31執事の試験
──試験まで、あと1週間。
執事の言葉により、リーゼの課題曲が告げられてから数日。
彼女は離れの音楽室にこもり、まるで取り憑かれたようにピアノに向かっていた。
課題はリスト作《メフィスト・ワルツ第1番》。
激情と誘惑、そして悪魔の躍動を描く難曲。
技巧も感情も、すべてをむき出しにして挑まねばならない。
──まさに、“魂を試す”ような曲だった。
*
試験当日。
扉が静かに開かれ、空気が変わったのをリーゼはすぐに感じ取った。
踏み込んだ足音は驚くほど整っていて、無駄がない。
気配の輪郭はまっすぐで鋭く、どこか冷たさすら感じさせる。
「お入りなさい、リーゼ嬢。準備はよろしいですか?」
「……はい。お時間、頂戴いたします」
リーゼは深く頭を下げた。
姿勢は整い、声音は穏やかで上品。まるで妖精のように可憐。
だがその内心には、まったく異なる感情が渦巻いていた。
(“試験”ね……ずいぶん丁寧な建前だこと。
どうせ、“選別”のつもりなんでしょ? わたしみたいな娘は、篩にかけて落とすのがやつらの常、だものね)
執事が歩み寄る気配に合わせて、リーゼはゆっくり椅子に座る。
目は閉じたままだが、呼吸の深さ、風の流れ、空気のわずかな動きすら、彼女は感じ取っていた。
「課題曲は、リスト作《メフィスト・ワルツ第1番》。
時間制限は設けません。あなたの“音”を、聴かせてください」
「……承知いたしました」
(甘く見るな。……わたしの音が、どれほど“本気”か)
指を置く前に、リーゼは静かに深呼吸をひとつ。
祈るように息を整え、そのまま鍵盤に触れた。
──第一音。
低く、深く、そして鋭い。
黒い静寂の中から響くような音が、室内に広がっていく。
そこから紡がれる旋律は、不安定ながらも、強い意志を伴っていた。
跳ねるようなフレーズ、崩れかける和音、突き刺すような強音。
それは、彼女自身の怒り、悲しみ、そして誇りの叫びだった。
──技術は未熟。
けれど“立ち向かう者”の音が、そこにはあった。
演奏が終わり、静寂が戻る。
リーゼは息を整えながら、手を膝に置いた。
「……お耳を、汚していなければよろしいのですが」
その声音は、かすかな震えを含みながらも、控えめで美しかった。
盲目の少女が、一生懸命に弾いた──そう見えるように、意図して作った声だった。
(でも実際には、“わたしの音をなめるな”って叩きつけたのよ)
執事は、しばし沈黙したのち、一歩だけ前へ進み出た。
その動きには一切の揺らぎがなく、気品と厳しさを湛えていた。
「……ご苦労さまでした」
「はい。ありがとうございます」
(さあ、どう出る?)
「音の精度は荒削り。指使いにはいくつか癖が見られました。
ですが、……その音には、“立ち向かう者の意志”が宿っていた」
リーゼの心が、静かに跳ねた。
「よって──この試験、合格といたします」
「……っ、恐れ……入ります」
かすかに笑って顔をうつむける。
けれど胸の内では、鋭く爪を立てた勝利の歓喜がひしめいていた。
(やった。やっと、ここまで来た。
わたしの音が、この人に届いたんだ)
執事は言葉を続けた。
「とはいえ、油断はなさいませんように。
慰問までは三週間ございます。
“魂”があるだけでは、舞台には立てません。
あなたの“音”が、より確かな技巧を伴うことを期待しております」
「……はい。よりよいものを、必ず」
執事は一礼し、足音ひとつ立てずに部屋を出ていった。
残された音楽室に、静寂が戻る。
リーゼはひとつ息を吐き、もう一度ピアノの前に座った。
指先が鍵盤に触れる。
(……楽しい)
小さく、ぽつりと漏れた声。
その言葉に、自分で少し驚いた。
認められた。
本物を知る人に、正面から。
努力が届いた瞬間──それが、ただ嬉しかった。
(こんな気持ち……初めて)
胸の奥が、じんわりと熱い。
誰にも聞かれなくていい。ただ、この気持ちだけは消したくなかった。
(……もっと弾きたい。もっと、驚かせたい)
怒りや悲しみではない、あたたかな気持ちが、静かに芽を出していた。
***あとがきミニ台詞***
ユリウス:……ん、レオン書記官。何か落ちたが……。
レオン:ッ!? あ、ああああああ殿下それはちがっ……!!
(よりによってこのタイミングで……殿下と野薔薇の……寝台18禁絵ッ!!)
ユリウス:(静かに広げ)……ふむ。これは……?
ヴァルター卿と……。……わたし、か?
(絵を見つめながら、ほんのわずかに眉をひそめる)
ユリウス:……。(そのまま絵を巻き直し、無言で懐へ)
──没収だ。
レオン:ひぃぃぃぃぃぃ……申し訳ございませんんんんん!!




