2執事の仕事
眠れぬ夜。
舞踏会の余韻は、まぶたを閉じても離れてくれない。
差し伸べられた手、注がれる視線、低く甘やかな囁き──
そのすべてが、侯爵家という“椅子”を見ていると知っていても。
──誰も、わたくしの心には触れてこない。
そんな夜更け、控えめなノックが響く。
「カーチャ様。失礼いたします」
いつものように気配を滲ませぬまま現れた執事は、
寝間着にショールを羽織ったわたくしを見て、目元をほんの僅かに細めた。
「また眠れぬご様子。……まったく困ったものですね」
「……ええ。特に、こうも暑いと」
「でしたら、少し冷ました蜂蜜湯を。ほんのり甘い方が、今夜には似合いましょう」
彼が銀盆を手に近づく。
湯気と共に香るハーブと、彼自身が纏う香気が、ふと肌を撫でるように入り込んできた。
「……ありがとう」
受け取ろうと伸ばした指先に、白い手袋を嵌めた彼の指が軽く触れる。 その指にはなんの意図もない。
「カーチャ様。あまり、何も考えぬほうが眠れることもございます」
その声が、妙に低く艶を帯びていて──
わたくしは思わず視線を逸らした。なぜか、頬が熱を帯びる。
けれど彼は、まるで何事もなかったかのように微笑み、静かに傍らに控える。
そう、わたくしの執事はいつだって完璧。
どこまでも忠実で、どこまでも──ときに、無自覚なほどに惑わせてくる。
何も言わない。
けれど、あまりに近くにいて、あまりに美しい。
……ずるいわ。
*
カーチャが静かに眠りについた後のこと。
執事は書斎の奥、自室の机から、数通の手紙を取り出した。
淡く残る香水、贅沢な羊皮紙、丁寧すぎる筆致。
封筒に記された差出人の名は──
“財務監査官代理 ハロルド・エーベルシュタイン”
“東方駐在特命大使 マルク・ヴァレンティン”
“第二近衛連隊隊長 アドルフ・ベルンシュタイン”
それぞれが立場を誇示し、侯爵家の娘にふさわしいと自負する者たち。
言葉は丁重だが、その行間に滲むのは、地位と血筋を欲する露骨な打算。
執事は封を切ることもなく、ただ静かに眺める。
まるで、それが“有象無象”であることを、言葉なく断じるかのように。
「……カーチャ様には、必要のない“未来”でしょう」
囁く声には、甘さも余裕もなかった。
ただ、静かな確信と拒絶が宿っていた。
彼は手紙を火灯しの下に差し出し、何も語らぬまま燃やしていく。
封蝋が溶け、文字が黒く崩れ、贅を尽くした紙片は灰へと還る。
炎の奥。
彼の表情は変わらない──けれど、その眼差しだけが、確かに熱を孕んでいた。
カーチャが知らぬままに、
彼はまたひとつ、余計な未来を焼き捨てたのだった。