21執事の許可
ヴァルターは、邸で最も早起きだった。
毎朝決まった時刻に、身支度を済ませ、寝癖一つない髪で軽やかに門を出てゆく。
あまりに自然であるため、最初の数日は誰も気に留めなかった。
だが五日目の朝、カーチャは庭園の窓から、まるで日課のように去ってゆく彼の背を見送りながら、ぽつりと言った。
「……ヴァルター様は、どちらへ?」
「申し訳ありません。把握しておりませんでした」
「そう……そうよね」
言いながらも、彼女は少しだけ視線を落とし、そして口元に指を添えた。
何かを思案するような、ふと浮かんだ考えを言うべきか迷うような。
「……でも……客人を詮索するなんて、無礼よね……」
言い淀むカーチャの隣で、執事が静かに瞬きをしてこう言った。
「では……。兄のわたくしが全面的に許可いたしましょう」
執事の笑みは、何かを企んでいる者のそれだった。
その夜、邸の倉庫から旧衣装と変装道具が引っ張り出された。
執事は年季の入ったマントと古びた手帳を携えた街の画商に、カーチャはその見習い少年という設定で衣装を整える。
「どうでしょう? わたくし、男の子に見える?」
「誠に失礼ながら、存外似合っておられます」
「ふふ。感想がいちいち優等生よね、あなたは」
そして翌朝、邸宅の門を出たヴァルターを、二人はそっと追い始めた。
ヴァルターの後ろ姿は、どこか整然としていて、すれ違う者たちが思わず振り返るほどだった。
長身でしなやかな肢体に風になびく髪、その姿は遠目にも目を引く。
「目立ちますわね……」
「容姿に恵まれているのは、罪とも言えましょう」
「他人事みたいね?」
「わたくしが申したのは、あくまであの方の話です」
カーチャは肩を揺らして笑った。
ヴァルターは果物市を通り抜け、路地を抜け、舗装石の通りを歩き、花屋の軒先で立ち止まり、数人の子供に囲まれて気怠げに応対した後、飴を買って子供に手渡し、やがて城郭西の門を抜けた。
辿り着いた先は、帝都騎士団の練兵場だった。
門の隙間から覗き込むと、そこには剣を手に兵士たちと訓練に打ち込むヴァルターの姿があった。
「……意外ですわね」
「ええ、あのように真面目に鍛錬されているとは」
剣筋は鋭く、足さばきも正確で、ただの趣味とは思えぬほど洗練されていた。
「……どうしてかしら」
「理由までは測りかねますが、
あの方は力に依らず、何かを得ようとしておられるのかもしれません」
ふたりはそれ以上、深く詮索することなくその場を離れた。
邸に戻る道すがら、カーチャがぽつりとつぶやいた。
「楽しかったわ」
「執務の合間にお嬢様の遊戯へ同行するのは、わたくしの本懐にございます」
カーチャは、小さく笑った。
その笑みはどこか、言葉では言い尽くせぬ何かを含んでいるようで。
やがて、彼女はそっと執事の瞳を見つめた。
問いかけとも、礼ともつかぬ、曖昧なまなざし。
けれどそこには確かに、彼だけに向けられた何かがあった。
言葉にはされないまま、ふたりの間にだけ静かに灯る想い。
執事は、それを受け止めるように一礼した。
いつものように、完璧な所作で。
けれどその眼差しには、一瞬だけ、わずかな柔らかさが滲んでいた。
「……かえりましょう」
邸宅に戻り、変装を解き、
いつもと変わらぬアフタヌーンティが始まる。
香り高い紅茶、揃えられた焼き菓子、変わらぬ会話。
――それは、ふたりにとっての日常。
穏やかで、変わらず、揺らがない関係。
深まりすぎず、遠すぎもしない。
だからこそ、心地よく続けてこられた――はずだった。
けれど。
あの視線の温度だけが、
静かに、どこかに触れていた。
まだ名前のない感情が、
ゆっくりと、輪郭を持ち始めていた。




