117.穏やかで温かな
風が冷たい時期は夜になると空気全体がぐっと冷える。
夏ならちょうど心地よい薄めの生地の寝巻きをまとっていると寒さで歯がかたかた鳴ってしまうこともあるほどだ。
「オイラー、わりぃな色々協力してもらっちまって」
「いや、いいんだ。私はアンの役に立てることが何よりも嬉しい。だからこれからも協力するつもりでいる」
定位置、机の前の椅子に座っているオイラーは、寝巻きである薄い生地の白いシャツの上に緩いラインが特徴的なブラウンのカーディガンを羽織っている。
「あん時はさ」
「何だ?」
「気持ちきっと分かってもらえねーんだろーなぁ、とか思ってごめんな」
アンダーは謝罪するがオイラーはきょとんとした顔をするだけだ。
「何の話か分からないが、気にすることはない」
唯一無二の友と共にある時、大抵、オイラーの面には善良で清らかな明るさが宿っている。
「アンはアンのまま、自由に生きていってくれ」
◆
会議の帰り道、サルキアは一人で通路を歩く。
「ねぇ聞いた? 噂!」
「聞いたわ~。サルキア様の件でしょう? びっくりよね、急に結婚の話が出てくるなんて~」
書類を胸の前に抱えながら淡々と歩いていた彼女の耳に飛び込んでくるのはメイドたちの噂話。
「男なんて一生できないと思ってたわ」
「ほんとそれっ」
「ねー、びっくりよね」
けれどもサルキアはもう何も感じない。
それに。
どうせくだらない言葉だ。
どんなものを向けられようともいちいち動じてあげる気はない。
「しかも相手、例の男なんでしょ? 金目当てなんじゃないの」
「王家の配偶者って立場を狙ってたのよね、きっと」
「怖いわね~。サルキア様もまんまとはまってしまって馬鹿ね~。やっぱり勉強ばかりしていたらこんなことになってしまうのね~」
過去の自分ならきっと傷ついていただろう。心ない言葉を聞くたび反応して、心を痛めて、涙したり怒ったりしていたに違いない。
だが今はもう情緒は乱れない。
説明は必要だろう。
誠実な対応は重要だ。
けれども、すべての人に理解してもらう必要はないし、そんなことは不可能だろう。
何をしても、何を選んでも、結局あれこれ言ってくる人は言ってくるものだから。
最後に自分の道を決めるのは自分だ。
◆
「突然すみません、ランさん」
その日サルキアがアンダーを連れて向かったのは第二夫人であるランが暮らす部屋。
扉をノックした時、最初に出てきたのは侍女アイリーンであった。
彼女はいきなりのことに少し戸惑ったような表情を浮かべていたが、サルキアが事情を説明すると、快くランを呼んできてくれた。
「アンダーさんとご一緒なのですね」
二つ並んだ顔を見て、ランは目を見開く。
「改まった様子でここへいらっしゃるなんて……あの、わたくしに何かご用でしょうか?」
戸惑いつつ尋ねるラン。
斜め後ろにはアイリーンが、室内のベッドにはリッタが、それぞれ待機していて様子を見守っている。
「アンダーと結婚します」
サルキアはさらりと言った。
ランはサルキアの想いを知っている。
そう、ずっと前から。
その感情が芽生えて間もない頃から、まだ誰もその感情の存在を知らなかった頃から、ランだけはサルキアの想いをずっと近くで見つめてきた。
「ぇ……ぇ、ええええっ!!」
王の妻とは思えないほど大きな口を開けて驚くラン。
「け、けけ、結婚ですか!?」
両手をそれぞれ鳥のようにぱたぱたさせている。
「はい」
サルキアは短く返事してから「といっても、まだ先ですけどね」と付け加えた。
「おめでとうございます……!」
やがてランは祝いの言葉を述べる。
そこにあるのは純粋な喜びの色だけだった。
「ラン、どうした、の? ラン、慌てて、る?」
ベッドからのそのそと出てきたリッタがランに歩み寄る。
「サルキア様がご結婚なさるって……!」
「結婚、リッタ、よく、分からない」
「これはとても素晴らしいことよリッちゃん!」
リッタは首を傾げつつランの肩に手をかけて背中にぴたりとくっつく。若い草木のような色をした髪が柔らかにランのうなじに触れていた。
「ラン、嬉しそう、リッタ、も、嬉しい」
常に少し伏せたような目をしているリッタはランがどうして喜んでいるのかその理由を本当の意味では理解することはできていないようだったが、それでも、ランが嬉しそうにしていることには純粋に嬉しさを感じている様子であった。
「リッちゃん、おめでとうって言いましょ」
ランが促せば。
「オメデトウ」
リッタは幼い子のように素直に祝いの言葉を述べる。
「ありがとうございます、リッタさん」
拙い言葉ではあるが気持ちは伝わる。何も、飾った言葉だけがすべてではない。だからこそ、サルキアは礼を述べつつ軽く頭を下げた。
アイリーンは始終皆の様子を穏やかな笑顔で見守っており、あまり前へ出てくることはなかったが、別れしな深く丁寧に礼をしていた。
続けてサルキアらが向かったのはジルゼッタのところだ。
「――ということで、報告に来ました」
自ら出てきたジルゼッタと、その奥に控えているティラナ。
二人はサルキアからの言葉を聞くや否や数回目をぱちぱちさせた、が。
「いずれそうなるのでは、と思っていました」
ジルゼッタは温かな薄い笑みをその凛々しい面に浮かべる。
部屋の奥にいるティラナはその場で狼狽えていた。彼女はその場でどたばたと意味のない足踏みをしながら赤らんだ頬に手を当ててきゃあきゃあ言っている。もちろん、一人で、である。テンションの妙な高さは健在である。
「サルキア殿、どうかお幸せに」
「ありがとうございます」
あの夜、隠れてではあるが護衛する中で、二人の間の関係を垣間見ていた――それゆえジルゼッタはそこまで驚いてはいない。
「アンダー、責任重大だな」
「オレにはそれかよ」
「プリンセスの配偶者になるのだ、愚かな真似はできないだろう」
「まぁな」
「悲しませることがないように」
ジルゼッタに悪意はないが心なしか厳しい言葉をかけられたアンダーは苦々しい顔をしながら「んなこと、分かってんだよ」と愚痴を言うような声の調子で返していた。
「だが、今は言おう。おめでとう。アンダー、どうかお幸せに」
凛とした笑みを浮かべるジルゼッタが片手を差し出し、アンダーはそれを握り返す――男女とは思えない力強い握手を交わす二人だった。
ちなみにティラナはというと、その間もずっと、一人で足踏みを繰り返したりきゃっきゃと声を発してはしゃいだりしていた。
「お嬢、何だあいつ……」
「ティラナさんはジルゼッタさんの侍女です」
そんなティラナの姿を見てアンダーが少々引いたような顔をしていたのは、また別の話だ。




