エピローグ
歌声が聞こえてくる。
外でシーツを干すティラナが奏でる旋律は昼下がりの王城を彩る。
「貧しい民の就職支援に関する予算の件ですが、先日作成していただきました資料につきまして質問がありまして」
「何でしょう」
「ここのところですが」
結婚後も王城に残ったサルキアは日夜仕事に明け暮れている。
だがそれは彼女にとっては以前と何ら変わりない日常。ゆえに不満はない。これまで通り国のために働く、それは、外の誰でもない彼女自身が選んだ道である。
「はい、そうですね、そこは……あれ?」
「どうされました」
「すみません。資料が見当たらず。少々お待ちください、探しますので」
サルキアは先ほど仕事部屋へ運んできたばかりの書類の山から必要なものを探す。だがなかなか見つからない。他の書類は揃っているというのに、よりによって話に出ているものだけがどうしても見当たらないのだ。
その時、扉が開いた。
「お嬢、これ落としてね?」
入ってきたのはアンダーだ。
その片手には二枚ほどの紙をクリップで留めたもの。
目にした瞬間、サルキアはハッとする。
「それです!」
「多分要るやつだろ」
「ありがとうございます、今ちょうどそれを探していたところです」
アンダーは速やかにサルキアの隣にまでたどり着くと、手にしていたその紙を彼女の前に設置されている机の上にぽいと置いた。
「んな大事なもん落とすなよ」
「はい、気をつけます」
軽く言葉を交わして。
「すみませんでした。ではお話の続きを。質問、でしたよね」
サルキアはすぐに目の前の人物へ目を向ける。
「どうぞ」
「こちらの欄はこの数字で正しかったでしょうか? また、期日についても確認したい点があるのですが、これは日が近くはないですか?」
サルキアと男性が話すのを近くで眺めていたアンダーだが、段々飽きてきたようで。さりげなく視線を斜め上へやった彼は至近距離にいる人にしか聞こえないようなかなり小さな声で「マジつまんねぇ」と呟いていた。
「お答えいただきありがとうございました」
「いえいえ。それでは引き続きよろしくお願いします」
話が終わると男性は速やかに退室する。
「アンダー、先ほどはありがとうございました。持ってきていただいて。困っていましたので助かりました」
そちらへ向き直ったサルキアが真面目に礼を述べれば、アンダーは「礼言われるほどのことじゃねーな」などと返す。
「アンタここんとこちょっと働きすぎじゃね?」
「そんなことないですよ」
「けどさぁ、もう一週間くらいびっちり仕事じゃねーか」
「今重要なところなんですよ。就職支援の件が。なので若干忙しくなっているのですが、問題はありません。これはずっといつかやりたいと思っていたことなので」
サルキアは力強さのある真っ直ぐな笑みを向ける。
「……そーかよ」
しかしどこか不満げなアンダー。
その時ふと何かを察したサルキアは、唐突に彼の腕を掴み、その身を引き寄せた。それから母親が子にするように黒い頭を撫でる。
「構ってほしいのですね?」
アンダーは何も言わずサルキアの肩に顔をうずめた。
「甘えたなんですから」
「……うるせぇ」
「正直貴方がこんな人だとは思わなかったですよ」
サルキアは慣れた様子でアンダーの頭を撫でながら「本当に、甘えるのが好きですね」などと言い放つ。はっきりと言われてしまったアンダーはどこか気まずそうな顔になり、やがて、自分の意思で身を離した。が、その後サルキアから「では、今夜はたくさん甘やかします」と言われると、アンダーの瞳にほんの少し前向きな色が宿る。
こんなところでいちゃつくなと言われてしまいそう、なんて思いながらも、サルキアは彼を放ってはおけない。
だからなんだかんだでいつも構ってしまう。
「あ、そうでした。少し良いですか? 荷物運びを手伝っていただきたいのですが」
サルキアがお願いすれば。
「ん? ああ、いーよ。何運ぶ?」
アンダーは嫌な顔をせず応じる。
「ここに置かれている箱すべてです」
「多っ」
「貴方なら運べますよね」
「まーな……」
サルキアはアンダーに協力してもらい荷物を運ぶ。
二人揃って部屋を出て、窓から光が入り込む静かな廊下を歩く。
ランの部屋の前を通過する時、半分くらい開いた扉の隙間から中の様子が見えた。
椅子に座ったランは植物に関する分厚い本を読みながら傍らに置かれたティーカップを時折片手で持ち上げる。そして香りを楽しむように穏やかに目を細めていた。
そんな彼女の視界を覗き込むように後ろについているのはリッタ。ふわりとした髪がランの頬に触れるほどに近づいている。それでもランが一切気にしていないのはそれが日常だからだろう。
また、付近にはアイリーンも立っていて、二人の様子をそっと見守っている。ティーカップが空になるとタイミングを見計らい茶を注ぐ。その手つきは慣れたもので、彼女が優秀な侍女であることを示しているかのようだ。
色々あったがすべてを乗り越えて今は穏やかさの中で三人揃えている――サルキアはとても嬉しかった。
それからも歩き続けるサルキアたち。
やがて左手側に現れる大きな窓。
そこからは中庭の様子が見える。
すらりとした、どこか男性的な、美女。
ジルゼッタなのだが。
彼女はあれ以来本格的に警備隊の教育に取り組むようになったようだ。
凛とした面には良い意味で厳しさのある色が浮かんでいて、まさに教官、といった様子である。彼女は若い隊員の戦闘訓練を見守りながら時々何やら声を発していた。
そして近くの柱の陰にはやはりジルゼッタファンの女性たち。
だが驚きはない。
なぜならそういった様子を目撃するのはいつものことだからである。
荷物の運搬を終えたサルキアらは部屋へ戻ろうとするが、移動先の一室を出たちょうどそのタイミングで現れたワシーから一通の手紙を手渡される――それはエリカがサルキアに宛てたものであった。
「あの女、なんだかんだでアンタんこと気にしてんだな」
サルキアにエリカからの手紙が届いたことが意外だったからか、アンダーは思わず本心をこぼしてしまう。
「次に会えるのがいつかさえ分からない状況ですからね」
「ま、あんなでも実の母親だもんなぁ」
次に会うのはいつだろう?
いや、それ以前に、また会える時がくるのだろうか?
何もかも不明だが、だとしても、向こうから連絡してきてくれたということはサルキアにとって不快なことではなかった。
――と、そこへ、オイラーが通りかかる。
「アン、元気そうだな」
「おう」
「今日はサルキアと一緒に行動できているようだな。良かった、安心した」
オイラーはにっこり。
「昨晩はあんなことを言い出すからどうすれば良いものかと思ったが……」
「おい、んなことゆーな」
「近頃サルキアが構ってくれないと落ち込んでいたものな」
「マジやめろて!」
流れのままに暴露するオイラーと珍しく慌てた様子のアンダー。
「……ったく、んなもん本気にすんじゃねーぞ」
アンダーはサルキアの方へ目をやってそんなことを言うが。
「可愛いですね、アンダーは」
「聞けよ!」
なんだかんだで仲良しな三人である。
「そうだ、サルキア、今度の視察について話がしたいのだが」
「構いませんよ」
「お茶でも飲みつつ話がしたい」
オイラーはさらりと誘いの言葉を発し、サルキアは素直に頷く。
「んじゃ、オレはこのへんで」
口を挟むアンダーは空気を読んでいた――が。
「アンも来てくれ」
「はぁ!?」
「君を仲間外れにはしたくない」
オイラーにそんなことを言われ戸惑うアンダーを引き寄せるように、サルキアはその左手首を掴む。
「行きましょう、アンダー」
恥じらいと気まずさを混ぜたような顔をする彼の薬指には銀色のリングが光っていた。
「……ま、お嬢がそーゆーなら」
「では一緒に!」
風が吹いて、結ばれることなく下ろされたゴールドの髪がなびく。
別れ、そして、出会い。
そうして始まった物語に終着地点はない。
人は生きる限り明日を目指す。
誰もが己の望む未来を求め歩き続けるのだろう。
時には剣を携えて、時には愛を抱き締めて。
まだ始まったばかりだ。
エイヴェルンの新しい時代は――。
◆終わり◆