53隣国王都、迎賓の間
二日間の旅路は、穏やかなものだった。
帝都を出立した名誉元帥ヴァルター・フォン・ロゼンクロイツ一行は、
途中の軍事施設で一泊し、翌日、隣国王都へと到着した。
正式な表敬の挨拶は明朝に行われる。
今宵は各国の要人が集う晩餐会が催される手はずとなっており、
それまでのあいだを過ごすよう、ヴァルターと随行者たちは、
宮離宮の一角にある上位賓客用の区画へと案内された。
隣国からの厚遇に応じ、用意された部屋は二つ。
一室は名誉元帥のため、もう一室は従者三名のための大部屋であるはずだった。
だが、割り振りを確認したヴァルターは、案内役にただ一言、こう告げた。
「黒衣の男は、私の護衛です。同室で構いません」
それだけで、誰も異議を唱えなかった。
彼の言葉には、理由を説明する必要さえなかった。
部屋は二間続き。応接間には重厚な家具と簡素な書き机、奥の寝室には天蓋付きの寝台が一つ。
ヴァルターは荷を解き、礼装のしわを正すと、ひとつ息を吐いた。
扉が、音もなく開く。
「……お疲れ様でございました。黒衣の君」
深いフードをかぶった男が現れる。
漆黒の衣に身を包み、夜の気配をまとったその人影に、誰であるかを問う必要はなかった。
ユリウス・フォン・エーレンベルク。
帝都の皇族執務棟を預かる、次代の帝王。
その金髪は、黒衣の際には決して外に見えぬよう、首元で丁寧に束ねてあった。
髪ひと筋すら隙を許さず、まるで己を封じる檻のように。
「随分な呼び名だな」
フードの奥から低く返された声音には、微かな皮肉が滲んでいた。
「吾は夜の間、外に控えております」
その声に、ユリウスはぴたりと足を止めた。
フードの奥の瞳が、鋭く光る。
「……いや。出ていく必要はない」
ヴァルターの瞳が揺れる。だが、即座に返事をせず、ただ静かに受け入れるように頭を垂れた。
「……承知しました」
ユリウスは一歩、部屋の中へと進む。
「だが、”護衛”に寝首をかかれぬことだな」
軽口にヴァルターは静かに頭を垂れる。
「……それは、十分に留意いたしましょう」
そして、伏せた睫毛の奥から黄金の双眸を向けて言う。
「ただ、“力”となりますと……吾のほうが分があるのでは?」
挑発めいてはいたが、そこに揺らぎはない。
己の力に誇りを持ち、なお殿下の手足たるに最適と信じる者の静けさだった。
ユリウスは足を止め、無言のまま、ゆるやかに腕を伸ばす。
「……その慢心、どこまで許そうか」
囁くような声とともに、手袋の指先がヴァルターの顎に触れる。
黒い鹿革。しなやかで、滑らかで、温度を遮る柔らかな檻。
触れるようで、触れない。
だが、それだけで“支配”は確かに成立していた。
顎先をそっと押し上げるようなその指に、
ヴァルターは逆らわず、静かに顔を上げた。
従順に、そして――あまりに、美しく。
……視線が交錯した一瞬の静寂。
ユリウスの指先が、わずかに離れる。
「……くだらん。それよりも――」
ユリウスはフードの奥から視線だけを向ける。
「お前、まさか本当に何も考えていないなどとは言わせんぞ?」
その声音に、柔らかな毒が滲んだ。
「この招待、女帝の狙いは明白だ。大方、お前を引き抜く気なのだろう」
そう言って、ユリウスは椅子に腰を下ろし、卓上の地図に目を落とす。
その声音には、明確な警戒と苛立ちが滲んでいた。
「貴方様のご命令とあらば、吾は諜報でも、亡命でも――お心のままに」
ヴァルターは、ゆるやかに歩み寄る。
そして、音もなく膝をついた。
紅と黒の礼装が静かに床に広がる。
伏せられた睫毛の奥、その表情は曇りも怯えもなく、ただ真摯だった。
ユリウスは沈黙のまま、フードに手をかける。
ゆっくりと、それを外す。
封じられていた金の髪が、束を解かれ、ふわりと肩に落ちる。
そこに現れたのは、誰もが認める帝の器――白皙の肌、冷ややかに光る蒼の双眸。
それはまさに“威厳”そのものだった。
「……何度も言わせるな」
声は低く、だが心の奥に強く響いた。
「……お前には私の傍を離れることを――許していない」
それは命令ではなく、願いでもなく、哀願ですらない。
ただ、“必要”という名の、否応ない結論だった。
ヴァルターの口元に、うっすらと微笑が浮かぶ。
――まるで、初めからすべてを察していたかのように。
そして、深く、深く、頭を垂れる。
「――御意」




