62その光
女帝は鎖の外れたキャビネットを開き、そこから一冊を抜き取った。
革表紙は擦り切れ、幾度も修復の手が加えられている痕がある。それでもなお、この国の始まりを証する価値を失わぬ――そんな気配を帯びていた。
「……これだ」
彼女の指先が撫でるように頁を繰る。
滲んだ文字が、燭火に浮かび上がる。
『私は帝都建設の兵としてその場に居合わせた。
後年、この地に移り住んでから、己の目にした光景を残さねばならぬと考え、ここに筆を執る。
その日、我らは新宮殿の地を拓かんとして、古き祠を打ち壊した。
すると――』
古き文字は震えながらも確かに語り始める。
その記述に導かれるように、場の光が揺らぎ、読む者の眼前に往時の光景が立ち上がった。
***
――帝国建国のはるか昔。
まだこの地に城すらなく、戦乱と流民が行き交っていた頃。
若き将軍ディートリヒ・フォン・エーレンベルクは兵を率い、帝都となる丘に陣を敷いていた。
寡黙で剛毅、しかし情に厚い男。兵は皆、彼を信じていた。無骨で優しく、そして常に先頭に立つ将軍。誰もが彼こそ未来の長だと感じていた。
その日、宮殿建設のために丘を整地していた兵たちが、土の奥から石の祠を見つけた。崩れかけた古いもの、信仰の由来すらわからない。
「……祠、でしょうか」
「縁起が悪い……」
兵の声にディートリヒは鋭く言い放つ。
「構わん。ここに宮殿を建てる。撤去せよ」
ためらいを振り切って命じると、祠は崩れ落ちた。
――光が奔った。
土煙を押しのけるほどの白光。
その中に現れたのは、男とも女ともつかぬ絶世の存在だった。
裸足に白く薄衣をまとい、腰下まで届く髪は金とも銀ともつかぬ透きとおる光。
一本一本が光の線であり、揺れるたびに夜空の星々が解け落ちるかのようだった。
瞳は黄金に潤み、心を映さぬまま覗き込んでくる宝石のような光。
白磁の肌は陽に透け、薄衣の隙間からのぞく肢体は中性的で、しかし均整の取れた青年のものだった。
兵たちは思わず声を失った。
誰もが「神」という言葉を口にしかけ、喉を凍らせる。
「……おい、余の寝床を壊したな」
甘く澄んだ声。幼子のように無邪気で、しかし逆らえぬ威を孕んでいた。
兵は恐れをなして膝を折る。ディートリヒも反射的に跪き、頭を垂れた。
「申し訳ありません。
私はディートリヒ・フォン・エーレンベルク、この地の軍を率いる者です。
ここに宮殿を築き、この地を国の礎とするつもりでした」
黄金の瞳がまばたき、唇が弧を描く。
「ふ~ん?」
そして、無邪気な口ぶりで続けた。
「また願いをかなえろとか言うのかと思ったけど」
ただ立つだけで場を圧倒する存在感に、兵たちは息を呑んだ。
ディートリヒは視線を逸らさず、静かに告げる。
「宮殿を築くこと――それが我らの志です」
「へぇ……」
“神”は楽しげに指を振った。
細く白い指先から、ひとすじの黄金の光が生まれる。
それは球となり、ゆるやかな弧を描きながら宙を漂い、ディートリヒの額に触れた。
瞬間、光はしゃらりと音を立てて砕け、無数の火花のように消えた。
熱も痛みもない。ただ、ひととき肌にかすかな温もりが触れた感覚だけが残る。
――だが兵たちは息を呑んだ。
あまりに容易く人に触れるその力に、まるで命を握られたかのような錯覚を覚えたのだ。
たとえ無邪気な戯れであろうと、この存在が気まぐれに力を振るうだけで、人の生死など容易く左右される。
その圧倒的な実感が、背筋を凍らせた。
「じゃあそのお城の一番良い部屋を余の寝床にしてくれるなら、許してやってもいいぞ?」
飄々とした声音。
兵たちはその無邪気さの裏に潜む恐ろしさを本能で悟っていた。
――この存在は、とてつもなく厄介だ。
沈黙が落ちた。
兵たちの視線がディートリヒへと集まる。
彼は一歩も退かず、黄金の瞳をまっすぐに見据えていた。
やがて、静かに膝を折り、深く頭を垂れる。
「……承知した。最上の部屋を、貴方様に捧げよう」
以後、“神”は建設の現場に姿を現した。
昼は石積みを眺め、時に兵の肩に顎をのせて昼寝をし、夜は平然とディートリヒのテントに入り込み、寝袋に潜り込む。
その仕草のすべてが愛らしく、危うく、兵たちは恐れ多く声を上げることすらできなかった。
ただ一つの共通認識があった――「神への対応はディートリヒに習うべし」。
将軍が供える葡萄や酒を口にする姿を見て、兵はますます畏敬を抱いた。神は食を要しないはずだと知りながら、律儀に供物を続ける将軍の姿勢にこそ、人の矜持を見たのだ。
“神”の美しさは、日を追うごとに人々を惑わせた。
薄衣の裾が風に舞い、裸足の白い足首がのぞくたび、兵は思わず息を呑む。時に「ドレスを着せたらどうか」と猥談に花を咲かせる夜もあった。だが、実際にその姿を目前にすれば、軽口は喉に貼りつき、畏怖に変わった。
長い髪は常に光をまとい、触れると微かに熱を帯びていた。
だが時にマギナが暴走し、髪は兵たちを絡め取り、二十人がかりで解かなければならないこともあった。その後は必ず熱を出し、一日寝込む。
その度にディートリヒは冷たい布を額に当て、静かに看病した。
「……涼しい」
神は子供のように呟き、安らかな寝顔を見せた。
兵は見ていた。寡黙な将軍が、この厄介で美しい存在に心を砕いていることを。
それは恋か、信頼か、誰にも断じられない。
ただ確かなのは――この出会いが、建国を導く始まりであるという事実だけだった。
あとがきミニ台詞(心の声Ver.)
モモ(心の中):
「……ちょっと待って。“寝袋に潜り込む”って……?! え、みんな普通に聞いてるけど?! これ、さらっと流していい話なの……?!」
――ヴァルターは相変わらず無表情のまま腕を組み、
――黒衣の従者は、わずかに視線を伏せて沈黙を守った。その横顔は冷ややかに整っていたが、長い睫の陰にほんの僅かな陰影が走った。
――執事に至っては涼しい顔で控えたまま、ひとつ咳払いするだけ。
モモ(心の中):
「な、なんで誰もツッコまないのよっ……! ……え? 黒衣の従者様、ほんのちょっとだけ聞き耳を立ててなかった……?」




