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魅了持ちの執事と侯爵令嬢  作者: tii
一章 帝都セレスティア
22/100

22執事と洞察

数日間、ヴァルターは客人として奔放に振る舞っていた。

客間からは香の煙、長椅子では優雅に身を横たえ、時に女中の手を取って詩を語り、邸内の者たちは浮き足立っていた。


しかしそれは、虚飾。

彼は遊んでいたのではない。

彼なりに、見極めていた。


不思議な力を持つカーチャという令嬢を。

執事が、かつての兄として、尊敬に値するかを。


「……ふむ」


静かな夜、ヴァルターは誰にも聞かれぬ声でそう呟いた。

侯爵家の中で微笑む令嬢の佇まいに、そして黙して忠を尽くす兄の背に、

そしてその二人の穏やかな日常に、ヴァルターは何かを見出しかけていた。


――そんな頃だった。


「ヴァルター様。こちらの書簡が……」


控えめな声で近づいた女中が、そっと手紙を差し出す。

それは、急報だった。


封を開く。

その内容を目にしたヴァルターの美貌が、僅かに翳った。


「……悪いが、少し出る。兄上やカーチャ殿には、後ほど事情を伝える」


夜風が石畳をなでるように吹き抜けるなか、ヴァルターはカーチャの邸をあとにした。



郊外の静養館は変わらず沈黙の中にあった。

月光が芝を照らし、白い壁が淡く光る。

誰も彼を迎えに出ることはない。

それでも、扉の鍵は外れていた。


ヴァルターが中へ入ると、女中が気配に気づいて廊下に顔を出す。


「お戻りでございますか、ヴァルター様」


「ああ。彼女の様子は?」


「お身体はお変わりないようですが……今日、突然倒れられて」


「倒れた?」


「ええ……カーチャ様のお名前を口にされた、とも……」


「本当にそう言ったのか?」


女中は一瞬だけ目を泳がせたが、すぐに頭を下げた。


「……わたくしには、よく……ですが、念のためお知らせを」


ふむ、と低く呟き、ヴァルターは静かに歩き出した。


その目には、微かな翳りがあった。

今までなら信じていた。迷わず。

だが今日は、ほんのわずかに、何かが引っかかっていた。


部屋の扉を開けると、そこにはいつものように“彼女”がいた。


──リーゼ。

虹色の髪は月光に照らされ、淡く揺れている。

ふんわりとしたウェーブが肩を包み、儚げな輪郭を際立たせていた。

視力は失われている。

だがその目は、まるで何かを見通しているかのようだった。


「……ヴァルターさま?」


小さな声。

椅子に座り、身を縮めた彼女は、まるで月に咲く花のようだった。


「倒れたと聞いた」


「……はい。ほんの少し、立ちくらみのようなもので……ご心配をおかけして、ごめんなさい」


「そして……カーチャ殿のせいだと?」


沈黙。

だが、彼女はすぐに口元に微笑みを浮かべた。


「胸が苦しくなって……あのとき、カーチャ様の歌が聞こえたような気がして……それで、つい」


「……そうか」


彼はそれ以上、何も言わなかった。

それが、自分の“甘さ”だと理解していながら。


「ヴァルターさま……」


彼女の声が震えた。


「……わたくし、あのお屋敷に嫁いでいた頃……

目が悪いのは“怠けているからだ”と責められたことがあって……」


「……」


「それでも、我慢していました。

家から追い出されたら、本当に居場所がなくなると思って」


彼女は顔を伏せ、小さな体を震わせる。


かつて聞いた話によれば──

リーゼは視力の悪さから家事をこなせず、折檻を受け、やがて完全に視力を失ったのだという。


「……その頃の夢を見たんです」


「……そうか」


ヴァルターはゆっくりと歩み寄り、正面の椅子に腰を下ろした。


「そんな時に、ヴァルターさまが遠くにいて……

にぎやかな帝都で、たくさんの人に囲まれて……

そう思うと、わたくし……こんなわたくしがお側にいられるはずがないのに」


彼は言葉を失っていた。

この美貌も、彼女の前では意味をなさない。

ただ笑って、ただ手を取れば、救える気がしていた──愚かにも。


カーチャのように、無条件に人を許すこともできず。

兄のように、沈黙の中で貫く強さもなく。

ユリウスのように、理で人の心を導く器もない。


──そのどれも、自分にはない。


せめて、この者の寂しさと痛みを、理解しよう。

それだけは、してやらねばならない。


「きっと今のあなたさまには……カーチャ様のような聡明なお方が、ふさわしいのでしょうね……でも、でも……」


その声が震え、言葉が途切れたとき。

ヴァルターは自然と彼女を抱き寄せていた。


「……わたしは、変わらずおまえだけを愛している」


その囁きとともに、彼女の手を取る。

変わらぬ、あたたかな手のひら。

けれど今の彼にとっては、それがどこか痛ましいものに思えた。


リーゼは、小さく息を吸い、そして笑った。

それは涙と混ざり合った、儚く可憐な微笑み。


「ありがとうございます……ヴァルターさま」


けれど、その唇の端には──

一瞬だけ、確かに“確信”の影が浮かんでいた。


(やっぱり、わたくしのことだけを見ていてくださる)


そのときの笑みは、まるで月夜に人をあやかす妖精のようだった。


ヴァルターは、まだ知らない。

リーゼがその瞳の奥に宿している静かな炎を。

──愛は、演じてでも手に入れるものだと。

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