第6話「プロの父の試練」
──俺の父は、元プロサッカー選手だった。
それを知ったのは、ごく最近のことだ。
母と保育園のあすか先生が話す声を、偶然聞いてしまった。
「風間さんのご主人って、サッカー関係の方なんですか?」
「うん、昔はプロだったの。でも、若くして辞めちゃって……」
「えっ、もったいない……」
「でも本人は、『もういい』って。いまは全然サッカーに触れようとしないのよ」
──若くして辞めた。サッカーに触れようとしない。
……それが、父の“過去”か。
俺がこの身体で生きるようになってから、父との関係は決して悪くない。
むしろ、穏やかで優しく、家族としての距離は心地よかった。
だが、俺がサッカーボールに触れるたび、父はなぜか数秒間だけ動きを止める。
その目には、言い知れぬ戸惑いと、わずかな痛みのような色が浮かんでいた。
──あれは、“逃げ”の目だ。
元Bチームだった俺には、分かる。
限界の壁にぶつかって心が折れた人間だけが持つ、あの特有の目線。
あの空虚。
だが、そんな彼に、俺は挑んでみたくなった。
親としてではなく──
かつてサッカーに人生を賭けた“男”として。
⸻
父との休日
そしてある休日。
父と二人きりで公園に行く機会が訪れた。
母は買い物、弟は昼寝。
俺はボールを父の前にコロコロと転がして、座って待つ。
「蹴りたいのか?」
父がやや困ったように笑いながら、俺の正面に立つ。
そのフォーム──
かつてプロの舞台に立った者の影が、そこにあった。
──一発で分かる。
「蹴る」ための体幹、軸足の意識、無駄のない立ち方。
そして──
トンッ。
軽く蹴ったボールが、俺の足元に吸い込まれてきた。
2歳児の俺にとっては少し強すぎる。
だが、完璧なコース。
……やっぱり、この男、本物だった。
次の瞬間、俺は“影”の実力を見せた。
足をズラし、インサイドで吸収。
左足の甲に乗せ、クイッと逆足へリフト。
そして──
右足のインサイドで、低く鋭いパスを返す。
2歳児とは思えぬフォーム。
俺はこの一撃に、かつての“呼び水”を込めた。
父は……一瞬、目を見開いた。
だが、次の瞬間、彼の表情は曇る。
顔を背け、空を見上げた。
「……なんでだろうな」
その声は、思ったよりも苦しそうだった。
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父の過去
「昔は、あんなに好きだったのに。毎日蹴ってたのに……いまは、怖いんだよ」
父が語る。ぽつりぽつりと。
ジュニアユース、ユース、トップ昇格。
夢のようなスピードでプロになったが、膝の靭帯を断裂。
復帰後はかばう動きがクセになり、パフォーマンスが低下。
たった2年で契約満了。引退。
「走るのが怖くなった。転ぶのが怖くなった。期待されるのが……一番怖かった」
……俺は静かに聞いていた。
前世の俺は、期待されることがなかった。
Bチームで燻って、誰にも見向きされず終わった。
だが、この男は“期待された末の地獄”を味わった。
──なら、俺が救ってやる。
言葉は出せない。だから、プレーで返す。
⸻
初めての“意志あるパス”
俺は再びボールを拾い、父に向けてゆっくり転がした。
今度は、2歳児の速度で。
しかし、ラインは寸分の狂いもなく、膝の内側を狙った完璧なコース。
父は……笑った。
「……おまえ、本当に何者だよ」
ボールを拾い、父はゆっくりと俺の目を見た。
「わかった。少しずつ……一緒にやってみるか」
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再始動
その日から、父との“本気のボール遊び”が始まった。
グラウンドじゃない。
スタジアムでもない。
ただの公園の片隅で。
でも、それが“再出発”だった。
俺と父、2人の過去を繋ぎ直す、最初の一歩だった。
──影が、光を動かした瞬間だった。