50下弦の月
館に足を踏み入れてすぐ、モモは古びた帳簿棚に目を留めた。
「……あ、来賓帳だ。こんなところにまだ残ってるなんて」
指先で埃を払い、ぱらりとページを繰る。
「……。“ディートリヒ……のあとが読めないな、 随行一名”?」
モモは振り返る。
「一番最初に特別迎賓室に泊まった人みたい。
……なんか聞いたことある名前……誰だっけ。」
その名に、執事はごくわずかに眉を動かした――
だが、すぐに表情を戻し、沈黙のまま扉を開ける。
部屋の中は、選ばれた者のために用意された静謐な空間だった。
天蓋付きのベッド、大きな鏡台、内設の水場まで備えられた、ひとつの“完結した私室”。
「すっごい……ここ、水場もある。部屋から出なくても過ごせるようになってるなんて……」
モモは窓辺へと歩み、湖に浮かぶ下弦の月を見下ろす。
「それに、空気が澄んでて涼しい……」
執事はその背後に控え、黙して部屋全体を一瞥する。
目に映るものすべてが、丁寧に、古びながらも確かな気配を残していた。
そしてモモが寝台に身を預けた、その瞬間――
ぽう、と鏡台の奥に金色の光が灯った。
「……え?」
「……っ」
ふたりは同時に鏡へと振り向く。
そこに映ったのは、現実ではない、けれど“確かにあった”気配だった。
*
そこに映し出されたのは、寝台に横たわる人ならざるほどの美貌を持つ青年。
白磁のように滑らかな肌は、発熱により仄かに紅潮しており、
鎖骨から肩口にかけて汗が珠のように浮かんでいた。
その額には氷嚢、吐く息は熱を含み、苦しげでありながらもどこか甘く――
艶やかな“生”の気配をまとっていた。
その傍らに控える軍服の男は、幻でありながら実在感を帯びていた。
骨張った頬と鋭い目元は、戦場で幾度も死地をくぐった者の証。
派手さはないが、規律と覚悟を滲ませるその顔つきには、言葉よりも重い威厳が宿っていた。
言葉なく、無駄のない動きで氷を取り替え、額にあてる布を整える。
その手つきは、強さと、ただ一人への深い慎重さを併せ持っていた。
「……今回はそこまで酷くなかったな」
「ここに連れてきてくれたおかげ。涼しいし……ありがとね、ディー」
「礼には及ばぬ」
「ディー」と呼ばれる者の声は低く、どこか祈りにも似た静けさを帯びていた。
彼は寝台のそばから静かに立ち上がり、ゆるやかな手つきでカーテンを引く。
窓の向こう――
湖面には、下弦の月がまるで漂うように、静かにその姿を映していた。
「……見てみろ。この景色が気に入ったんだ。
静かで、風もやわらかい。お前が落ち着けると思った」
その一言に、青年の睫毛がわずかに震えた。
黄金の瞳が揺れて、月光を映す。
「……うん。じゃあ、壊れないようにしないとね」
そして――彼が手を掲げると、その掌から金色の粉のような光が発せられた。
それは音もなく広がり、部屋を、壁を、天井を、そして建物全体を包み込んでいく。
まるで呼吸するように脈打ちながら、光は穏やかに揺らぎ、
やがて建物の輪郭へと吸い込まれるようにして、“しみ込む”ように消えた。
その瞬間、空間全体がわずかに“静かになった”ような錯覚があった。
「……むー?なんか、すっきりしたかも」
「力を発散したからか」
「そーかな? でも、余はまだ熱いんだから……冷やしててね、ディー」
青年の頬にかかる髪を払いながら、男の指が静かに額を撫でる。
髪、皮膚、想い――すべてが、音を立てずにそこに“在った”。
そして、幻は静かに溶けた。
*
「……っ、今のは……?」
「……鏡に、映って……」
言葉を失い、しばしの沈黙。
ああ、これは――
執事は、心の奥でそう呟きそうになるのを抑えた。
あれほどの美貌、あれほどの力。
(……あれが、マギナの始祖……か?)
やがてモモはふと、口元をゆるめた。
「イケメンとイケおぢの……幽霊?」
そして、少し首をかしげながら囁く。
「……ディーって、そうか、二代目皇帝のディートリヒ殿下……?」
「じゃあ、あの超絶イケメンは……」
モモは小さく呟いたが、その思考の続きを口にはしなかった。
けれど、その視線がふいに執事の横顔を捉えたのを、彼は確かに感じ取っていた。
──まるで、“何か”を重ね合わせるように。
執事はただ静かにその視線を受け止める。
鏡に残された幻影の残滓を、胸の奥でそっと鎮めながら。
(……まだだ。まだ、考えるには材料が足りなさすぎる)
今はただ――
“禁書”のもとへ向かうのみ。
彼は微かに目元を伏せる。
だが、その唇には変わらぬ整った微笑が浮かんでいた。
「そーだ!」
くるりと踵を返したモモが、満面の笑みを浮かべて言う。
「――湯あみ、手伝ってね♡」




