた。見ると、見知らぬ番号からかわいらしい小鳥のスタンプが送られてきていた。


驚きながらも、真理子は返信した。「誰?」と。すぐに返答があった。照れた表情のウサギのスタンプ。その愛らしさに、真理子の頬は緩んだ。


「もしかして、あの人?」


真理子が駅前の彼を見ると、彼もまた真理子を見つめていた。その瞬間、心の中で何かが繋がったような感覚があった。


それが、奇妙で美しい交流の始まりだった。


毎朝午前七時、真理子は彼とスタンプでやり取りをするようになった。彼は決して声を発することがない。文字を打つこともほとんどなく、ただスタンプだけで感情を伝える。最初はシンプルな挨拶から始まったが、次第に真理子は彼に心を開くようになった。


「昨日、上司に怒られちゃって」と送ると、同情するように眉をひそめたパンダのスタンプ。「新しいカフェ見つけた!」と報告すれば、拍手する犬のスタンプ。彼の返答はいつも的確で、まるで真理子の心を読んでいるかのようだった。


二週間が過ぎた頃、真理子は職場での片思いについて相談し始めた。


「同じ部署の先輩が気になるの。でも、私なんかじゃダメよね」


すると彼からは、力強く応援するペンギンのスタンプと、花を持った熊のスタンプが送られてきた。


「ありがとう。でも、前の恋人のことが忘れられなくて…」


その時、彼からの返信が少し遅れた。やがて送られてきたのは、悲しそうな表情の猫のスタンプだった。


「彼は事故で亡くなったの。二年前に」


真理子がその言葉をタイプした瞬間、駅前の彼の姿がわずかに揺らいだような気がした。きっと朝の陽炎のせいだろう、と真理子は思った。


彼からは、祈るような姿勢の天使のスタンプが送られてきた。その後に続いたのは、そっと抱きしめるクマのスタンプ。言葉はないのに、深い慰めが伝わってきた。


「君って、なんでいつもそんなに優しいの?」


真理子がそう送ると、彼からは照れた顔のウサギと、ハートのスタンプが返ってきた。そのやり取りを見ていると、胸の奥が温かくなった。


ある朝、駅のベンチに小さなメモが貼られているのを真理子は発見した。几帳面な文字で「成仏したけれど、まだ出勤しないといけないんだ」と書かれていた。


真理子は思わず笑った。「幽霊にも労働時間があるの?この駅、労基署より厳しいじゃん」


スマートフォンを見ると、苦笑いする顔のスタンプが送られてきていた。


その日から、真理子は彼の行動パターンを注意深く観察するようになった。午前七時きっかりに現れ、午後五時になると姿を消す。まるでタイムカードを押して帰るかのような規則正しさ。真理子は不思議に思いながらも、その几帳面さに親しみを感じていた。


「定時で帰る幽霊って、なんだか現代的よね」


そんなメッセージを送ると、困った顔の犬のスタンプが返ってきた。


三週間目のある朝、真理子は失恋したばかりだった。職場の先輩に告白したものの、「君は良い子だけど、恋愛対象としては見られない」と丁寧に断られたのだ。


駅前で涙を拭きながら、真理子はスマートフォンに向かって心の内を打ち明けた。


「やっぱりダメだった。私って、誰からも愛されないのかな」


すぐに返ってきたのは、強く首を振る犬のスタンプと、たくさんのハートマーク。その後に、なぜか彼が文字を打ち始めた。


「実は、ずっと──」


真理子は慌てた。彼が文字を打つのは初めてだった。なぜか胸騒ぎがして、急いで返信した。


「スタンプで返して!そのほうが君らしいから」


彼は一瞬立ち止まり、それでもいつものハートスタンプを送った。その瞬間、スタンプに込められた想いの深さを、真理子は感じ取った。でも、その意味を理解するには、まだ時間が必要だった。


数日後、彼が真理子の過去について妙に詳しく語り始めた。スタンプではなく、短い文章で。


「中学生の時、犬に追いかけられて泣いたでしょう」


「高校の文化祭で、演劇部の衣装を手伝ったよね」


「大学の卒業式の日、桜が満開だった」


どれも真理子しか知らないはずの記憶だった。まるで当事者のように、彼女の心の奥底まで見透かすような内容ばかり。


「どうして、そんなことを知ってるの?」


真理子のスマートフォンに残っていた古い写真を思い出した。二年前まで恋人だった健太とのメッセージ履歴。それらと彼の話が完璧に一致していることに気づいた時、真理子の世界は静止した。


心臓が激しく鼓動し、手が震えた。駅前の彼を見つめると、彼もまた真理子を見つめていた。その瞬間、すべてが繋がった。


「健太…?」


真理子が震え声で呟くと、彼からは涙を流すウサギのスタンプが送られてきた。


彼の正体。それは数年前に交通事故で亡くなった元恋人・健太だった。あの雨の夜、彼女の誕生日プレゼントを買いに行く途中で、トラックと衝突した。病院に駆けつけた時、健太はもう息をしていなかった。


真理子は言葉を失った。毎朝、新しい恋の悩みをぶつけていた相手が、かつて最も愛した人だった。そして今も、心の奥底で愛し続けている人だった。


「ずっと、ここにいたの?」


彼からは、頷くクマのスタンプと、申し訳なさそうな猫のスタンプが送られてきた。


「どうして姿を現したの?」


「君が泣いているのを見ていられなくて」という短い文章が返ってきた。


健太の「定時」が近づくにつれ、彼の姿がだんだん薄れていくことに真理子は気づいた。午後五時が近づくと、まるで透明になっていくように。


「行かないで」


真理子は駅前に走った。でも、健太の姿はもうそこにはなかった。


その日から、真理子は毎朝駅前に通い続けた。「まだ話したいことがある」「ちゃんとお別れがしたい」「最後にもう一度」。しかし、健太は現れなかった。彼女のスマートフォンにメッセージが届くこともなかった。


一週間が過ぎた。真理子は諦めかけていた。


ある日の深夜、残業を終えて疲れ切った真理子が家に帰る途中、スマートフォンに通知音が響いた。午後十一時。健太の定時をとうに過ぎた時間だった。


画面には「ありがとう」のスタンプが表示されていた。いつもの可愛らしいスタンプではなく、深く頭を下げる人のシルエット。


その直後、健太からの最後のメッセージが届いた。


「好きだったよ。今も、ずっと」


文字で。初めて、彼の本当の気持ちが文字で綴られていた。


けれど、真理子のスマートフォンはその瞬間、バッテリー切れで画面が真っ黒になった。未読のまま。

メッセージは宙に浮いたまま、受信されることなく消えていった。


画面の向こうで、健太は静かにログアウトした。永遠に。


翌朝、駅前にはもう誰も立っていない。通勤客たちはいつものように慌ただしく行き交い、駅員の声がマイクから響き、電車の発車ベルが鳴り響く。日常が戻ってきた。


けれど、真理子は毎朝そこに立ち続ける。カフェチェーン店の看板の下、健太がいた場所で。


「また、スタンプで返してよ」


そうつぶやきながら、空を見上げる。青い空に、白い雲がゆっくりと流れていく。時には小鳥が飛んでいく。健太が最初に送ってくれた小鳥のスタンプのように。


スマートフォンの画面には、健太との思い出のスタンプが残っている。照れるウサギ、応援するペンギン、抱きしめるクマ。言葉はなくても、確かに伝わっていた想い。


真理子は微笑んだ。涙と一緒に。


愛する人への想いは、時を超えて、今も静かに届き続けている。スタンプという小さな記号に込められた、大きな愛が。


駅前で、真理子は今日も立っている。健太の定時が始まる午前七時に。もしかしたら、もう一度あの小鳥のスタンプが届くかもしれない。そんな小さな希望を抱きながら。

~愛する人への想いは、時を超えて、今も静かに届き続けている~

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