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魅了持ちの執事と侯爵令嬢  作者: tii
一章 帝都セレスティア
32/100

32執事の弟4G

夜。

鉄の匂いと火薬の残り香が、湿った空気とともに訓練場に沈んでいた。

兵士も清掃員も退き、静まり返ったその空間に、ただ一人の男がいた。


ヴァルター・フォン・ロゼンクロイツ。

剣を納め、額に垂れた髪をかき上げ、上衣の裾で首筋の汗を拭う。

誰に見せるでもないその仕草でさえ、幕間の舞台のように整い、美しかった。


そのとき、音がした。


乾いた石を踏みしめる靴音。

ゆっくりと、しかし確かな意志を帯びて響く足音は、兵士のものではなかった。

不釣り合いな“威厳”が空気を裂く。


「……殿下か」


振り返らずに名を呼ぶと、気配が止まる。

現れたのは、ユリウス・フォン・エーレンベルク。

礼装の上に軽い外套を羽織っただけの姿。

だが、その立ち姿には政と軍を背負う者の輪郭がはっきりと宿っていた。


「よくわかったな」


「こんな時間に、こんな場所へ、どうしたのです」


汗を拭きながら問うヴァルターに、ユリウスは黙って一通の封筒を取り出した。

金の縁に黒の封蝋。まがまがしいほど上質なそれを、ためらいなく差し出す。


「任命状だ。

異議があるなら十日以内に帝都へ申し出よ」


視線だけで封を見やり、ヴァルターは即座に応じた。


「……お断りする」


「ヴァルター卿。封を、開けてもらえるか」


その言葉に、真摯な眼差しに、ヴァルターはかすかに目を細め中身を確認する。

そこには


ーーーヴァルター・フォン・ロゼンクロイツを帝国騎士団名誉元帥へ任命。

と記載されていた。


「名誉……元帥……?」


「不満か?」


「ふ……なるほど。名誉という衣で、(おれ)を国家の装飾品に仕立て上げるおつもりか。

いや……(おれ)の魔の力を知りながら、”己の力”として殿下の手札に加えるのだろう」


「ヴァルター卿。」


ヴァルターの金の双眸がユリウスを鋭く捉える、それは単純に

自分をモノのように扱う者への軽蔑の目だった。


ユリウスもその目線の意味をわかっているようで、

冷静に続ける。


「例えばわたしがきみを従えることができたとして、

では、それにより得られるものは、地位か? 名声か? 金か?──

わたしは、どれもすでに持っている。


……違うのだよ」


その瞳は、まっすぐだった。


「どうしようもなく、我儘な“個人の感情”だ。

……お前を傍に置く理由が、ほしい。


……お前にそれなりの地位がないとわたしが困るのだ」


沈黙が流れる。

(──どういう男だ、まったく)


(どうしようもなく、我儘な願いだけで。

素人を、元帥にまで引き上げようとする。

あの男が、そうしたいと望めば

自身の意志と才覚によって、当然のように実現できてしまうというのか)


(……怖ろしい。

この男は、底が知れない。

あれが“選ばれる器”というものか──)


視線の先、ユリウスは何も強要せず、ただ彼を見ていた。


(それに引きかえ、(おれ)は……)


(外面だけを美しく磨かれた、魔の傀儡。

目的も望みもなく──)


(我儘な個人の感情だと、笑いながら。

国のためでもなく、政治の道具としてでもなく……

ただ、吾を傍に置きたいと)


その言葉が、胸の奥にしずかに届いていた。

痛みでもなく、熱でもない。

ただひとつ、眠っていた何かが、小さく目を開けたような感覚。


ヴァルターは下を向いたまま少し口角が上がったのだが、

そのことにユリウスは気付かない。

ほんの僅かに目を細め、静かに口を開いた。


「……(おれ)は、地位も金もいらない。

その点では、殿下と同じだ」


「──」


「……ここまでのことをして、吾を“必要”だと仰るなら……」


「!」


「ふ……今日は少し、疲れた。

判断するのは、後日でも構わないか」


ユリウスの唇に、小さな笑みが浮かんだ。


「では、明日。わたしの公務室へ来てくれないか?」


「……急な立ち話で悪かった。本当は今日話すつもりではなかったのだ。

ここの明かりが見えたのでな。

……お前がいるかと思うと早く伝えたくなってしまった」


超然たる男の内側に、ほんの一瞬“人間”が覗いた気がして、ヴァルターは何も言葉にせず、ただ静かに微笑んだ。


思考はもう止めた。


疲れは深く、眠気が意識を包み始めていた。


ユリウスがすでに手配していた馬車へと乗り込む。

訓練場の灯が遠ざかる頃には、すでにヴァルターは静かに眠っていた。


月の光が、横顔を照らしている。

神の彫像のように整った顔立ち。

だが今はただ、誰の目にも晒されない“無防備な青年”の姿をしていた。


その寝顔を、ユリウスは見ることはない。

けれどユリウスには、わかっていた。

──あの男は、今、眠っている。


そして、夜空を見上げる。


皇帝に直訴し、軍務卿を一人ずつ説得し、

剣技の記録と民での振る舞いを証として差し出し、

「制御は私にしかできない」と言い切った。

騎士団幹部の反発にも耳を傾け、

「責任はすべて私が負う」と誓った。

一か月間寝る間を惜しんで奔走した。

あの男を隣に並べたくて。


できることは、もうすべて終えていた。


あとは、ただ。


(……それでも、来てくれ)


ユリウスにとって、これは初めての“交渉の不確かさ”だった。

まるで、何も持たない少年のように──

月に祈るしかできぬ自分を、静かに嗤った。

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