11.それは、強すぎる日射しが視界を焼くようなもの。
僅かな光しかない空間でサルキアの手が震えていることに気づいたアンダーは「震えてんのか?」と直球で尋ねた。
対するサルキアは、貴方にだけは見られたくなかった、というような顔をしながら「どうせ馬鹿にしているのでしょう」と愛想なく返す。
と、その直後、アンダーの手がサルキアの頭に触れた。
「こえーよな」
サルキアは信じられない思いで目の前の男に視線を向けた。
「お嬢、アンタ、頑張ってるよ」
――こんな風に誰かに優しくされたのはいつ以来だろう?
サルキアは思い出せなかった。
遠い昔、親から向けられた優しさは確かにあったはずだ。けれどももう二十年以上前のことで、はっきりと思い出すことはできない。いつからか勉強に追われるようになり、するべきことがたくさんになって、思いやりとか優しさとかからは遠ざかった人生を歩むようになった。楽しいという感情、嬉しいという感情、何もかもすべて忘れてしまった。
国のために生きることが己のすべて。
それだけが自分の存在意義になったのは――いつからだったか。
「本当にアンダーなのですか」
「はぁ?」
「貴方のような人がそんな風に言ってくださるとはとても思えないのですが」
「ひでぇ」
立ち上がったアンダーは親指だけを立てて後方の扉を示す。
「じゃ、行こ」
歩む力を取り戻したサルキアは一度強く頷いた。
「はい。お待たせしました。もう問題ありません」
アンダーの導きに従いサルキアは歩き出す。
知らない場所でしかも夜となれば視界は悪いしどうしても不安を抱かずにはいられない。
特に扉を出てすぐのところで血を流し倒れるあのふりふりコスチューム男を目にした瞬間は高い声を漏らしてしまいそうになった――ぎりぎりのところで口を手で押さえたため何とか叫ばずに済んだが。
「あの男を殺したのは貴方なのですか」
「見張りとか邪魔なんだよ」
「……そう、なのですね」
「やっちまったらまずかったか?」
「いえ……関わりたくない感じの男でしたから……」
あの甘ったるい声。
あの粘着質な触れ方。
思い出すだけでもぞっとする。
服装が個性的でもそれは個人の自由だが、ああいった不快な絡み方をしてくる人物に対しては良い印象は抱けない。
――刹那、角の向こうから男が飛び出してくる。
「てめぇ侵入者だな!?」
刃物を手にした男だった。
「絶対に生きては返さん!!」
獣のように勢いよく襲いかかってくる――が、アンダーの動きの方が早く――彼の回し蹴りが男の手に命中し男は刃物を落とす。
「うるせーよ」
冷ややかに言い放ったアンダーは動きを終わらせない。
流れのままに身をもう一回転させ、もう一度蹴りを当てる。
「ぎゃあ!」
二度目の蹴りは男の眉間に突き刺さった。
男は衝撃で失神。
その場に倒れ込む。
「すごい……」
サルキアは思わず呟いていた。
直後、何かが飛んできて突き刺さるような乾いた音。
ほぼ無意識のうちに音がした方へ視線を向けたサルキアは、何が起こったのかを察し叫びそうになる――が、一つ目の音が漏れかけた瞬間アンダーに口もとを強く押さえられた。
「黙ってろ」
「……で、ですが……刺さって……」
――そう、音の主はナイフだった。
それはアンダーの右足、内側のふくらはぎ横辺りに突き刺さっていたのだ。
「マジで黙れ」
サルキアは動揺を隠せないままで、それでも小さく数回頷いた。
目の前の彼女が若干落ち着きを取り戻したことを確認すると、アンダーは足に刺さったナイフを乱雑に抜く。食事に使うようなナイフ、そのやや小ぶりなものであった。そんなものがどうして飛んできたのか、と、彼は少々不思議さを感じている様子。
だがサルキアはそことは別のところに違和感を覚えていた。
「それ……何か、黒くないですか?」
食事用ナイフの刃の部分が黒い、なんていうのは、明らかに不自然だ。
「そーか? じゃ、古いやつなんだろ多分」
「怪しいです」
「何だよ急に」
「回収しておく方が良さそうな気がします」
二人の視線が重なって、それから。
「……そうでした! それよりも! アンダー、じっとしてください」
サルキアは何か思い出したかのように口を開く。
もちろん小さい声ではあるが。
「お嬢?」
「止血します」
腰の位置を下げハンカチを取り出すサルキア。
「や、要らねーよ」
「そういう問題ではありません」
アンダーは困り顔になりながらも仕方ないといった雰囲気で足を動かさなかった。
その間にサルキアは止血を行い、傷口をハンカチで縛る。
机の上での知識としては学んだことがあった手当てだがサルキアとしては初めての経験で。しかしながら思いの外上手くいった。サルキア自身も驚いたほどに。
「……慣れてんな」
「いえ、実際に行うのはこれが初めてです」
上手くいって良かったです、と発した時、サルキアの顔はほころんでいた。
「わりーな。……助かるわ」
サルキアは密かにほんの少しだけ自信を取り戻した。
他人のために何かできた。
その事実が、そう思えることが、彼女の中での彼女の価値を高めたのだ。
それからも二人は歩き続けた。
薄暗く埃臭い道を行くとなると、ぼんやりとでも恐怖心を抱くもの。もっともそれが人間として正常な感情なのだろうが。ただ今は、サルキアは、何も怖くないと感じていた。先に行く存在がいる、それがどれほど心強いことか。一人でないと思えることがどれほど偉大なことか。今になって彼女はそのことに気づいた。
言葉を交わすことはない。
会話なんてもう一切なくて。
それでも共に在ることに変わりはない。
今はその事実がサルキアを支えてくれる。
――だが、彼女はまだ気づいていなかった。
それは、強すぎる日射しが視界を焼くようなもの。
希望に。
心強さに。
ただ、惑わされていた。
――手にしているものの脆さ、儚さを、彼女は理解していない。
「お嬢!」
叫ばれて初めて気づく。
右斜め前から何者かが迫っていて。
その手もとに浮かぶ魔法を放つための陣形、それが光り輝いて。
――そう、どんなものも永遠ではないのだと。
「ぼさっとしてんなアホ!」
気づいた時にはもう遅かった。
サルキアを庇おうと間に入ったアンダーは敵が放つ魔法をもろに受けて膝を折る。
それでもなお何もできないサルキアは、無意識にかすれた声をこぼすだけ。
「ぁ……」
それはほんの一瞬のことで。
けれども彼女の脳内には遠い記憶が蘇る。
『ぼんやりしていては何も護れぬ、そう、何も……』
遠き過去、まだ幼かった頃、母が窓の外を見て独り呟いていた言葉。
その時は分からなかった。
まだ幼かったから。
でも、大人になっても、何も分かってはいなかった。
そのことを思い知らされる。
「アンダー……」
希望の光のいかに儚いものか。
束の間でも目を離せばその指をすり抜けて消えてしまう。
――そう、誰もが、絶望に突き落とされて思い知る。




