寒椿(2)
◆◇
なぜかは分からない。直久は、いつの間にかそこにたどり着いた。体中がアヤメを探し出すためのコンパスになったのではないかと思うほど、何かに引っ張られるようにして二人の元にたどり着いた。
裏門の目前にして、泣き落ちるアヤメ。それを、冷ややかに見つめる青年。
その二人の間には、空よりも高く、地よりも深い隔たりを感じた。
「アヤメさん……」
不思議な感覚だった。アヤメの心がなだれ込んでくる。
彼を愛してしまったこと。彼と逃げるために、今日のことを計画したこと。そして、ツバキとして彼に愛されようとしたこと。自分を殺して、ツバキになろうと決めたこと。
次々に、彼女の心が入り込んでくる。直久の心がアヤメに共鳴するように、自分が彼女になってしまったように。
悲しみ。妬み。怒り。孤独。不安。絶望。
そして、確信する。
彼女だ。自分を呼んだのは。
ツバキじゃない。アヤメのほうだ。
直久が、そう思った瞬間だった。
─────助けて! 私はここにいるの!
直久ははっとした。
今、一瞬、何か聞こえた気がした。アヤメかツバキの声だった。しかし、アヤメは泣くばかりだし、ツバキはここにはいない。
(なんだ?今の?)
「ツバキはどこにいるっていうんです、アヤメさん」
清次郎の声に直久は我に返り、二人を見ると、嗚咽をもらして泣くアヤメの肩を支えるように、清次郎がアヤメを立たせてやっていた。
「ツバキさんは大丈夫ですよ!」
直久は、アヤメに駆け寄りながら清次郎に伝えたつもりだったが、反応がない。やはり彼には直久の声も姿も意味を成さないらしい。しかし、アヤメは直久の声に顔を上げる。
「……直久さん?」
アヤメがそう声を上げたのと、清次郎が驚いたように目を見開いたのが同時だった。
「……ツバキ!」
(え!?)
直久はぎょっとした。清次郎がアヤメから手を離し、駆け出す。その様子を目で追うと、息を切らしたツバキの姿が目に入った。
「な、ちょっと、ツバキちゃん! 何で来たんだよ!!」
直久が、どうやら彼女は自分の後をずっと追いかけてきたのだと、気がつくのにそう時間はかからなかった。
だが、やっぱり幼児と一緒で、一人で留守番なんてできるはずないよね、とも、納得せざるを得ず、がくりと肩を落とした。
「ツバキ!」
清次郎は実に嬉しそうな顔で、ツバキを抱きしめようとした。だが、その伸ばされた彼の腕を、ツバキは拒絶する。そして、アヤメを見て言った。
「アヤメさん。どうしてここに?」
「…………」
直久はぞくりとした。ツバキが怖かった。彼女の顔が怒りに満ちているからではない。無表情だからだ。
あんなに今まで、ころころと表情を変え、笑ったり、不思議がったり、直久を心配そうに覗き込んだりと、表情豊かだった彼女の今の顔から、なんの感情も読み取れない。まるで、人形のようだと直久は思った。
と、それまでアヤメを見つめていたツバキの視線が、ゆっくり直久に移動する。
(────!!)
直久の全身を、悪寒が走り抜けていった。この悪寒は、初めてではない。
そう、これは────あの悪霊のっ!!
(まさか、そんな! ツバキさんが!?)
恐怖に体中が岩のように動かなくなった直久は、ツバキから目をそらすこともできない。背筋を冷たいものが走っていく。
ふっ、とツバキの口元が不適に笑ったように見えた瞬間、ツバキは自分たちに背を向けた。
「私は戻ります。明日の儀式をするのは私よ、アヤメ!」
そう言って、彼女は屋敷へと走り出す。
「え、あっ! ツバキ!!」
慌てて、清次郎が後を追った。
直久も、後を追おうとしたが、小さく振り返るアヤメの手がしっかりと直久の洋服の裾をひっぱっていて、前に進めない。
「い……いかないで」
このまま、ツバキが戻れば。
ツバキが生け贄になり、清次郎が自分のものになる。
そんなアヤメの心が、再び直久の心に流れこんできた。
「……アヤメさん……」
確かに、このままツバキが部屋に戻れば、アヤメは生け贄にならない。でも、それは彼女の命を救ったことになっても、心を救えない。
自分を呼んだ彼女の魂は、命を救って欲しくて助けを求めたのか?
(いや、違う。オレを呼んだ、本当の理由は……!)
自分を認めて欲しい。
ツバキはツバキ。
アヤメはアヤメ。
そう言ってほしい、自分が心から信じる人に。
直久がそう思ってきたように。
自分はおまけじゃない。和久の残りカスでもない。
一人の人間として、ちゃんと認めてほしい。大事な人から。
(そんな──孤独を理解して欲しいからオレを呼んだ、違う?)
「ねえ、アヤメさん。君は本当はどうしたいんだ?」
「え……?」
直久はそう語りかけながら、ゆっくりとアヤメに歩み寄り、その肩にそっと手を置いた。
「ツバキちゃんをあの部屋に閉じ込めて、生け贄にさせることが、本当に君のしたいこと?」
「…………」
アヤメは直久が何を言いたいのかわからない、という顔をした。それでも直久はかまわずに続ける。
「アヤメさん。やっぱり、俺さ。どんな格好をしていても、君がどんなにうまくツバキちゃんの振りしていても、アヤメさんはアヤメさんでしかないと思う」
「…そんなことない。お父様やお母様は絶対に気がつかないわ」
「オレも双子の弟がいるから、わかるよ。入れ替わって遊んだことは何度もある。でも絶対ばれるんだ。だってね、ツバキちゃんががこの世にツバキちゃん一人しか存在していないように、アヤメさんだって一人しかいないんだから」
アヤメは無言で直久から目をそらした。まだ納得いかなそうだ。
「じゃあさ、逆だったら?」
「逆?」
「もし、何百っていう人がさ、清次郎さんの振りをしていて、それがもう、すっげぇそっくりだったとする。アヤメさんは、清次郎さん捜し出すことができると思う?」
「!」
アヤメは悔しそうに直久を見上げた。直久が何が言いたいのかわかったようだ。
「でしょ? 君なら清次郎さんを見分けられるよね。大切な人だから。大好きな人だから。清次郎さんにとってはそれがツバキちゃんだったんだよ。だから、アヤメさんが、どんなにうまくツバキの振りをこなしていても、清次郎さんにはバレてしまうんだ。ダメなんだよ」
「…………」
「アヤメさんを見つけてくれる、たった一人の誰かが、必ず現れるから。その時に、アヤメさんがアヤメさんとして、胸を張って生きていなきゃ。『これが私なのよ。何か文句ある!?』って」
どんなに、他人に嘘を突き通して自分を偽ったとしても、自分だけにはその嘘を隠すことはできない。
自分は自分。
他人にはなれないのだから。
「やめようよ。オレもやめるから、一緒にやめよう。自分に嘘をつくのは。まわりに認められようと頑張って、自分を押し殺すのは」
直久は空を仰いだ。アヤメもつられたように天を見上げる。その瞬間に、彼女の瞳から一筋のキラキラとした涙が零れ落ちた。
「自分をもう少し好きになってやろうよ。オレは弟みたいに人を救う力も無い。頭も悪いし、一族からはゴミかお菓子のおまけみたいな扱いさ。でもね、何もできない、誰も助けてやれないオレだけど、誰かを少しでも笑わせてやれることができれば、オレはそれでいいよ。それで十分、オレは生きている価値があるんだと、思えるよ」
「……好きになれるかしら……こんな醜い自分を」
直久はアヤメを振り返り、にっこり笑った。
「だって、君は十分に魅力的な女の子だよ。優しいし、笑顔が可愛い」
アヤメは、直久の言葉に少しだけ表情を和らげた。
「今だって、君はツバキちゃんの幸せを願っている。いや、ほんとうはずっとずっと願ってたんだ。あんな地下室に閉じ込められていた姉をずっと心配して、出してあげたくて、でもどうしていいかわからない。そう、悩んで、悩んで、苦しみぬいてきた。そうでしょう?」
「……だって……可哀相で……私のたった一人の姉なの……でも、怖くてできなかった……じゃああなたが生け贄になりなさい、って言われそうで……できなかったの……」
再びアヤメははらはらと涙をこぼし始めた。
「それが普通だよ。オレが君でも、そう思うと思うよ。ま、その前に、オレは後先考えるのなんて苦手だから、まず暴動を起こすね。家をぶっ壊すっ」
直久はにかっと歯を見せて笑いかけた。それを見たツバキが泣き笑いになる。
「……でもさ、こんなのおかしいって思わない? 生け贄なんて、本当に信じているの? 止めるべきは、ツバキちゃんたちの駆け落ちじゃなくて、生け贄の儀式のほうだと思うんだけどな、オレ」
直久が何気なく言った言葉だった。でもそれは、アヤメにとっては考えもしなかったことのようで、まるで狐に摘ままれたような顔をになった。
「え? だって何で死ななきゃなんないんだよ。おかしいだろう」
生まれた瞬間に、十六歳で死ぬことが決まるなんて。
あんな地下室に閉じ込められなきゃいけないなんて。
「……確かに」
アヤメはまっすぐに直久の顔を見た。そして、もう一度、はっきりと言った。
「確かに生け贄なんて、おかしいわ」
「でしょ? 生け贄の儀式自体を無くせばいいんだ。誰も死ぬ必要はないし、逃げる必要もないんだよ」
「……そうね。そうなんだわ。でも……」
言葉を切ってアヤメが顔を曇らせた。
「そんなこと、できるかしら……お母様だってずっと、生け贄を止めさせたいって、泣いてらしたわ。でも『しかたないの』、『無理よ、止められないわ』って」
「やってみたの? オレ、何もしないくせに、『無理』とか『しょうがない』とか言ってる人って嫌いだ。だってさ、やってみなきゃわかんなくない? やって後悔するより、やらなくて後悔するほうが損した気分になるよ、オレはね」
直久は思ったことを言っただけなのに、アヤメは、再び、はっとした顔になった。
「そうね……その通りだわ」
「え?」
「やらないで、『やっとけば良かった』ってずっと思っているより、『やってみてダメだった。なら今度はこっちだ』って思ったほうが、次があるわよね」
「そう、そう、そう! さすがアヤメさん! オレが言いたかったのはソレよ」
「まあ、調子いいのね!」
ふふふ、とアヤメが笑顔になった。
何度か見るアヤメの笑顔とは少し違って、本当にすきりとした青空に浮かぶ暖かな太陽のような笑顔だと直久は思った。
「いい顔」
「え?」
「惜しいなぁ、君がもうちょっと若かったら、オレの女にしたのに」
「まあ、若かったらって同じ年じゃないの?」
「うん、まあ、ざっと君が百五十歳くらい年上かな」
「……ええ!?」
アヤメは目を丸くし、絶句した。そして、すぐに声を上げて笑う。直久もにっこりと微笑んだ。
よかった。その笑顔で、オレも救われた。そんな気がして、直久は胸がほんわり温かくなっていくのを感じた。
「……私、ツバキを助けるわ。でも、逃がすためじゃない。二人で父を説得して、生け贄なんてやめさせる」
「うん」
直久は、柔らかな表情でうなずいた。
「やるわ! 何とかする。時間はかかるかもしれないけど。まずは、ツバキを私の部屋に連れていくわ。それで、朝になったらお父様のところへ二人で行くわ」
そして、直久の方をしっかりと見て、言った。
「見てて、直久さん。まずは私が、やってみせるから。次はあなたの番よ。約束ね!」
きっぱりと言い切った彼女の顔は、すっきりとしていて、本当に綺麗だった。
◆◇
直久とアヤメはツバキの部屋にたどり着くと、扉の前で顔を見合わせ、一呼吸おいた。
「いきましょう」
直久は深くうなずいた。それを受け、アヤメがその部屋の扉を一気に押し開ける。
直久がアヤメの後に続いて、足早に階段を降りて行くと、ベッドに腰をかけたツバキと、彼女を必死に説得する清次郎が見えた。
その様子にさすがの直久も驚いた。だいぶ動揺しているようで、オロオロとツバキの前を行ったり来たりしている。
直久も彼をよく知っているわけではないが、ついさっきまでの清次郎とはまるで別人に見えた。こうも人はパニックになると、回りが見えなくなるものなのかと、直久は一人しみじみとなってしまった。
「……アヤメ」
ツバキはしっかりとアヤメを見据えた。そして、直久とも目が合う。その瞬間、あの悪寒が直久を襲う。
「ツバキちゃん……君が――っ!?」
直久は最後まで言葉を続けることができなかった。突然ツバキの目が妖しく赤い光を放ったのだ。
(――――なっ!?)
次第にツバキの背後に何かが見え始める。それは部屋の闇より更に深い闇が霧のようにうごめいていた。
呆然とその闇に目を奪われ、恐怖に飲み込まれそうになりそうなのを瀬戸際で耐えていると、不意に不気味な声が直久の耳に飛び込んできた。
────ジャマヲ スルナ
(これは、悪霊の声!? やっぱり……ツバキちゃんがあの悪霊なのか!?)
ということはここは悪霊であるツバキの記憶が作り出した世界だというのか。
直久はやっと自分のなすことが、なさねばならぬことがはっきりと見えてきた気がした。
今、自分が目にしているのは、まさにツバキが悪霊になるまでの出来事で、このまま直久が何もせずにいれば、ただツバキが悪霊になるのを繰り返すばかり。
どこかで、自分がこの悪循環を断ち切らねばならないのだ。
では、どうやって断ち切る?
とにかく落ち着こう、と直久は唾を飲み込もうとした。が、できない。そればかりか、口も顔も動かせない。
(あれ?)
直久はまさか、と思い、足を動かしてみようとおもった。だが、どうやっても自分の意思では足が動かせない。いや、指一本動かないようだ。
(まじかよっ!)
アヤメに助けを求めようとした。
「────っ」
が、声もでなかった。これは、本格的にやばい気がする。気がするが、同時に悪霊が自分が邪魔に思っている何よりの証拠ではなかろうか。
(ツバキちゃんっ!!)
心の中で、叫んでみたが、ツバキからの応答も、わずかな表情の変化も見受けられない。これでは、直久の声が届いているのかどうかもわからない。
このまま。動けないまま。
自分は、何もできずにツバキを助けられなかったらどうなるのだろう。
そんな、不安ばかりがどんどん膨らむ。モヤモヤとした気持ちを払拭するために、いつもなら、水をかぶった犬のように、ぶるぶると頭を振り回すというのに、それも今はできないときた。苛立ちにもにた焦りの中、直久は、じっとツバキを見つめる。
「もう、この部屋にいる必要はないわ」
アヤメがそんな直久にはまったく気がつかずに、ツバキに対峙する。
「どういうことなの? 儀式は明日よ?」
「それは後で話しましょう。とにかく外へ出て」
「だめよ。儀式が行われなければ、お父様が悲しむわ」
アヤメは小さくため息をついた。
「だから、私が代りにここにいるから。さっきもそう言ったじゃない」
「…………わかったわ」
ツバキは意外にあっさりとベッドから立ち上がった。それで、直久は、違和感を感じた。
……おかしい!
何がどうおかしいのかは説明できない。でも、直久の肌がちくちくと、ツバキの中の悪霊を感じ取っている。ツバキの中の黒い闇を察知している。それだけは、断言できた!
直久は必死でもがく。つもりだった。実際には、髪の毛一本動かせていない。
なぜ。
どうしていつも自分は、大事な時に何もできないのだろう。
今。
やらなければ。
そう感じているのに!
見ているしかできないのか。
また自分は、何もできないのか。
直久が胸を締め付けられるような痛みを感じた。その痛みがどんどんと強くなる中、ツバキが清次郎に肩を抱かれながら、直久の、つまり部屋の出口へ、と歩み寄ってくる。
(ダメだ、ツバキちゃん!! オレは君を助けに来たんだ! 悪霊になったらだめだっ!!)
唯一動く眼球の筋肉をフル稼働させ、ツバキを目で追った。
(くっそう! この呪縛さえ解ければっ!!)
ついに、ツバキが直久の横を通りすぎる瞬間、再びツバキと目があった気がした。
そして────。
(なっ!?)
直久は目を疑った。見間違いだと思いたかった。
だが、確かに見たのだ。
彼女が、にやりと笑ったのを────。
大きな虫が体中を這いずり回るような、ぞくぞくっとした寒気が直久を襲う。
────オマエモ ココデ 死ヌガイイ
胸が、どくん、どくんと大きく脈打った。
再び直久だけに聞こえた悪霊の声に、恐怖よりもさらに強く、嫌な予感がした。
悪霊は今、なんと言った?
おまえ“も” ここで死ね!?
「行くわよ、直久さん」
続いて直久の横を通過したアヤメは、階段を途中まであがったところで、直久がついてこないのに気がついたらしい。不思議そうな声が聞こえた。
直久の体はピクリとも動かない。それなのに、額から嫌な汗がたらりと垂れていった。
「直久さん?」
危険。
キケン、キケン!
体中が、警報を大音量で鳴らしているというのに!!
この危険をアヤメに伝えるすべがないなんて!!
「アヤメ」
ツバキの声がした。振り返らなくても、直久にはその恐ろしい無表情な顔が、手に取るように分かった。
「ありがとう」
「ツバキ?」
困惑したようなアヤメの声。
「え!? ──あっ、ちょっと、鍵を返してっ!」
「ありがとう、もう一人のツバキ。あなたはもう要らない」
「え? あ、やめっ……」
直久の背後で、争う声が聞こえたと思うと、ドンという鈍い音がした。
「きゃあああああ────」
頭が割れそうな悲鳴が、部屋の冷気を切り裂く。かなりの質量のあるものが転がり落ちてくる重い音。後続く、慌てて部屋を出て行く二人分の足音。
それでも直久の体は動かない。
何があった。
アヤメにいったい何があったというのだ!
(畜生、アヤメさんっ!? アヤメさんっ!! くっそーーっ! 動け、動け、動けええええええええ!!)
────パリン
心の中で必死で叫んだ瞬間、まるで鏡でも割れるような、大きな音が直久の頭の中で響いた。ふわりと、体が軽くなったように感じたかと思うと、バランスを失った直久はその場に崩れ落ちた。
(──解けた!!)
間髪いれずに、直久は背後を振り返る。階段の下に横たえる赤い着物が目に入った。
「アヤメさんっ!!」
慌てて駆け寄り、抱き起こす。アヤメがかすかに、うめき声を上げた。
よかった生きてる。
小さく息をついた。
「アヤメさん、しっかりして!」
「大丈夫よ、直久さん……あっ!」
体を起こして、立ち上がろうとしたアヤメは、小さく悲鳴を上げた。
「どうしたっ!?」
「足をひねったみたい……」
なんだ、その程度か。直久は大きな脱力感を味わった。
とりあえず、無事でよかった。本当によかった。
せっかく、いい顔をするようになったのだから。アヤメには少しでも長く笑っていて欲しい。素直に直久はそう思うのだ。
「それにしても、どうして階段から落ちたの? なんかもめてたように聞こえたけど」
直久が聞くと、アヤメは顔を曇らせた。
「ツバキに、突き落とされて……鍵も取られたわ」
直久は、自分の頭から、さあっと血が引いていくのがわかった。
悪霊の言葉が意味していたのは、このことだったのではないか?
「閉じ込められた!?」
直久の言葉に、アヤメも顔色を変えた。ひねった足を這うようにして階段をあがり、扉の前に急ぐアヤメ。
「開かないっ!! 開かないわっ!!」
「まじかよ……」
アヤメは完全にパニックになっているようだった。このままでは、清次郎がツバキを連れて逃げてしまう。そうなったら、自分が生け贄にされる。そんな恐怖が直久にも流れ込んでくる。
怖い! 怖い!!
静かな闇に支配された部屋。
怖い。
嫌、こんなところにいたくない。
誰か、お願いだから出して! お願いよ!
そんな悲痛な心の叫びが、直久を襲う。苦しい。胸が痛い。心が壊れてしまいそうだ。
「いやあああっ!! ツバキ、ツバキ! 誰か、助けてっ!!」
アヤメは何度も扉を叩いた。何度も、何度も。
直久はそんなアヤメの心に完全に同調していた。
胸が痛くて、息も出来ない。勝手に目頭が熱くなってきた。
死にたくない!
死にたくない!!
ツバキを助けようと思ったのに!!
どうして私が死ななければならないの!
ひどい。こんなのひどい。
嫌だ、ここから出して!!
私は死にたくないーーっ!!
「お願い、出して! ここから出してえええっ!」
「アヤメさん、落ち着いて!!」
直久は、泣き叫ぶアヤメを力いっぱい抱きしめた。だが、パニックになっているアヤメは、余計に苦しそうにもがいて泣き叫ぶ。
「いやあああーーーーっ!!」
「アヤメさんっ!! オレが助けるから!! オレが鍵を持ってくる」
だから、そんなに、心をなくすほど、壊れそうなほど悲しまないで。
さっき、君は笑っていただじゃないか。
オレに葉っぱをかけるほど、誇りに満ちていたじゃないか。
「お願いだ、アヤメさん。オレを信じて……」
ぽつり……。
アヤメの頬に暖かな雫が落ちてきた。涙だ。
「…………なお……ひささん……?」
泣いているの? と驚きに目を見開いたアヤメが直久を見つめ返すと、直久の潤んだ瞳にふわりと包み込まれたような気がした。
「君は、オレが助ける。そう約束したろう……?」
直久は、アヤメの頬を両手で挟むようにして、アヤメの涙をふき取った。
「だから、君は笑って。オレのために」
直久は、そっとアヤメの瞼に口付けした。閉じたアヤメの瞼から、再び、ひと筋の涙がこぼれた。その雫は部屋の薄暗いランプを反射してキラキラと輝いて、床に落ちていった。
「……うん」
弱々しく直久に微笑みかけたアヤメは、どんな高価な宝石よりも美しく感じた。