30執事の提案
本邸の午下がり。風は穏やかで、庭の噴水が陽にきらめく。
カーチャは書物を閉じ、しばし耳を澄ませた。
遠く、微かに、音が聞こえる。
──旋律。
まだ拙い。けれど、胸に刺さる何かがある。
「……あれは?」
問いに応じたのは、すぐ傍らに立つ執事。
漆黒の髪に金の瞳、その佇まいは、どこかこの世のものとも思えぬほど整っていた。
光を背にしても尚、彼の横顔は完璧な彫刻のように美しく、
庭に咲くどの花よりも静謐で気高かった。
「リーゼにございます。あの娘、日ごとに音が変わっております。
魂に響かせる術を、身につけはじめたようで」
カーチャは目を伏せ、しばし沈黙した。
その胸にあるのは、貴族としての責務と、ひとりの人間としての慈しみ。
高貴な理性と、庶民に寄り添う優しさが、内に矛盾なく並び立つ彼女ならではの静けさである。
「先の慰問に……彼女を、連れて行きましょうか」
「ふむ……。
そうなさるのであれば、……わたくしより試験を実地しましょう」
カーチャは微笑んだ。
「それがいいわね」
執事は小さく頷き、懐から譜面を一枚取り出した。
指先まで美しいその動きは、ひとつの芸術のようであった。
「課題曲はこちらにしましょう。リスト作《メフィスト・ワルツ第1番》」
カーチャの目が見開かれる。
「……リーゼさまにその曲を?」
「激情、誘惑、そして悪魔。
これを制するならば、堂々と帝都の舞台にも立てるでしょう」
「ずいぶん……手厳しいですね」
「甘さは、あの娘の未来を奪います。
才能があるからこそ、篩いにかけるべきです」
*
離れの音楽室。
クラリッサから告げられたその瞬間、リーゼの指が止まった。
「……試験?」
「はい。執事様が、直々に」
続いて手渡された点字譜面を指先で撫でる。
そこに記されていたのは──《メフィスト・ワルツ》。
(は?)
一瞬、血の気が引いた。
だが、その感情は、別の熱にすぐに上書きされる。
(いきなりそんな申し出を……しかもこんな難しい曲を)
リーゼの唇がわずかに吊り上がる。
(──やってやるわ)
繊細で穏やかな顔の下に秘めたもの。
それは、絶対に這い上がってみせるという意志。
自分を拒む世界に、気取った貴族のやつらに、怒りがこみ上げる。
(あいつらみんなして、わたしをとじこめて、小鳥かなにかだとおもってるのかしら?
わたしが可哀想な“盲目の娘”だから、上からめせんで。
癒し? 慈しみ? ふざけないで。──わたしはそんなのじゃない)
拳を握りしめた指の白さが、彼女の決意を物語る。
「ありがとう、クラリッサさま。……頑張ります」
少女は微笑んだ。
その笑みは、妖精のように可憐だった。
クラリッサが退室し、静寂が戻る。
リーゼはピアノの前に座り、深く息を吸った。
(この曲を制するには、きっとただ弾くだけじゃ足りない。
わたし自身が、“悪魔”にならなくちゃ。
簡単な事。わたしのこころに居座る、悪魔を呼び寄せるの)
指先が鍵盤に触れる。
第一音は、黒く、深く、底なしの響き。
(──カーチャさま、執事様。それから、ヴァルター、世の中全部!
わたしの音の前に、ひれ伏せさせてやる……!)
音楽室に、魔の前奏が静かに立ちのぼった。
***あとがきミニ台詞***
カーチャ:どうして胸元に楽譜が……?
執事:いかなる事態にも対応できてこそ、わたくしはあなた様の執事にございます。




