7執事と湯あみ
慰問はつつがなく終わった。
カーチャの静かな「祈りの歌」は、ただの歌ではなかった――
集まった民の頬には、涙が流れていたという。
「カーチャ様……!!」
感涙にむせぶ地方の領主の令嬢に何度も感謝され、
ユリウスの手配もあり一行はその館にて一晩の宿を借りることとなった。
*
湯あみの支度の整った部屋。
香草の湯気が立ちこめる中、
執事は主の長い金の髪を丹念に指の腹で梳きあげながら、静かに問いかける。
「すばらしき歌でございました、カーチャ様。
……そういえば、会場の端に立っていた長身の男、お気づきでしたか?」
「ええ。……不思議な方。よくは見えなかったけれど……
何か、あの場所に不釣り合いな気配がしたわ」
「お調べしましょうか?」
「……別に、危害を加えられたわけではありませんから」
執事は言葉の続きを喉元で呑み、静かに櫛を置いた。
そのとき――
「ちょっと押さないでっ!!!きゃぁぁあああっ!!」
ドガーン!
と扉が不自然な音とともに崩れ、なだれ込んできたのは――
女中たちの山。
そのすき間から、一斉に覗く幾対もの瞳。
「お目通り叶った……」「やっぱり、美しい……!」「傾国の執事様!!!」
ぼそぼそと歓声が漏れる中、一番上の娘がこう呟いた。
「あっ、聞こえちゃってすみません!
多分その殿方は、”野薔薇の貴公子”と呼ばれるお方です……!」
「“野薔薇の貴公子”?」
カーチャの眉がひくりと動く。
「ええ、あまりの美貌に貴婦人が気を失い、騎士は剣を捨ててひざまづくと噂の……。
名前は、たしか――“ヴァルター卿”と……!彼は、悪魔です!」
沈黙。
部屋に、ざわりと湯気が揺れた。
「……なんと、またずいぶんと詩的な名でございますね」
執事は冷ややかに微笑む。
「だってほんとうに、野に咲く薔薇のような美貌なんですって!
しかも決して誰のものにもならず、愛を囁いた女性をすぐに忘れる――」
「……それで、なぜ“悪魔”と?」
カーチャが眉をひそめる。
「女性を破滅させるからですわ!」
と、女中が即答した。
「地方のいくつもの名家のご令嬢が金品やその身を貢ぎ没落しているようで、爵位まで余るほど奪っているとか!」
「恐ろしいわね」
カーチャは湯の中で指先をそっと動かしながら、どこか遠くを見るように呟いた。
「なんだかまるで……あなたを獣にしたみたいなのね、そのお方は」
カーチャは湯の波に頬を預けながら、ちらと執事を見やった。
「ふむ……。それはどれほどの美貌なのでしょうね?」
ほんの少し意地悪く、唇に笑みを乗せる。
「――私よりも、美しいのですか?」
そう言って、ぱちりと瞬きして、女中に向けて無邪気に首を傾げた。
その瞬間――
「ちょ……ちょっと! 〇〇ちゃん! ××ちゃん! しっかり!」
「鼻血が……っ、止まらないっ……!」
「だめよ! あれは……! あれは国宝級の……!」
「生きて……生きて帰れないわよ、あの距離感……ッ!」
「……お嬢様、失礼いたしました」
執事は涼やかに眉を下げ、微笑んだ。
「わたくしの美貌が、また一つ、罪を重ねてしまいました」
「ふふっ……」
カーチャはくすくすと笑った。
けれどその笑みの奥に、少しだけ熱のようなものが灯っていた。
執事が人払いを済ませ、彼自身もまた部屋を出ていった後。
湯の縁に背を預け、カーチャは静かに天井を見上げる。
蒸気の向こうに揺れる灯りを、しばし見つめ――ぽつりと、こぼした。
「……別に、張り合わなくともよいのに。
あなたは、わたくしの、ただ一人のーーーー」
その声音は、まるで――
誰にも触れられぬ宝石を、掌にそっと包むような。
やさしく、そして揺るがぬ確信に満ちていた。