48第二皇女
夜の帳が下りきる前、執事は帝都郊外の緩やかな丘を歩いていた。
馬車は使わなかった。あまりに目立ちすぎる。
目指すのは、国境に近い旧図書管理区――かつて禁書が保管されていたとされる、いまや誰も寄りつかぬ廃区である。
執事は、風の音に紛れて、前方より喧騒が近づくのを感じ取った。
けたたましい少女の声と、軋む車輪の音。
「ちょっとー! だからこの道は嫌だって言ったのにーっ!」
草木を掻き分け進むと、視界の先に派手な馬車が立ち往生していた。
御者は頭を抱え、護衛たちは車輪を取り囲んで右往左往している。
その中で、ひときわ目を引くのは、腕を組んで仁王立ちする、桃色の巻き髪の少女だった。
絢爛なドレスを身にまとい、ふてくされたように眉を寄せている。
いかにも“お嬢様”といった風情だ。
執事は静かに歩み寄り、低く声をかけた。
「お困りのようで」
少女は飛び上がるように振り向き、驚愕に目を見開いた。
「うわっ、びっくりした……だれ? ――っ、なにその顔、え、ちょっと、美しすぎない!?」
柔らかく光をはね返す黒髪、均整の取れた容貌、目許に僅かな翳を湛えた静謐な美貌――それは、見る者の息を奪うほどの整いでありながら、何より“人のものではない”儚さを秘めていた。
執事は一礼し、淡々と答える。
「少し心得がありまして。車輪を、拝見してもよろしいでしょうか」
それから数分も経たぬうちに、彼は修理を終えた。
動き出した車輪を見て、少女は口をぽかんと開けたまま、呆然と彼を見つめる。
「すごっ……あなた、何者なの?」
「かつては執事をしておりましたが、現在は少々、暇をいただいております」
「へぇ~……じゃあさ、私の護衛兼執事をやってよ。家まで送ってって!」
「いえ、私は……」
「いいじゃない、どうせ一人なんでしょ? それに、どこへ行くの?」
しばし逡巡の間を置き、彼は静かに答えた。
「――“禁書”を探しに。隣国の、旧図書管理区へ」
「禁書!? 面白そうじゃない。ついてきたら、ママに頼んで見せたげる!」
執事は一瞬、訝しげに目を細めた。
「……ママ?」
「そうよ! なにを隠そう――わたしは隣国の第二皇女っ!
モモフランジェ・アマリリス・ルネ・ド・ユール! ばーんっ!」
……長い。
だが執事は表情ひとつ変えず、その名を静かに受け止めた。
(第二皇女……なるほど)
少し目を伏せ、思考を巡らせる。
(禁書の間に正規の手続きで入る口実としては、申し分ない。
というか、これ以上の案内人はいない)
(ただの道連れではなく、“姫の護衛”としてなら、あらゆる検問を通過できる)
(……願ってもない話、か)
ひとつ息を吐き、彼はちらりと少女を見る。
ドレスは泥で汚れ、髪には枯れ葉。
にもかかわらず、本人は気にもせずドヤ顔全開で立っている。
(……手間はかかりそうだが、放っておいてトラブルを呼ばれても困る)
執事はほんのわずかに目を伏せ、静かに頭を下げた。
「……そういうことでしたら、しばしの間、お供いたしましょう。姫」
「やった!」
モモがぱあっと顔を輝かせたとき、夜の風がふっと吹き抜ける。
星がちらちらと雲の隙間から覗き、道の先を照らした。
こうして、少々予定外の旅路が始まることになるのだった。




