7.刺激せず安全な距離をとろう
大量の映像が宙に浮くVR空間。目標を見失って部屋がざわつく。
― あれ? どこ行った?
― んー?
― 中央通りのカメラには映ってたんだけど、ちょっと大きく跳んだあと落ちてこない
― 車両群が中央通りの両端を押さえたのに気づかれたか
― もしかして飛べるの?
― 流石にあの巨体で飛ぶのは無理でしょ……無理だよね?
― ドローン出してる人達は?
― ごめん、まだ追いついてない
― 十字路に追い詰めたと思って全員そっちに集中しちゃって
― うちのは恐竜が十字路で車を飛び越えた時に巻き込まれて墜落した
― あれ君のだったのか……
― ドンマイ
― ベストショットGJ
― しかしどこ行ったんだ?
ここはVR空間の一チャット部屋。とはいえ、アバターで作業している人も居れば携帯端末から動画を貼り付ける人、見ているだけの人、コメントだけする人などいろいろだ。
入場自由、比較的小さめのだべり部屋だが、何か事件が起こると人が集まる集合場所の一つになっている。いつの時代かの匿名掲示板かSNSのようなものだ。
現在のチャット部屋の話題はとある企業がニワトリを改造して作ったドラゴンっぽい大型生物の脱走劇である。街中を走り回っているのをドローンやライブカメラの映像を駆使して追跡、実況している所である。
対象を見失い、メンバーは周囲のライブカメラの映像を注意深く調べていた。
不意に、VR空間に浮かぶ画面群を見つめていたピンク髪のツインテールの少女が叫んだ。
― 居た! 高空のドローン映像! 中央通り沿い、エアリアル第七ビルに爪かけて張り付いてる!
― そこぉ!?
― じゃあ現場の人にはビル登ってるとこ見えてるだろうから問題ないな
― うん、よく見たら中央通り端のロータリーのカメラにも小さく映ってたわ
― 逆にどう対処したらいいか分かんないぞこんなん
― 下手につついて落ちて来たり暴れたりしても困るし
― ビルの中の人大丈夫なのか?
― こんなの窓に居たらパニックだよ
― リアル「窓に!窓に!」
― 窓ガラス割れてるね、怪我人が居ないといいけど
― エアリアル第七ってオフィスビルだっけ?
― 誰かドローン特攻させたらびびって離れないかな?
― それやるなら警察がやると思う
― 現場に居ない奴が不用意に刺激しても余計危ないしな
部屋の中ほどにスピーカーが現れた。携帯端末から音声だけで通信している人の様だ。ひそひそ声で話し出す。
― 俺、今、ビルの中、悲鳴とパニックで、えらいことになってる
たまたま近くに居た長髪の銀狐耳のアバターが音声を拾って返事を返す。
― 就業中? 無事? コメント返せる?
周囲のアバターも、現地からの通信と気付いて集まって来た。スピーカーがひそひそ声でコメントを続ける。
― このVR部屋が、一番情報集まってたから、外出禁止令が出てから、ずっと、ここに居た
スピーカーの人は、いわゆるROM状態、閲覧するのみの状態でずっとチャット部屋に居たようである。
周囲が合点がいったように頷きあう。
― あー、ニュースサイトとかだと放送許可とかでどうしてもラグあるもんね
― 個人が動画貼った方が圧倒的に早いもんな
― ライブカメラ巡回も大変だしね。有志がライブカメラとリンクした地図作ってくれてるけど
しかしスピーカーの次の返事にアバター達が固まる。
― 大型生物が、街中に居るの、聞いてたし、ここで、映像も見てたけど、まさか、職場の窓に、顔を出すとは、思わなかった
― え、窓辺?
― 顔?
動揺するアバター達に対してスピーカーが続ける。
― ちょうど、恐竜? の、顔が見える位置の部屋、いきなり、ガラス割れて、一周回って、ちょっと冷静になってる
スピーカーはひそひそ声で淡々と部屋の状況を伝える。
― 部屋の出口、内開きなんだけど、人が殺到して、えらいことになってるから、なるべく、窓からも出口からも離れた、机の陰に、隠れてる
さすがに、机ごと、噛みつかれたりはしない、と、信じたい
アバター達のざわめきが大きくなる。音声情報は飽和し、文字でないと情報が拾えないぐらいだ。
― コメントしてる場合じゃねえよ
― 嘘乙、嘘だと言ってくれ
― 肝が据わってるってレベルじゃないな、がんばれ
― さっさと逃げろよと言いたいところだが人が詰まってて逃げられないのか……
― 人が殺到して内開きが開かないとか出口に人が押し寄せて通れないって、火災とかでは聞いたことあるけどやっぱりパニックだとそうなっちゃうんだ……
― 机の人、無理せずがんばれ
― 映像撮れない?
― 静かにしろ! 聞こえない! 雑談は音声オフかスピーカーから距離をとって!
― 質問したい奴、赤文字でテキストチャット表示して!
すったもんだしながらも部屋の一画でスピーカーの返事を待つ一団ができた。
不意に部屋にいるアカウントの一覧にあるunknownの名前の一つが『事務机』に変わる。スピーカーの上にも『事務机』の名前が表示された。スピーカーの人物が分かりやすいように名前を変えたようだ。
その名前が音声通信中の証として明るく点灯する。返ってきた返事は。
― 画像は無理、机の、角度が悪くて、ちょっと刺激したくない
― そだね、安全第一、気をつけて
事務机さんのアカウントは音声通信で続ける。
― 実は、恐竜?が現れてから、ずっと出口付近で、叫び続けてる人が居るんだけど、音が恐竜の癇に障ってるっぽい
たまに、恐竜が、そっちに威嚇してるんだけど、それやると、更に叫ぶ
― 大迷惑
― 気持ちはすごく分かるけど騒いで刺激しちゃだめだよ
― パニック映画の第一被害者やんけ、死なせとけ、自分の安全だけ考えろ
― 近くに居る味方二、三人巻き込んで死にそうな第一被害者だ……
周囲がわずかに感想を述べる囁きの後、押し殺した声で現地のスピーカー改め事務机さんは続ける。
― お世話になってる先輩も、殺到した人波に巻き込まれて、出口付近から、動けないでいる。巻き添えになったら、いやだなって
何か、身を守る方法って、あるかな?
それを聞いて先の失言を悟ったか、押し黙ったメンバーが数人。現場は想像以上に緊迫している様だ。
― よそのチャットで似た状況の人が消火器で牽制する事をお勧めされてたけど、危ないからやめとけ
― プロテクターは着てないよね?
周囲を確認しているのか、少しガサゴソ音がした後、再び事務机が話し始める。
― 誰も、着てない。うち、事務仕事。端の席の人が、冷房効きすぎるって、いつも、プロテクター、着けてるけど、今日居ない
― ビルの警備員さんとかパワーアシストついてるプロテクターの人いるんじゃない? 外からドア開けてもらえないかな?
― パニックで押し寄せてるとこに外から力加えたら危なくないか?
― 逆に何でそんなにプロテクター着てないんだよ
― 昔に作られた建物はプロテクターを想定してないから着てくの結構めんどいぞ、トイレ入って置き場所困るとかザラ
― プロテクター置けるトイレマジで少ないよね~個室で抱えて用をたすとかあるマジ不便
― 便なだけに
― やかましいわ
― そも日常的にプロテクターが解禁されてるの日本ぐらい。倒れない犯人が銃持ったらどれだけ脅威になるかは1997年の銀行強盗事件でよく知られてる
― ここは日本だから
― 関係ないこと喋ってる奴向こう池~、音声チャットは距離の二乗に比例して減衰するから
― なぁ、さっきからこことは別の部屋で消火器特攻を勧められてるの、君の部屋の人? 刺激したら危ないからやめさせろ
― 分からないけど、同じ部屋で、チャットに繋いでそうな人は何人かあ
ゴトリと何かがぶつかるような音がして音声通信が途絶えた。
― え? 何? どうしたの?
その時モニターの方を見ていた人たちから声が上がった。
― うわ怖!
― 飛んだ!
― 反対側のビルの人ー!!
― おいおい、ひとっ跳びで大通り一本横切ったぞ!
― こいつビルからビルへ飛び移る事を覚えたな
― うちのインコもたまにこういう動きする
― 地上だと車が追ってくるからかな
― そんなに車怖かったのか
― エアリアル第七ビルから煙出てる!
― 火事!?
― あれもしかして消火器の煙じゃないか?
― 誰かドローンで確認しろ
― 机の人は? 机さーん?
― おい机さん無事なのか?
― 飛び込まれた方のビル、怪我人出てるみたい
― 反対側のビルで野次馬が集まってたところに突っ込んだらしい
― うわぁ
― 怪我人はガラスの飛散による軽傷みたいだね。今のところ爪とかに巻き込まれた人は居ないみたいだ
― おい、こんなんが暴れてるのに救急車来れんのか?
― 鶏ゴン逃げてったから来れると思う、車には近寄ろうとしないし
― トリゴンになったの……?
― △
― それはtrigon
― おい、ふざけてないでさっきの人、大丈夫なのか? 机さん!?
アカウント一覧の事務机の名前のランプが点灯した。
― 無事です
― 机さん!?
声を押し殺していた先ほどと違って、はきはきと敬語で喋る事務机さんだった。
― トリゴンが室内に首伸ばして来たんで消火器噴射しました。多分全員無事だけど、パニックに巻き込まれて人に踏まれたりして怪我した人が何人かいます。救急車呼んでます。
― 誰だよ消火器で無茶した奴
― 怪我人の人数と状態分かるなら、確認しといた方がいい。ある程度情報まとまってた方が、救急も対処しやすいと思う。
― あんまり怪我人が居ると救急車足りない事あるしね
― 道路に出て救急隊員さんを誘導する人を決めとくといいよ。建物内も案内してあげるとスムーズ、落下してくるガラスの破片とかに気を付けてな
― やばい状態の人居る? 急な圧迫とかで心臓マヒしてもAED効くこと多いから早目に処置した方がいいぞ。大きめの建物には大抵設置されてるし
― 具合悪い人は回復体位にして誰か付き添ってあげて、救急が来るまで脈と呼吸が維持できれば後は隊員さんが何とかしてくれるから
― 頭の怪我は素人目だと分かんないから急に意識をなくすこともありうる。怪我人には意識ある内にパーソナルヘルスレコードのアプリを指紋認証一つで開けるようにさせとくといいよ。保険会社が作ってたから国民認証番号と電子カルテ統合するときの騒動でも揺らがなかった安心と信頼の個人カルテ。
― あんま病院行かない人だと統一電子カルテ今も稀に取り違えデータだったりするからな……あれが国民認証番号制度廃止の止めになったよね。電子カルテの導入に協力的だった大病院の梯子外すような真似したんだから当然だけど
― 指示厨うるさい。わーわー言われてすぐ動けるわけないだろ。大丈夫そうな人もショック状態だろうからお菓子とかシェアして落ち着くといいよ
― おま言う?
一方のトリゴンはあちこちのビルに爪をかけ、ガラスを破りながらビルからビルに飛び移りって行った。