9執事の経歴
「このあと少し、執事殿をお借りしてもよろしいか?」
ユリウスがそう言ったとき、茶会の空気は一瞬、静止した。
だがカーチャは、問い返さない。
静かに微笑んで、頷いた。
執事は、わずかに一礼し、声を発さぬまま従う。
その姿は完璧だった。だが、どこか――刃のように張り詰めていた。
邸の奥。
書庫の扉が閉まり、二人きりになった瞬間、空気の密度が変わる。
ユリウスは椅子に腰を下ろし、あえて執事を立たせたまま、語り出す。
「少しだけ――調べさせてもらった。
いや、正確には……どうしても知っておきたかったんだ。
君の“来歴”を」
その声音には、嘲りも侮りもない。
ただ、純粋な興味と、貴族としての礼を忘れない品があった。
「君は、年端も行かない頃、騒動に巻き込まれとある伯爵家に迎えられた。
けれど、そこは……すぐに壊れた。
夫人も、令嬢も、侍女たちも――皆、君に取り憑かれたように狂っていった。
結果、家は崩壊した」
執事の表情は変わらない。
だがその気配が、ふっと、微かに揺らいだ。
「次に君が現れたのは、ある侯爵家。
養子として迎えられ、あらゆる教養を完璧に習得し、
そして――爵位と財産を受け継いだ。まさに理想的な“貴族”の成功例だ」
ここまで語ったあと、ユリウスはわずかに目を細める。
「だが君は、それらをすべて手放し、“執事”という立場を選んだ。
……あえて、だろう?」
その瞬間――執事のまつ毛がわずかに震え、唇が静かに動いた。
「……お見事でございます、殿下。
さながら王の御側付き、陰謀と人心を読み解く天職にございますね」
低く、柔らかく。
だがその声音には、かすかな皮肉が滲んでいた。
まるで“本当にすべて見抜いたつもりか?”とでも言いたげな、冷ややかな微笑。
「……いえ、失礼。
わたくしなどの過去に興味を抱かれるとは、
まさか殿下がお暇を持て余しておいでとは存じませんでした」
それは挑発ではない。
だが、確かに“引っかかる”ような、完璧な皮の一撃。
ユリウスはそれを受けて、ふっと鼻で笑った。
「……気に入っているよ、その口の悪さ。
君がただ従順なだけの男なら、こんな話はしなかった」
ユリウスは視線を背けることなく、続けた。
「――“舞踏会荒らし””野薔薇の貴公子”という輩について。
どこかの伯爵を名乗っているが、妙に……君に似た気配がある。」
そしてユリウスは言った。
「――調べてきてくれ、執事殿。
……これは命令ではない。
**カーチャ殿の執事として、最も信頼する男に、“頼んでいる”**のだ」
執事は静かに一礼し、短く答える。
「……御意」
その声音は変わらず低く、よく整っていたが、
わずかに――ほんの微かに、内圧のような気配がにじむ。
ユリウスは立ち上がり、書架の影を背にしながら、静かに言葉を落とす。
「……だが、過去がどうであれ。
今の君の“執事”という立場では、彼女と結ばれる資格はない」
一拍置き、口元にかすかな微笑を浮かべる。
「――もっとも、それは、本当にありがたい話でもあるんだがね」
静かな静かな、“礼を忘れぬ毒”。
その声音には、敵意も嫌悪もない。
歩き出しかけたユリウスは、ふと肩越しにひと言だけ洒落た言葉を添える。
「……ああ、そうそう。ついでに言っておこう」
振り返りはしない。
だがその声は、舞台の台詞のように美しく響く。
「その点でも、僕は君より“半歩”リードしている。
――“選ばれうる立場”として、ね。」
それは、勝者の言葉だった。
だが、相手の才覚と美徳を知る者だけが放てる、品位を伴った宣戦布告だった。
そして扉が静かに閉まり――
執事は誰にも見せぬ顔で、ひとつだけ息をつく。
“この男――
ほんとうに、面倒な男だ……”