19.頭から離れないのはどうして?
人の心とはままならないものだ。
自身の心さえ思い通りにはできない。
一度脳にこびりついてしまったものはどう足掻こうとも消してはしまえない。
物についた汚れなら良い洗剤を使えば綺麗さっぱり落としてしまえるだろうが、それが人の脳内となれば話は別なのだ。
「サルキア様、先日の企画の件ですが」
「はい。既に案は五つほど用意しています。こちらがその紙です」
「ありがとうございます!」
「ではまた詳しいことが決定しましたら教えてください」
「承知しました」
資料を抱えて退室する男性の背を見送って、サルキアは一つ溜め息をついた。
いつからだろう、こんな風になったのは……。
ここのところサルキアはことあるごとにアンダーについて考えてしまう。
顔を合わせている時だけではない。
仕事をしている時、廊下を歩いている時、自室で一人寛いでいる時――そんな時ですらたびたび彼のことが脳裏にちらついて、どうにも集中しきれないところがある。
違和感があってもやもやする。
けれども彼のことを考えていると時折得体のしれない嬉しさも込み上げる。
どこか浮かれているみたいな。
まるで馬鹿にでもなったかのような。
何もかもすべてがサルキアにとっては初めての経験だった。
「失礼いたしますっ」
「はい、何でしょう」
「書類のご確認をお願いします」
「分かりました。では受け取ります。二十分ほどでお返しできる予定ですので」
「承知しました! その頃にまた参りますっ」
午後も数時間過ぎた頃、サルキアはふと思い立って部屋から出ることにした。
仕事をしていても集中できない。
余計なことばかり考えてしまって。
そんな状態を一旦白紙に戻そうと、彼女は外へ向かったのだった。
王城の中庭を眺めながら歩く。
草の絨毯は晴れやかな緑をしていて見る者に爽やかな印象を与えた。
心地よい風が髪を撫でて、懐かしい香りが鼻をくすぐる。
サルキアはこれまで多数の国を巡ってきた。
美しい海の見える国、雪の冷たさを肌で感じる国、異種族が暮らす国、機械仕掛けの文化が栄える国など。
けれどもなんだかんだで生まれ育ったこの国が一番好きなのだ。
その思いは留学を重ねていたあの頃から少しも変っていない。
「よ」
訳もなく中庭を眺めていて、背後から声をかけられる。
「こんなとこでサボってるなんてめずらしーじゃん? お嬢」
「アンダー……」
サルキアは変に意識してしまい一歩後ずさり。
「すげー嫌がるじゃん」
アンダーは苦笑する。
「そんなオレのこと嫌いかよ」
「……いえ、べつに、そういうわけではありませんが」
「おもしれ」
「ふ、ふざけないでくださいっ」
彼のことを一旦頭から消したくてここへ来たというのに、こんな形で本人に出会ってしまっては、何もかも無意味になってしまった。
「ところで、体調はもう大丈夫なのですね」
「問題なし」
「それは良かったです」
「ふーん、心配してくれてんの? 優しいなぁ」
「いえ。貴方が弱っていると陛下も落ち込まれますから、国のためにならないということです」
素直になれずつい余計なことを言ってしまうサルキア。
「ま、そーだな」
そしてそれに納得するこんな時だけ真っ直ぐなアンダーであった。
「そーいやさ、この前、アンタの母親に会ったんだけどよ」
「えっ!?」
ぎょっとしたような顔をするサルキア。
「なんかスゲーやつだな」
「そ、そんな、母と? なぜ……。ええと、それで、何か話しましたか?」
「扇子で叩かれた」
「ええっ……」
少し間があって。
「母は元気そうでしたか?」
サルキアは落ち着いて問う。
「あーうんありゃ元気過ぎるくらいだな」
「そうですか……」
先代国王が亡くなった時、エリカは悲しんでいた。けれどもその後エリカがどうなっているのかサルキアは知らなかった。だから、もしかしたらまだ悲しんでいるのでは、と思っている部分もあったのだが。どうやらそうではないらしい、とサルキアは理解した。
「しっかしありゃかなり気ぃつえー女だな」
「そうですね、厳しい人です」
「アンタもぶっ叩かれて育ったのか?」
サルキアは少し考えて。
「いえ、そこまでではありませんでした」
静かにそう答えた。
「ふーん」
実際、母であるエリカから手を出されたことはそんなにない。
当然一度や二度はあっただろう。
けれどもそれは教育の一部みたいなものでありふれたこと。
母としてのエリカは際立って暴力的なわけではなかった。
「……ただ、私が知る母はいつも浮かない顔をしていました」
そう語るサルキアの表情が曇ったことでアンダーは何かを察したようで。
「ここもそんなに綺麗な場所じゃねーってことか。ま、何となく分かったわ。べつにいーよ、詳しく知りてーわけじゃねーし」
彼は素早く話を切り上げた。
「そんじゃ。邪魔したな」
片手を軽く持ち上げる合図をしてまた気ままに歩き出すアンダー。
サルキアは即座に対応することはできず、去り行くその背を見つめていることしかできなかった。
「……何なのよこれ」
胸の鼓動は速まっている。
今もまだ落ち着かない。
けれども結局、それが何なのか、その答えを得ることはできないままだ。




