1執事とわたくし
その男は、美しすぎた。
微笑ひとつで場を支配し、視線ひとつで人の心を縛る。
美であることが、神の祝福であると同時に、呪いだった。
「……お前が、その“魅了”の力で、私を操っていたというのではないか」
──違うと、言ってほしかった。
たった一言、それだけでよかったのに。
彼は、微笑を崩さず、何も言わなかった。
国家反逆罪。
信じた。
惹かれた。
共にいた。
……ほんの少しずつ、歪んでいった。
もし、一言だけ伝えていたら。
もし、あの日、熱をかわさなければ。
違う未来があったはずだった。
*
「……ふう。」
馬車の窓に額を寄せ、わたくしは小さく息を吐いた。
夜の街は仄暗く、灯のひとつひとつが、まるで誰かのため息のように揺れている。
また今夜も──同じことの繰り返しだった。
舞踏会。華やかな装い。繰り返される社交辞令と、欲望の視線。
けれど最も多くの視線を集めていたのは、わたくしではない。
──執事だった。
わたくしの執事は、あまりに完璧すぎるのだ。
姿勢、仕草、声音、間の取り方、すべてが洗練されていて、隙がない。
そして何より──目を奪われるほど、端整な顔立ちをしている。
それは、“見惚れる”という言葉の意味を改めて思い出させるほどに。
「何かございましたか、カーチャ様」
馬車の揺れの中でも、彼の声は寸分の乱れもなく、静かに届いた。
「……ご令嬢方に囲まれて、つぶされそうになったわ」
「申し訳ございません。カーチャ様の装飾品としては、目立ちすぎていたようで」
わたくしは窓に映った己の姿へ、そっと視線を落とす。
銀糸のような髪、青白い肌、細い肩と華奢な輪郭。
舞踏会に集う、豊満で華やかな令嬢たちの中では、どうしても頼りなく映ってしまう。
それが嫌だと感じるほどではないが──褒められた経験も、そう多くはない。
「……装飾品は、持ち主を引き立てるもののはずよ?」
小さく、独り言のように零す。
彼は黙って笑みを保ち、わたくしを見た。
「左様でございます。ですが──引き立てられた主を、今宵も何人もの紳士方が引き留めておられました」
その声は柔らかく、けれどどこか揶揄のようでもあった。
わたくしは目を細め、返す言葉を選ばずにいた。
……たしかに、何人もの紳士が言葉をかけてきた。
舞踏への誘いもあったし、政務の話を遠回しに持ちかける者もいた。
けれど、どの言葉も、彼の声ほどには胸に残らなかった。
わたくしは、帝国を支える五大侯爵家のひとつ──
ヴァルトハイム家の、ただひとりの跡継ぎ。カーチャ=フォン=ヴァルトハイム。
両親は高齢で、すでに政務の表には立っていない。
ゆえに、この屋敷も、領地も、家名も──いずれはすべて、わたくしが継ぐ。
だからこそ、わたくしの周囲には常に、誰かの思惑が渦巻いている。
婿として入り、形式上の夫となり、わたくしの“背後”を手に入れようとする者たち。
わたくしという存在を通して、帝国に影響を及ぼそうとするその視線が──いつも、冷たい。
彼らが見ているのは、わたくしではない。
わたくしの“価値”と“立場”だけだ。
けれど、この男だけは──
誰より近くに仕え、誰より深く知りながら、
わたくしを“手に入れよう”としない。
それが不服なわけではないけれど──少しだけ、癪に障る。
これだけ、近くにいるのに。
その夜、わたくしはなかなか眠れなかった。
舞踏会の音楽の残響が、胸の内でしつこく響いていた。