第七話 うぜぇ……
「抱きあって寝てるところ悪いけど、いい加減起きたら~?」
直久とゆずるは、そんな和久の一言から、今日という最悪の日を迎えた。
「直ちゃんは、向こうの部屋に担いでいこかと思ったんだけど、直ちゃんたらゆずるを抱きかかえたまま全然離さないから、そのまま放置して、僕は隣でゆっくり寝たよ。けど、まさか、朝までそのまま寝てるとは思わなかったけど」
クスクスと弟の笑い声と、きらきらとした日光が降り注ぐ中、徐々に定まる直久の視界。
(……朝……?)
目の前に見えるのは、直久と同じく、重たい瞼をなんとかこじ開けようと必死なゆずるの顔だった。しかも至近距離。
「…………」
首を動かし、周囲を見回し、状況を把握するのに二十秒。
直久は、自分の腕がゆずるをしっかりと抱きかかえた状態になっていることに気づき、「おわっ」と叫びながら自分の体を引いた。と、ほぼ同時に、同じく状況を把握したゆずるが勢いよく直久を突き飛ばした。
「ちょ……落ちる、おち……おあああ」
ベッドの縁で抵抗するもむなしく、派手な音と共に、直久はベッドから床に投げ出された。全身に激痛が走り、息をつまらせる。
「……いってぇ……」
腰をさすり、体を起こした直久は、ベッドの上を見上げ、ギロリとにらみつけた。
「てっめーっ!! いきなり何すんだよっ!!」
「俺に勝手にさわるなっ」
ゆずるは身を硬くさせ、自分の肩を抱いている。
(ひ、ヒトを汚いものみたいに言いやがって……)
一気に頭の隅々まで血がいきわたり、すっかり目が覚めた。
「オレだって好きで触ってたわけじゃねぇよっ。お前が、悪霊に引きずり込まれそうだったから助けてやっただけだろうがっ」
「俺は頼んでない」
「何だとっ!?」
がばっと体を起こし、直久はゆずるの胸ぐらを掴んだ。あまりの憤りに、体中の血液が沸騰するような感覚を覚え、眩暈がする。
「はいはい。そこまで~」
緊迫する空気の中、二人の間に割ってはいる和久の声は、なんとも暢気なものだ。和久はさらに、にっこりと微笑みながら、持っていたフェイスタオルを直久とゆずるへ差し出した。
「ほらぁ~、早く顔を洗って。朝ごはん食べたら出かけるよ?」
「…………」
いつも思う。
この和久の笑顔は、何よりも強い。最強だ。
「……出かける?」
朝っぱらからどこへ? と思ったのは直久だけではなかったらしい。ゆずるも、不思議そうな顔で和久を見上げている。
「あ、そ、こ」
言い終わると和久は、にんまりと口端を上げ、一気にカーテンを引き開けた。
大きな窓が、いっぱいに日光を吸い込み、部屋中が生まれ変わったように明るくなる。
直久はまぶしさに目を細めた。
「あの山だよ」
和久は、窓の外を指差した。
朝食後、直久たちが向かったのは、裏山だった。
朝食の準備をする山吹一家を手伝いながら、和久が収集した情報によると、この屋敷の裏に実に怪しい場所があるということがわかったのだ。
「ほら、昨日言ったでしょう? この屋敷は、内部だけでなく、外部からも何らかの影響をうけてるって」
屋敷から裏山へと続く獣道を歩きながら、和久は説明し始めた。先頭を行くオーナーには聞こえないように小声になる。
「聞くところによると、この裏山にはこの辺り一帯の山の神様を祭った古い祠があるらしいんだ」
「祠……?」
「うん。その祠こそ、女の子たちが生け贄としてささげられていた、神様の祠だったんだ」
「……まじかよ。めっちゃ怪しいじゃん」
「でしょう? だから、早速お願いして、案内してもらってるってわけ」
「なるほど……」
直久が、腕を組んで、さも納得という顔で頷いた。その素直な反応に、ふわりと笑った和久だったが、ふと視線を直久の背後に送る。直久もその視線につられて、首をひねり、背後を振り返った。
「…………」
「ゆずる辛そうだね」
直久だけに聞こえるように、和久は囁いた。
「だったら、おいてくれば良かったんじゃねぇ? 」
「それはダメ」
ぴしゃりと言い放った和久の顔から笑顔が消えた。
「あの家に置いていくなんてできないよ。だって、ゆずるは今、力が使えないんだよ。また、昨日の晩みたいに、何かあったら──」
「ひとたまりもねぇな」
和久の言葉を、直久が継いだ。
かと言って、あんなに辛そうに肩で息をするゆずるを、結構な傾斜の山道を歩かせるのはいかがなものだろうか。
(きっと、心配してやっても逆ギレされるだけだろうけど……)
ふと、直久の脳裏には昨夜の出来事が、まるで録画映像でも見ているかのように蘇ってきた。
自分でも驚くほど鮮明に。そして、その時感じた恐怖までもが呼び起こされてゆく。
(まったく、ありえないっつうの……)
あんな恐ろしい目にあっていながら、よく、三人とも無事に朝を迎えられたものだ。
それもこれも、タイミングよく和久が目を覚ましてくれたから。
でも、あれほど直久が起こそうとしても起きる気配すらなかったのに、どうして自力で起きることができたのだろう。
何か対策がしてあったのだろうか。たとえば、式神に命じてあった、とか。
……ならば、式神も、とっとと和久を起こしてくれれば、あんなに苦労しなくてすんだというのに。
直久から思わずため息がこぼれた、その時。
(!)
不意に、ぞくりと悪寒が走る。同時に、あの時の声が、直久のすぐそばで聞こえたような気がした。あの時聞いた、クスクスとあざけり笑うかのような何者かの声が。
ばっと、体をひねり四方を確認する。何も見えない。もう、声も聞こえない。
和久とゆずるを振り返るが、何も感じてないようだった。
(気のせい? …………でも──)
「女の声だった……」
「え?」
突然難しい顔をした直久に、和久はびっくりしたように聞き返した。
「いやな~。聞いた気がしたんだよ、女の笑い声」
「笑い声?」
和久の眉が寄る。
「必死で抵抗するオレらを見て、くすくす笑っている感じ? まあ、聞き間違えかも知れないけどなぁ。わけわかんなくなってたから」
でも確かに聞いたのだ。
人の気配も感じたのだ。
意識を手放す瞬間に……。
「女の声……」
和久が考え込むようにあごに当てた右手を、何とはなしに直久は目で追った。
その表情から、自分の話を真剣に受け止めてくれているのが伺える。それがまず不思議だった。
能力のない自分が、意識を失う直前に、“いないはずの女の声を聞いた”と言ったのに。
きっと、ゆずるなら「寝言は寝て言え」と切り捨てるだろう。間違いなく、本家の長老たちなら、鼻で笑って終わりだろう。
「信じてくれんの?」
「だって、聞いたんでしょう?」
何でそんなことを聞くの、と言いたげに首をかしげる和久。だから、直久も胸を張って言うことができる気がした。
「聞いた」
直久は深くうなずいた。そっと、胸の中が熱くなるのを感じながら。
「じゃあ、確かに、僕ら以外の“誰か”があの時、あの部屋に居たんだと思う」
「……そうか……」
和久は、利き手で頭を書き上げた。そして、さらに難しい顔になって、小さくため息をつく。
「何だろうね……ただ、僕も気になることがあるんだ。さっき気がついたんだけど、そのことに関係があるかもしれない」
今度は直久が眉をひそめる番だった。
「気になること?」
「うん。ゆずるの使ってる部屋、開かずの扉の部屋の真上だったんだよね」
「え……あの?」
「そうなんだ」
そこで、和久は言葉を切ると、ふっと笑顔に戻り、直久をしげしげと見やった。
「でも、不思議だね。何で急に直ちゃんにも霊が見えたり、感じたり、聞こえたりするようになったんだろうね」
急にニヤニヤと含みのあるアヤシイ笑みを浮かべ、自分を覗き込むもので、直久は何も身に覚えが無いのに、ぎくりなった。
「な、なんだよ」
いぶかしげな顔をしている直久に、和久はさらに付け加えた。
「僕はいつかは、直ちゃんも力が目覚めるとは思ってたけど、何がきっかけだったんだろうなぁと思って」
「さあ?」
直久は、何が言いたいのかさっぱり理解できず、苛立ちをこめた短い返事をした。それを見て、和久が一瞬驚いた表情を見せる。
鈍すぎ……、と弟がつぶやいたような気がしたが、気のせいだと思うことにした。
(それにしても……)
直久は再び眉をひそめた。知らず知らず、和久の言葉が何度も反芻している。
────僕はいつかは、直ちゃんも力が目覚めるとは思ってたけど。
不思議な力を持つ一族。現存する九堂家とその血族は、直久以外全ての人が何らかの能力を持っている。
できるだけ、外部からの婚姻を避け、血族間で子孫を残し、何百年もの間その血が薄まらないようにとしてきた。
部外者を忌み嫌い、まるで、己たちだけが別人種であり、己たちの国があるかのように外界からの干渉を拒絶する。
そんな孤高の一族────九堂一族。
直久にとっては、出来うる限り触れずにいたいアキレス腱であり、いくら切っても切り離すことはかなわない、もはや呪いのような存在だ。
そうだ、自分たちは呪われているんだ。このよく分からない能力も、きっと何かの呪いか祟りか、罰なのだ。そう思わなきゃ、やってけない。
そうやって自分はこの十六年間を生きてきた。
けれど、結局自分もこの呪われた血から、逃げることはできないのかもしれない。
「なあ……」
直久は、前方を見ながら、ぽつりと言った。
「ウチってさ……」
口ごもって、言葉が続かず、ついには閉口してしまう。
だが、直久のそんな様子から、和久は敏感に感じ取る。双子の兄が何を言いたいのかを表情を読むことなんて、紙に書かれた活字を読むのに等しい。
「もしかして、九堂一族のこと聞きたいの? どうして、うちの一族は妙な力を持っているのか……とか?」
直久は内心舌を巻きつつ、観念して頷いた。その兄の様子に、さも嬉しそうに和久はおどけて見せた。
「その言葉を待っていたんだよ、ずっと!!」と付け加えながら。
「でも何で急に?」
「だってさあ……見ちゃったんだぜ、俺。霊なんて存在しないなんて主張していた訳じゃないけどさぁ……本当言うと、半信半疑だったって言うか」
実際、何度も目のあたりにしてきた。弟と従兄弟が死闘を繰り広げる姿も、両親が誰もいないはずの空間に向かって話しかけている姿も。
だが、自分には見えない。
そこに霊がいるといわれても、何も感じない。
「でも、確かに見ちゃったんだ、オレも」
「あの手は、生きてる人間のものじゃなかった。でも、本当に見えた。確かに存在してたんだ」
「うん」
一つ一つ、昨夜のことを確かめながら言葉にする直久に、和久は全てを受け止めるように頷いた。
前に誰かが言っていた。
霊の存在を信じるか否かという質問は、霊を見ている人にはナンセンスだと。なぜなら、彼らはいつも霊と共に生きているのだから。
「霊も、僕たちの力もちゃんと認識したら、どうしてこんな力を持っているのだろうって疑問に思ったんだね」
自分のモヤモヤとした気持ちを、さらりと代弁され、素直に頷いた。
自分はいったい何者なのだ。何のためにこの世にうまれてきたのだろう。
ずっと自分は、必要の無い人間だと思っていた。
でも、自分にも何か力があるのだとしたら、何か役目があるのだとしたら、それは何なのだろう。
「いいよ、教えてあげる。本当は、お祖父様か、お母さんに聞いた方が確かなんだけど、今知りたいでしょ?」
その覚悟はあるのか。
全てを受け止める覚悟はあるのか。
真実を見る目は持っているか。
そう問われているような気がした。
弟に、ではない。
“運命”というものに、だ。
直久はごくりと生唾を飲み込み、それから、もう一度、ゆっくり頷いた。
「よし。まず……直ちゃん、陰陽師って知ってる? 安倍晴明とか聞いたことない?」
「ない」
「じゃあ、そこからだね」
ちらりとゆずるを気遣う視線を送ってから、再び直久の目を見て、和久は説明しだした。
「陰陽師というのは、平安時代に活躍した、いわば占い師みたいな人たちのことで、安倍晴明は、その陰陽師の中で最も力が強いと言われた人なんだ」
「はあ……」
いきなり平安時代まで話が飛んでいってしまい、直久は拍子抜けした声で返事をした。
(せっかく勢いつけたのに……)
「だいぶ前に、占いブームになった時、安倍晴明が注目されたから、彼についてはそこそこ知っている人が多いけど、陰陽師=安倍晴明みたいに思い込んじゃっている人がほとんどなんだ。だけど、陰陽師っていうのは、仕事の一種なわけ」
「刑事さん、とか言ってるのとかわらないわけだな」
「そう。だから、彼の他に何人もの陰陽師がいたわけだ。まあ、他の陰陽師が彼一人の影に収まってしまうほどに、安倍晴明は強い力の持ち主だったんだ」
和久はいったん言葉を句切った。足下の雪に目を落とす。
「彼の影で、歴史の波に呑まれ、消え去っていった陰陽師たちの中に、大伴泰成という人物がいたんだ」
「どっかで聞いたことがある気がする」
「そりゃ、僕たちの御先祖様だもん」
「なぬ?」
突然話が自分たちの一族につながったので、直久は目を見張った。
「ところが、僕たちの御先祖は他の陰陽師たちみたいに、晴明の影で黙っているような人じゃなかったんだ。彼は晴明と同等、ううん、それ以上の力を手に入れようとして、様々な鬼たちと契約した」
「はあ? 契約? 鬼と?」
直久は顔を引きつらせた。
(鬼と契約って……)
鬼というものを見たことはない。だが、その契約が良いものが悪いものかというのは、感覚的に想像できた。
よく西洋の小説や映画でも、自分の欲のために、悪魔と契約をした人間の話がでてくる。
(何となく……ショック……)
自分たちのご先祖さまは、実はあくどい人だったのだろうか。
「そうなんだ。自分の死後、自分の体を捧げるから、自分の式神になれ、って契約したんだよ」
「か、体を捧げる!?」
次から次へと、信じられない言葉が飛び出すので、若干ついていけてない。だが、なおも和久の言葉の攻撃は続く。
「鬼とか、妖怪たちの中にも、性格の違いがあるんだけど、大抵、捧げられたら、食べるよ」
「……た、食べる……!? だ、誰を!?」
「だから、契約者を。実際、彼が亡くなった瞬間、その死体が、髪の毛一本残さず消えちゃったんだって。つまり、彼に使役されていた鬼たちが契約通りに持っていったからなんだ。ある鬼は右腕、ある鬼は左足みたいに、彼の死体からもぎ取って──」
「ひえええええ」
小さく叫びながら、両頬に手を当てた。そんな直久にニコリと微笑む弟の姿が急に恐ろしいものに見えてきた。
彼にとって、それは日常なのだ。それが普通に行われている世界に、今までも生きてきた。
ヒトが動物の一部であり、弱肉強食という自然の摂理の中で生きているのと同じように。直久の知らない世界の厳しい掟を垣間見た気がして、どう飲み込んでいいか分からなかった。
「彼は、より強い式神を手に入れるために、強大な力をもつ鬼を探し歩いてこの関東まで来た。そして一匹の雌狼と出会ったんだ。その妖狼は真っ白い毛並みの、本当にきれいな狼だったんだって。まぁ……いろいろあって、彼はその狼との間に女の子を儲けた」
「儲けたって。狼だろ?」
「人間と獣の結婚って、よくある話だよ。中でも狐の例が一番多いね。人間に化けた狐と、そうとも知らない人間の獣婚の話、昔話とかになって語られてるでしょ」
「ぶ、物理的に無理だと思うのはオレだけだろうか……? ほらサイズとか、その他もろもろ……」
「あーハイハイっ!! とにかくっ!!」
直久の頭の仲が、よからぬ方向へ突き進んでいくのを、寸前のところで食い止める。
「生まれてきた女の子の名前は、小夜」
小夜……妖狼と人の間に生まれた娘……。まるで、小説やB級映画か何かに出てきそうな設定だ。
他の人が聞いたら、冗談でしょう? と鼻で笑われるのがオチだ。
本当にそんなことが現実にあったというのだろうか。
いや、でもそれを本気で信じているのが自分たちの一族なのだ。
(妖怪、悪霊、神。オレたち一族は、いったい何者なんだ……)
自分たちこそ、ヒトの形をした“ヒトでないもの”なのかもしれない。
「ちなみに、清明よりも小夜の方が強い力を持っていたと言われているんだ。それが証拠に、清明は自分を負かせた小夜に、幾度も求婚したんだけど、そのたびにフラれていたとか――もっとも、そんなことを言っているのは、うちの家だけだから、少々着色されてるだろうけど」
と言って、和久は肩を竦めた。
「幼い頃、小夜は泰成ではなく、母狼に九匹の兄姉たちと共に育てられたそうだよ」
「もののけ姫っ!」
「……で、彼女は成長と共に、関東で名声を高めていくんだ」
「ってスルーかよっ!!」
「その名声は、遠く都にまで聞こえるようになり、度々都へ呼ばれるようになる。まあ、ここで清明と対面したんだろうね」
「ってそれもスルーかよっ!!」
「巫女として活躍した彼女は、九匹の妖狼を式神に持っていたことから、九狼の巫女と呼ばれるようになったそうだよ。九狼――その“くろう”という音がいつの間にか“くどう”になって、“九堂”になり、それが本家の姓となったわけ」
「…………」
「どうしたの?」
「いえ……途中から消化不良で、胃薬欲しい感じなんデス」
「うん、一気に言い過ぎちゃったかも」
幼い頃から、この話を何度も聞かされてきた和久にとっては、学校で暗記させられる『枕草子』よりもスラスラと言葉が出てくるらしい。
最後に弟は、要するに一族の人間離れした力は、自分たちの血にその雌狼の血が混じっていることが原因だ、と言った。
「狼だけならいいんだけどね」
「え?」
「婚姻を重ねることで、血が薄まり、力を失うことを畏れた僕らの祖先は、薄くなる度に妖怪と交じったらしい」
そして、さらりと和久は言ってのけた。
「たとえば、お祖母様のお父様がイタチの妖怪なんだ」
「い、イタチ……ご冗談をっ」
「でも、曾お祖母様は未婚でお祖母様を生まれたんだ。うちのようなお堅い御家で、未婚の母って普通じゃないと思わない? 勘当するくらいはしそうでしょう? なのに、その母娘は厚く礼遇され、娘が当主に嫁ぐんだ。おかしくない?」
確かに、和久の言ってることは筋が通ってる。
だけど、そうなると……。
「オレらイタチが混じってるわけ……?」
衝撃に打ちのめされ、直久はその場に立ち尽くした。突然足を止めた直久の背中をよけるように、ゆずるが横へずれた。
「急に止まるな」
「……だって、イタチ……ま、まさか、だからオレは天才的に運動が得意なのか!?」
「いや、でも、僕にも混じってるんだけど。僕、体育2だよ」
直久は、今、まさに気がついたというように、弟の顔を見ると、深いため息をついてから、同情をこめて弟の肩に手を置いた。
「……オレが全部、吸い取っちまったんだな」
「そうかもね。でも、僕、赤点は一つもないし、体育もテストでカバーしてるし、それでいいよ」
「うっ」
二の句が告げないでいると、ゆずるも弟を援護射撃する。
「運動だけで、勉強が壊滅的ってどうよ」
「ぐはっ」
「だよね、跳び箱飛べなくても、大学は入れるよ」
「かはっ。……オレ、今、吐血したところね」
直久は体を折り曲げ、口に手を当てた。
「……うぜぇ……」
ゆずるは吐き捨てるように言うと、双子を追い抜き、先に行こうとした。その腕を、とっさに直久が鷲づかみする。
「あんだと、てめぇっ」
唸るようにすごむ直久を、見ようともせずにゆずるは直久の腕を振りはらう。
「……触るな」
足を止めずに、一言だけ残し、ゆずるは心配そうにこちらを見ているオーナーのもとへと向かっていった。今にも噛み付きそうな顔で、直久はそれを目で追う。
と、肩に弟の手が、ぽんと乗せられた。
「直ちゃん」
ぐるんと首をひねり、弟を見ると、弟は寂しそうな笑顔を返してきた。その物言いたげな表情に、直久の怒気がいっきに蒸発した。
何かあるのか。
自分の知らない、本家の事情。ゆずるの心をここまで冷たく凍りつかせてしまった、理由が……。
「行こう」
和久は前方で心配そうにこちらを見守っているオーナーに、今行きます、と会釈する。
「ほら、直ちゃん」
和久が促すので、しぶしぶ直久はオーナーの方へと歩き出した。