96神と帝
そしてエリオスは本当の目的の場所へ向かった。
いまだに手入れの行き届いた庭園の最奥、その大樹の根元に──墓と、形の悪い石があった。
苔むしたその石には、手書きでこう刻まれている。
エリオス・セレスティア
ディートリヒ・フォン・エーレンベルク
そして、建国の日付。
幾百年の時を経たその文字の間には苔が生え、風雨の跡が刻まれていた。
その傍に、墓があった。
エリオスは、静かに手を掲げる。
次の瞬間、墓に黄金の粒子が降り注ぎ、それらは意思を持ったように形を成していく。
それは──執事が迎賓館の鏡で見た人物。
軍人の鋭さと、政を動かす帝の聡明さを宿した、威厳ある瞳。
「……寝てるんだから、起こすなよ」
「ディー!」
呼び声が空気を震わせる。
エリオスの顔に懐かしさが広がった。
「ほらな、やっぱり成仏してなかった」
「できるかよ、あんな別れで」
「余に会いたかっただろ?」
「……ああ。もう一度だけ、お前の顔が見たかった」
エリオスは自分で聞いたにも関わらず頬を朱に染める。
絶世の美を纏う神の姿でありながら、その素朴な反応はどこか人間らしく、愛らしかった。
金の光が静かに揺れている。
ユリウスはヴァルターを小屋に横たわらせると、迷いなく一歩を踏み出した。
「ディートリヒ・フォン・エーレンベルク陛下──」
深く一礼し、凛とした声で告げる。
「帝国臣下、ユリウス・フォン・エーレンベルク。お目にかかれて光栄です」
ディートリヒは目を細め、微笑を浮かべた。
「……俺の末裔か」
エリオスは横目でユリウスを見やり、口角を上げる。
「こいつ、余には睨み利かせてたのに、ディーにはちゃんと挨拶するなんて。腹黒い」
ディートリヒは小さく笑った。
「あっちの背が高いのは俺の末裔で、アレクっていう。ここまで連れてきてくれたお礼に名を継がせたんだ」
「そうだったか」
ディートリヒはアレクを見つめ、頷いた。
執事――アレクは深々と礼をとる。
「セレスティアの名を継ぐ者、私からも礼を言う。エリオスをここまで連れてきてくれて感謝する」
「ありがたきお言葉。名に恥じぬよう努めてゆきます」
「……ねぇディー。ほんとうの子はつくれなかったけど、この国が余たちの仔みたいなものだよね?」
ディートリヒはゆるやかに頷く。
「無論、そう思ったからそれをよすがにやってきたのだ。お前に生かされた百年を」
その声には誇りと、わずかな疲れが滲んでいた。
ディートリヒは稀代の名帝と呼ばれ、多くの民から敬われてきた。
だがその心の奥では、ずっとひとりの神を想い続けていたのだろう。
エリオスの声が柔らかく震える。
「……気づいてたんだ」
「気づくさ。毎朝お前がマギナの祝福を送ってきていたこと。隕石が降るはずの翌日に、お前が消えたことも」
「それも?」
「ああ。天文官が隕石を発見してな。三日後にはこの地一帯が焼け野原になると告げた。もう、どうにもならなかった。だが――ぶつかる直前に軌道が変わり、存在ごと消えた」
「……」
「そんなことができるのはお前しかいない。案の定、次の日からお前の力は届かなくなった」
エリオスは黙った。
光の粒が彼の頬を照らし、涙がひとすじ、こぼれ落ちた。
「……ディー」
「エリオス、ありがとうな。お前は立派な帝だった。それを……俺がいちばんわかってなかったんだ」
エリオスはもう堪えきれず、ディートリヒの胸に飛び込んだ。
その腕の中で顔を埋め、声を殺して泣いた。
ディートリヒは何も言わず、その髪を静かに撫でた。
「ユリウスといったか」
「はい」
「セレスティアの名を継承する書面の確認をしろ」
その声音には、かつて国を統べた帝の威厳が宿っていた。
長い沈黙と死を越えてもなお、彼が“帝”であることに変わりはなかった。
アレクが恭しくそれをユリウスに手渡す。
ユリウスは眉間に皺を寄せつつ、印章を確かめた。
「国家秘匿永久──承継封緘式文書。効力は現行法でも有効です」
「よし」
ディートリヒは頷き、柔らかく笑う。
「エリオス。お前の意思は継がれるからな」
「ディー、そうだ。これを」
エリオスはアレクの鞄から黄金の果実“陽果”を三つ取り出した。
一つはディートリヒへ、一つは自らが手に取り、そしてもう一つを──ディートリヒの墓の隣の土に埋めた。
指先から金色の光が注がれる。
すると、その場で小さな芽が生まれ、瞬く間に瑞々しい若葉を広げた。
神話ではない。
目の前で、生命が生まれたのだ。
土を掘ったはずの手は、少しも汚れていなかった。
二人は並んで庭のベンチに腰を下ろし、黄金の果実を口にした。
「ディー。美味しい?」
「ああ。……しかしお前、相変わらず美しいな」
「……今までそんなの言ったことないだろ?」
「言ってはないが、ずっと思っていた」
エリオスは、また頬を染めた。
「当たり前だろ……か、神さまなんだから」
「もっとよく見たい」
ディートリヒはその頬を両手で包んだ。
指先の温もりに光が溶けていく。
その黄金の瞳には、ただ一人だけが映っていた。
禁苑に風が吹く。
花々が揺れ、夕焼けの橙に染まる空の色が深く変わっていく。
エリオスは真面目な顔で囁いた。
「次は天国で建国する?」
ディートリヒは柔らかく息を吐き、目を細める。
「それは、やりがいがありそうだ。ただ──一番面倒がかかるのは、お前なのは変わらなそうだ」
エリオスは小さく笑い、ディートリヒはエリオスの涙の跡を指でぬぐう。
「……余を、200年以上もここで待っていたくせに」
二人の身体がゆっくりと光に包まれていく。
やがて輪郭は溶け、風と共に空へ昇った。
「エリオス様!」アレクが叫ぶ。
「あなた様と旅ができてよかった!この上ない幸せな時でした!」
エリオスが手を振った気がした。
残されたのは、新しく芽吹いた黄金の木と、静かな光。
神と帝は、もうそこにはいなかった。
だが、世界のどこかで確かに寄り添い笑っていた。




