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2執事の仕事

眠れぬ夜。


舞踏会の余韻は、まぶたを閉じても離れてくれない。

差し伸べられた手、注がれる視線、低く甘やかな囁き──

そのすべてが、侯爵家という“椅子”を見ていると知っていても。


──誰も、わたくしの心には触れてこない。


そんな夜更け、控えめなノックが響く。


「カーチャ様。失礼いたします」


いつものように気配を滲ませぬまま現れた執事は、

寝間着にショールを羽織ったわたくしを見て、目元をほんの僅かに細めた。


「また眠れぬご様子。……まったく困ったものですね」


「……ええ。特に、こうも暑いと」


「でしたら、少し冷ました蜂蜜湯を。ほんのり甘い方が、今夜には似合いましょう」


彼が銀盆を手に近づく。

湯気と共に香るハーブと、彼自身が纏う香気が、ふと肌を撫でるように入り込んできた。


「……ありがとう」


受け取ろうと伸ばした指先に、白い手袋を嵌めた彼の指が軽く触れる。 その指にはなんの意図もない。


「カーチャ様。あまり、何も考えぬほうが眠れることもございます」


その声が、妙に低く艶を帯びていて──

わたくしは思わず視線を逸らした。なぜか、頬が熱を帯びる。


けれど彼は、まるで何事もなかったかのように微笑み、静かに傍らに控える。


そう、わたくしの執事はいつだって完璧。

どこまでも忠実で、どこまでも──ときに、無自覚なほどに惑わせてくる。


何も言わない。

けれど、あまりに近くにいて、あまりに美しい。


……ずるいわ。



カーチャが静かに眠りについた後のこと。

執事は書斎の奥、自室の机から、数通の手紙を取り出した。


淡く残る香水、贅沢な羊皮紙、丁寧すぎる筆致。

封筒に記された差出人の名は──


“財務監査官代理 ハロルド・エーベルシュタイン”

“東方駐在特命大使 マルク・ヴァレンティン”

“第二近衛連隊隊長 アドルフ・ベルンシュタイン”


それぞれが立場を誇示し、侯爵家の娘にふさわしいと自負する者たち。

言葉は丁重だが、その行間に滲むのは、地位と血筋を欲する露骨な打算。


執事は封を切ることもなく、ただ静かに眺める。

まるで、それが“有象無象”であることを、言葉なく断じるかのように。


「……カーチャ様には、必要のない“未来”でしょう」


囁く声には、甘さも余裕もなかった。

ただ、静かな確信と拒絶が宿っていた。


彼は手紙を火灯しの下に差し出し、何も語らぬまま燃やしていく。

封蝋が溶け、文字が黒く崩れ、贅を尽くした紙片は灰へと還る。


炎の奥。

彼の表情は変わらない──けれど、その眼差しだけが、確かに熱を孕んでいた。


カーチャが知らぬままに、

彼はまたひとつ、余計な未来を焼き捨てたのだった。

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