言われなくてもわかってる(2)
(どこだ……どこにいる……!?)
寒さを感じているというのに、直久の額にはうっすらと汗がにじんでくる。
部屋の奥の暗がりに目をやった時だった。直久の眉間に力が入る。ベッドの上の布団の固まりが僅かに動いたのを、直久は見逃さなかった。
(あそこだ!!)
直久は、はじかれたように床を蹴って、ベッドに駆け寄る。見ると、ゆずるはベッドの上で布団にくるまり身を縮めていた。
「おい、どうした!? 何かあったのか!?」
驚いたように、勢いよくゆずるが直久を見上げた。
「な、直久っ」
「おう。大丈夫か?」
近寄って肩に手をそえる。すると、その細い肩は小刻みにガタガタと震えていた。
信じられなかった。ゆずるが恐怖に身を震わせている。いつも自信に満ちあふれて、クールで無口でいけ好かない、あのゆずるが。まるで別人のようにおびえきっている。
「また、目がたくさん……見えるんだ」
消え入りそうな声でゆずるが訴える。
「俺を探してる……たくさんの目が俺を捜してるんだ」
「……え」
直久は、あたりを見回した。
だが、見渡す限りの闇の中に、目だけが浮かんでみるなんてことがあるわけがない。
でも、ゆずるには見えているのだ。
「もう限界なんだ……」
ゆずるはそう言うと、直久の腕にしがみついてきた。
「限界って……?」
「今はカズが張っておいてくれた結界で、奴らには俺の姿が見えない。でも……それももう直ぐ消える。奴らの力がどんどん強くなっていくのが、手に取るようにわかるんだ」
「奴らって――」
生け贄になった女の子たちのこと? と言葉を続けようと思ったが、できなかった。ゆずるが、びくりと大きく体を震わせたからだ。
「……消える」
そう、ゆずるが言った直後。
──プツ。
わけがわからずに、呆然としている直久の耳にそれは確かに聞こえた。まるで細い糸が切れたような、やっと聞き取れるような音だった。
なんの音だろう、と思ったのもつかの間、一瞬にして、直久の周りの空気が、ずどんと、肩にのしかかるように重くなる。そして、急激な吐き気を催した。目がぐるぐると回るような感覚もあれば、胃をわしづかみにされ振り回されたような気持ち悪さだ。
「うっ……うえっ……」
胃液が出そうになるのを必死にこらえた。
直久は悟った。先ほどの、ブツっという音は、ゆずるのために和久がこの部屋に張ったという結界が壊れた音だったのだ、と。
(……ゆずるもカズも、いつもこんなの感じてるのかよ……)
なんとか持ちこたえた直久は、ちらりとゆずるに視線を送った。
「ゆ、ゆずる!?」
直久は慌てた。今にも意識を失いそうなほどぐったりとしているのが見えたのだ。
初めて悪霊の霊気を感じる直久とちがい、ベテランのゆずるなら、こんなの大したことない、と言わんばかりの涼しい顔をしていると思ったのに。
「お、おいっ!!」
ゆずるの頬をピシャピシャと叩いた。僅かに目を開けたが、すぐに閉じてしまう。
「しっかりしろ!!」
叫びながら、ゆずるを抱き起こした。そして、ゆさゆさと乱暴にゆずるの体を揺する。が、今度は力なく項垂れ、動かない。
(これって、万事休す!?)
ごくり。
生唾を飲み込む音だけが、闇に包まれた無音の部屋に響き渡った。
明らかに剣呑な空気の中、何の抵抗もできない二人で、どうしろというのだ。危険が察知できても、その危険を回避できねば何の意味もない!!
直久は激しく後悔した。もっと和久の話を真剣に聞いておくべきだった。こんな時に直久にもできることを、何か教えてもらえばよかった。少なくとも──。
(──和久をたたき起こす方法聞いときゃよかった。てか、ゆずるなら知ってるかもしれない!)
わずかな希望を込めて腕の中のゆずるを見下ろすも、すでに正体をなくしているゆずるの姿に、無惨にもその希望は砕かれる。
(……気づくの遅すぎ、オレ……)
がっくりと肩を落としたその時。
(──!?)
直久の肌が、ぞわぞわっとざわめくように毛を逆立てていく。
まさか、と思った。
勢いよく、体ごと後ろを振り返った。目だけを動かし左右を確認する。再び、何かを感じ取り、右前方へ首をひねる。視覚から得られる異変はない。
だが、確かに──。
(――何かいるっ!)
はっきりと直久は感じ取った、何人ものヒトの気配。直久たちの背後から右に左に忙しく動き回って、まるで品定めでもしているようだ。
冷蔵庫のように冷えきった部屋だというのに、直久の頬を凍るほど冷たい汗がすーっと伝い降りていった。
(何人いるんだ……)
ゆずるをしっかりとかかえ直すと、今度はゆっくり首をひねり、あたりを見回した。
だがいくら目をこらしても、何も見えるはずがない。霊力のない直久は、本能的に、見えない敵が発する殺意を感じ取ってるに過ぎないのだ。
(くっそう。どうしたらいいんだ!)
直久が悔しさと歯がゆさでいっぱいになった時、突如としてゆずるの体が腕から、ずるりとすり抜けた。まるで、何者かが闇の中へゆずるを引き吊りこもうとしているかのように。
(なっ!? ちょっ……!)
直久はとっさにゆずるの左腕を掴み、間一髪で腕の中へ引き戻す。
「あ……あっぶねーっ!!」
肝を冷やしながら、ゆずるをしっかりだき抱えた。しかし、なおもゆずるは、かなり強い力でひっぱられている。
その力はだんだんと強さを増していった。しだいに、意識の無いゆずるの体が、直久から引き離されていき、直久はそれを何とかつなぎ止めるのに必死に腕を引っ張るしかない。
(腕が……このままじゃ……きつッ)
持たない。限界の見えてきた自分と、限界どころか、まだ力を強め続ける姿なき敵。勝敗は火を見るより明らかだ。
「うっ……」
それまで反応のなかったゆずるが小さくうめいた。そのか細い声に導かれるように、直久はゆずるの足首を見る。すると、その足にいくつもの手が絡み付いているではないか!
(なっ……)
直久はぎょっとして、目を見開いた。
その手は青白く、暗闇にはっきりと浮き上がって見える。
そう、見えるのだ。
直久にも、はっきり、見えるのだ。
弟から散々聞いてはいても、実際に見るのとでは全然違う。それは、確かに“ヒトの手”なのに、明らかに“人の手”ではない。
血の通う暖かさや、柔らかな弾力と程良い滑らかさの感触など、その手からは想像できない。実際にさわらなくてもわかる。
それに、異臭こそないが、朽ちた、というのが正しい表現だろう。ねちゃりと、粘つきそうな、ただれた皮膚からは、肉が腐り落ちて、所々骨が見えている。
完全に、初めて霊的存在を目の当たりにし、その恐ろしい姿に、頭が真っ白になっていた。だが、再びゆずるの身体がその手に強引に引っぱられて、すぐさま我に返る。
「うわあぁ……あっぶねぇ……」
自分までもが引きずり込まれそうになり、ゆずるを掴んでいた手を離し、とっさにベッドの枠を掴んだ。
限界が近い。しかも片手で抵抗できるほど、敵の力は甘くない。
その上、腕には乳酸がたまり、ぱんぱんになっている。手のひらも汗がにじみ、いつ、ゆずるの腕が滑り落ちてしまうのではないかと気が気ではない。
「だーーっ!! ゆずる、しっかりしろっ!!」
ゆずるが正気に戻れば、自力で腕を掴んでくれれば、ベッドにくくりつけるとか、その間に和久を起こすとか、色々やりようがあるかもしれないのに。このままでは、この手が離れるのを待つだけになってしまう!
ズルリ……。
徐々に引っ張られ、直久の手から引き離されていくゆずる。直久の表情に焦りの色ががこくなる。
もう限界だった。
それでも、直久は諦めなかった。
(ぜってー、離すもんかっ!! 俺は腕がちぎれても離さねーぞっ!!)
確かに、ゆずるとは折が合わない。顔を見れば、いつもむかついてくる。
でもそれは、嫌いだからではない。
この十六年間、家族の次に、共に過ごした時間の長い従兄弟を、いつもどこか妬ましく思っていた。一族で一番の能力を持ち、誰からも認められる、同じ年の従兄弟の存在を。
ゆずるといるとどうしても比べてしまう。
何も力を持たない、一族から無視される自分と、すべてを持ち将来を期待される従兄弟。
存在そのものを消された気分になる。
自分はここにいる。確かにいるのに。
なぜ双子の和久だけが、厚く庇護され、自分は臭いものでも見るかのような扱いを受けねばならないのか。
でも、ゆずるが悪いわけではない。好きで、その力を持って生まれたわけではないのだ。
好きでこんな怖い思いをする奴がどこにいる。何度も、何度も、こんな死にそうな思いをしながらも、できて当然のような親族の目をいつも感じていたに違いないのだ。その親族の中に自分もいた。
だからゆずるは自分を冷ややかに見下していたのかもしれない。
何も知らないくせに、と。
己の運命をゆずるのせいにして逃げていた自分が、同じ年月かけて運命と必死に戦ってきたゆずるに叶うわけがない。
オレはオレだ、と言いながら、直久自身が自分を認めていなかったのだから。
いつか、素直にゆずると対峙できる日がくるだろうか。ゆずるの気持ちを汲んでやれる日がくるだろうか。
弟と肩を並べ、ゆずるの力になってやれる日が──。
(くそーーっ!! 死なせてたまるかっ、こんちきしょおおおおっ!!)
最後の力を使い果たすとばかりに、その名を叫んだ。
「和久あああああっ!!」
その時、一瞬だけ、部屋の空気が揺れる。
すると、わずかな間をおいて、けたたましい足音とともに、誰かが駆け込んできた。すぐさま、弟の刺すような鋭い声が部屋に響き渡る。
「臨、兵、闘、者、皆、陳、烈、在、前っ!! 悪霊退散っ!!」
朦朧とする意識の中、ふっ、と部屋中の重苦しさが消し飛んだのを感じた。
(助……かっ……た……)
意識を完全に手放す瞬間、直久は自分に駆け寄った弟の声の他に――クスクス、と誰かが笑う声を聞いたような気がした……。