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魅了持ちの執事と侯爵令嬢  作者: tii
一章 帝都セレスティア
23/100

23執事と相談

翌朝、ヴァルターは侯爵家の門をくぐった。

夜通し歩いた疲れも見せず、相変わらず完璧な佇まいである。


だが、その歩みに――かすかな“ためらい”があった。

それは一瞬の靴音の遅れとなり、廊下に余韻を残す。


「お帰りなさいませ、ヴァルター様!」


女中たちがせわしなく動き出す。荷物を受け取り、湯あみの支度を整え、

その姿は、軽装で戻った彼をどこか安堵と共に迎えていた。


「……兄上、ただいま戻りました」


「おや。思いのほか早いお帰りで。」


「ああ……仔細を知らせぬまま夜を明かしてしまい、申し訳ない」


ヴァルターの声音には、どこか距離がある。

だが執事は、それを責めもせず、ただ一礼し、静かに背を向けた。


「それは、わたくしにではなく――カーチャ様に。」


ヴァルターは執事の背中をしばし見送ったのち、

ふと、窓の外へ視線を向けた。


そこには、庭に佇むカーチャの姿がある。

白いつば広帽を押さえながら、薔薇の世話をしていた。

誰に見せるわけでもなく、ただ静かに、咲く命に手を添えている。


「……カーチャ殿」


「おはようございます、ヴァルター様」


庭へと降りた彼に、カーチャは振り返り、穏やかに微笑んだ。

夏の陽光を手で遮るその仕草が、ヴァルターにはあまりにも無垢な少女のように映る。


「ご無事で、何よりですわ」


「ええ、少々――野暮用が……」


言いかけたが、カーチャはそれ以上を求めなかった。

問い詰めず、皮肉も言わず、ただ――微笑のまま、彼の帰還を受け入れた。


――なぜ、何も問わないのか。


「……あなた様は、本当に……」


「はい?」


「……いえ。なんでもありません」


言えなかった。

この優しさを、この崇高さを、何と名づければいいのか、

その答えを、彼はまだ知らなかった。



ヴァルターは、館の応接室で二人を前に、珍しく視線を伏せていた。

窓の向こうには、やわらかな陽が差し込んでいる。

だが、その光は、今から口にする言葉の重みを和らげるには至らない。


「──少し、話をさせていただきたいのです」


執事は無言でうなずき、カーチャは微笑のまま首を傾げた。


「リーゼのことです」


その名を口にするのに、ヴァルターは一拍、間を置いた。

これまでは“守るべき者”として、疑いなく語ってきた名。

けれど今日の声には、はっきりとした迷いが滲んでいた。


「彼女を……匿ってきました。

ひとりきりで生きる力を失った者に、手を差し伸べることが――

間違いであったとは、思いたくないのですが」


言葉を選びながらの語り。

彼は、決して彼女を否定したくはなかった。

だが――


「最近、少し……持て余してしまっているのです。彼女に心配をかけているのは、わかっているのですが……」


その一言に、執事がわずかに視線を上げる。

カーチャは驚いた様子も見せず、静かに耳を傾けていた。


「彼女の話を聞くたびに、閉じ込められていくような気がするのです。

ユリウス殿下との駆け引き、あなた様や兄上と過ごす時間――

あまりに楽しく、刺激に満ちていて。

比べるまでもないとわかっていながら、どうしても……」


「……あちらの家へ戻るのが、億劫になるのですね」


カーチャの言葉は、ただ静かで、柔らかかった。

そこに責める色はない。

まるで彼の心の奥を、すでに見通していたかのように。


ヴァルターは、わずかに頷く。


「けれど、彼女には……(おれ)しかいない。

見捨てるつもりはありません。

ただこのままでは、(おれ)は、彼女を欺いてしまいそうで……」


しばしの沈黙。

そして、穏やかな声が部屋に満ちた。


「でしたら、そのお方も……こちらへお迎えしてはいかがかしら?」


「……え?」


「離れでよろしければ。

使用人の目も届きますし、目が見えないのであれば、なにかと不便でしょう?

それに――」


言葉を一度切り、カーチャは微笑を残したまま続けた。


「あなた様が、ひとりで背負わなくてもよくなるわ」


ヴァルターは、しばらく何も返せなかった。

その視線の先で、カーチャは変わらぬ笑みをたたえていた。


期待も、責めも、押しつけも――何もない。

彼女はただ、手を差し出したのだ。

重くもなく、軽すぎもせず、誰よりも自然に。


「……それは……とてもありがたいお申し出です」


その声は、“誰かに救われた”男の、初めての言葉だった。

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