第一話 ボタンくらい押せないのか
「やっべ~~!! すげえ~、雪っ!!」
直久は、バスの車内中に響き渡る素っ頓狂な声を上げた。まるで、初めて雪を見た子供のように、バスの窓に両手を張り付かせて、はしゃいでいる。
彼の声に驚いた他の乗客が、じろじろと視線を送るも、彼はまったく気に留める様子もない。かわりに頬を赤らめたのは、直久の隣の席に座る双子の弟、和久のほうだった。
「ちょ、ちょっと直ちゃん……こ、声がでかいよ」
周囲の刺す様な視線をかいくぐりながら、和久が小声で言う。
「だってさ! 見ろよこの雪!! ハンパねぇーっ!!」
再び大音量でそう言って、弟を振り返った直久の顔は、キラキラと輝いていた。瞳の中に、お星様まで見えそうなほど。
「……う、うん。確かにすごいね。すごいけど……」
「だろ~!? やっべ~! あの雪の中に倒れ込んだらオレの体の輪郭で、ずぼっと穴あくんじゃねっ!? やってみて~!!」
窓の外の銀世界に、完全にとりこになった兄に、返す言葉が見つからない和久だった。
(東京生まれだから……しょうがないのかな……)
確かに、和久だってバスが走る道路の両側に、壁のようにうず高く積もられた雪には、驚きを禁じえない。その高さは車高を軽く超えている。しかも日光が反射して、ガラス細工のように輝いて見えた。
そんな美しい光景に目を奪われるのはわかる。わかるが、高校生なんだからもう少し空気読もうよ、と思わないでもない。
「っいてぇっ!!」
突然、隣の直久が声を上げたので、窓の外を見ていた和久はぎょっとなった。兄は頭を右手で押さえ、勢いよく背後の座席を睨みつけている。
「ってめ~、おいこら、ゆずるっ!! 何しやがんで~!」
「……黙れ」
「ああん!? オレ様の大事な頭を殴っといて、なんだその言い草はっ」
直久が、いよいよ身を乗り出すようにして、後ろの席の従兄弟に眼をつけている。それでようやく、後ろの席から手を伸ばした従兄弟のゆずるが、直久の頭部を殴ったらしいと和久は推測した。凶器は、現在も涼しげな顔で読み続けている本、『燃えよ剣』(司馬遼太郎著)のようだ。
「すこしは利口になったか?」
まったく本から目を離さずに、ゆずるは足を組みなおした。
「はぁ!?」
「……んなわけないか」
「んがああああああ」
頭に血が上りきった直久は、ついに猛獣のような唸り声を上げ、ゆずるの手の中から本を奪い取った。
その瞬間。
「あ……」
小さな驚きの声を上げたのは、ゆずるではない。もちろん直久でもない。
和久は思わず窓の外を指差し、すくっと立ち上がった。
「……どした、カズ?」
直久がきょとんとなって、固まったまま言う。すると和久は、けらけらと笑った。
「すぎちゃった」
「え?」
「降りなきゃいけないバス停」
「……え!?」
「あははは」
「…………」
「どうしよっか」
そして、再び大音量の直久の、「ええええーっ!?」という絶叫が駆け抜けていった。
◇◆
ぶおおーっと、表現したくなるような音をたててバスが三人から離れていった。明らかに体に悪そうな排気ガスの黒煙を吸い込んで、思わず三人ともにむせ返る。
「降車ボタンも押せないのか、お前は」
ゆずるははき捨てるように言い、バス通りから山の小道へと入っていく。その足取りには迷いが無い。
「はあ!? 何でオレのせいなんだよ!?」
そのゆずるの後を、怒鳴りながら直久は続いた。最後に、和久がキョロキョロと辺りをうかがいながら、続く。
「ていうか、オレは今回の依頼の場所知らないんだから、バス停の名前なんて知るわけないだろうが」
「たく、これだから……。直久を連れてくるとロクなことがない。何だって連れて来たんだよ、カズ」
「って、おい! 人の話を聞けって!!」
眉間のしわを深くしたゆずるが、直久を完全に無視して、和久を睨んでいる。その身もふたもない言い方に、和久も思わず肩をすくめた。
「あはははは。直ちゃんだって、色々役に立つんだよ」
和久がフォローを入れると、ゆずるは、ちっと舌打ちをして、再び歩き出した。
この従兄弟は、決して直久を嫌っているわけではない。ただ、心配しているだけなのだ。
(言葉が足りないんだよな、ゆずるは)
つまり、『何だって連れてきたんだよ──今回の依頼は、自身の命も危ういっていうのに』と、言いたいだけなのだ。
だが、言葉を言葉どおりにしか受け取らない、双子の兄。彼の性格上、直球しか受け取れない、投げられない。さらに、血の気も多い。
そのため、二人は顔をあわせれば、喧嘩になってしまう。いや、喧嘩しているつもりなのは直久だけで、ゆずるには、キャンキャンと周りで犬が吠えているくらいにしか思っていない節がある。そのゆずるの態度が、さらに直久のカンに触っているのだが、それも分かっていてワザとやっているように見える。
(まったく、危ないから来るなって言えばいいのに。『邪魔だから来るな』とか言うから、直ちゃんも意地になって、ついて来ちゃったんじゃないか)
和久は苦笑いを浮かべた。
だが、と和久は小さくため息をついた。今日の依頼は、確かに簡単ではなさそうだ。それはすでに肌で感じている。
ビリビリと電気が走るような鋭い霊気と息苦しさ。まるで3人の行く手を阻むかのように、前方から吐き気をもよおしそうな生暖かい風が吹いてくる。どれも普通の人間なら感じとれないものだ。
そう。彼は生まれつき不思議な力を持っている。いわゆる霊能力というものだ。これは和久だけではなく、両親、姉にいたるまで皆、性質や特技は異なるが、多少なりとも霊感をもつ。
和久の家族だけではない。従兄弟のゆずるもそうだ。というより、ゆずるの生まれた九堂家こそが本家だ。その本家である九堂家は、分家を含む、一族のなかでもずば抜けて強力な能力をもっており、ゆずるは一族の頂点に立つ九堂家の次期当主であった。
今回の依頼主は、この雪国の山奥のペンションのオーナー。死んだ少女の幽霊が出る、という相談を受け、ゆずるが担当することとなっていた。
(僕なんかより、よっぽどゆずるの方が能力は上なんだけどね)
本当なら、ゆずる一人で十分だろう。だが、今はダメだ。
今は一人で行かせるわけにはいかない。
和久が、わずかに口端に力を込めた時だった。前方を歩く直久が、もっともな疑問を投げかけてきた。
「んで、こっちで、道はあってるのかよ」
一行は、ゆずるを先頭に、ずんずんと山深くに入り込んでいる。そもそも、本来のルートは外れているはずだった。バス停を降りそびれ、そのバス停に戻らずに林道へと足を踏み入れたのだから、依頼書と一緒に同封されていた地図に示されたルートを今歩いているはずがない。それはいくら『残念な頭』とゆずるから称される直久の脳でも、わかることだ。生い茂る木々が密になり、足元を照らす日光が心もとなくなって来たため、不安になってきたのだろう。
「……黙って歩け」
振り返ることなく、ゆずるが返事をした。
「地図も見ないで、道が分かるのかって聞いてんだよ」
苛立ちのこもった声で直久が畳み掛ける。
「こんな雪山で、迷子になったらどうすんだよ。おまえ、適当に歩いてるんじゃねーだろうなぁー」
「……」
「おーい、まさかホントに適当かよ!」
「僕も、こっちだと思うよ」
このままでは、また言い争いになると判断した和久は、二人の会話に口を挟んだ。彼の向ける包み込むような笑顔で、直久の怒りと不安は鎮火したようだ。
「なんか感じるのか?」
「うん、すごいのを」
「……そんなに、今回やばそうなのか?」
「ゆずるに聞かなかったの?」
「あいつが俺に何を教えてくれるって言うんだよ」
「えっ。じゃあ、何も知らないでついて来たの?」
コクコクと頷く直久に、和久は明らかな呆れ顔をして見せた。
「あのね」
和久のゆっくりと話し出した。
遡ること数百年前、ここらの土地の村人は山の神に対して、生け贄を捧げていた。そのおかげで、1年の大半を雪に覆われるこの村でも栄えることができたのだと言う。
「その生け贄は代々、今から行く家の娘がなると決められていたらしいんだ」
「今から行く家って、ペンションか?」
「そうだよ。何でも、生け贄に娘を差し出す代わりに、他の村人から多額の金を受け取っていたらしいんだ。それで現在においても、余るほどの土地を持っているらしいよ。――で、タダあるだけではもったいないからって、ペンションを始めることにしたんだって」
「へー」
あんまり興味がなさそうな返事だな、と内心思いながらも、和久は続けた。
「元々あった古い屋敷を改築して、数年前にオープンしたらしいんだけど。……出るんだって」
「出る?」
そこで初めて直久は真剣な表情になって、和久を振り返った。
「出るって何が?」
「生け贄にされた少女たちの幽霊が!」
「げっ」
「そのオーナーの話だとね。そのせいで、お客が全然来なくなっちゃったんだってさ」
「ま、普通そうなるな。で、困っちゃって依頼して来たってわけだ」
「そんなとこ」
すると、急に直久は小声で弟に耳打ちした。
「大丈夫なんだよな……ほら、だって、ゆずるは今……」
「今のゆずるは確かに力が不安定だけど。でも大丈夫だよ」
(きっと、ね)
続く言葉を和久は飲み込んで、微笑んだ。しかし、いくら和久が軽やかに華のような笑顔で言っても、直久は顔を引きつらせるしかなかったようだ。
(あれ~? あんまり不安にならないように言ったつもりだったんだけどな、おかしいな)
和久は、ははは、っと笑った。
でも笑っていられるのも、今のうちかもしれない。そう思いながら、和久は前方を見つめた。
彼の目には、確かに見えていたのだ。前方の林の中に“この世のものではない”黒くおぞましいモノが立ち込めているのを──。
◆◇
直久の前に、その洋館がその姿を現すまで、バスを降りてから二十分もかからなかった。
「ホントについたよ……」
ごくりと直久の喉が鳴った。
(地図も見ないで、山道を……なんで着くかなぁ……)
理解できない。
正直、双子の和久と、従兄弟のゆずるのすることには、時々、いや、いつもついていけない。
今回だって、なぜ目的地がわかったのかと問いかけたところで、『感じたから』とか『見えたから』とか言うに決まっている。
そこで、何が? と聞いてはいけない。
怨霊だとか、悪霊だとか、霊気だとか、浮遊霊だとか、呪縛霊だとか、動物霊だとか……。とにかく、現代科学では証明できないようなことを、さらりと言ってのけるに違いないのだ。
(下手したら遭難だっつうの……無事に、到着したからいいものの)
直久は肩をすくめた。
それにしても、なんて仰々しいペンションなのだろう。中世のヨーロッパを思わせる洋館は、古びて四方八方から伸びるツタが巻きついている。しかも、直久の想像をはるかに上回る、広大な敷地だ。庭も建物も恐ろしく広い。今、三人が立っている門から見えているエントランスの扉が、なんと遠くに見えることか。
(こりゃ、ペンションというより城だな……)
圧巻の一言だった。
他の二人も、ペンションの広さに圧倒されていることだろうと、右隣にいる和久に視線を送れば、和久は両肩を抱くようにして、手でさすっている。それを見て、直久は眉をひそめた。
(なぬ……?)
和久は悪寒を感じているらしい。物心ついたときから、直久には見慣れた光景だが、和久が“何か”を感じた時にとる行動なのだ。
まさかと思い、左隣のゆずるを振り返る。
くっきりとした二重の大きな瞳で洋館を睨みつけているゆずるは、眉をよせ、険しい表情で視線を右に左に走らせていた。まるで舞うように飛ぶ昆虫でも追っているかのような、眼球の動きだ。確実に“何か”を見ている。
(また、オレだけのけ者かよ)
彼らの一族は、ほぼ全員が強い霊能力を持っている。一族は、その血筋を絶やさぬように、薄くならぬように、一族間の婚姻が原則になっている。だから、一族は九堂家を筆頭に、多くの分家にいたるまで、ほぼ全員、なんらかの能力を持っている。
そう────ほぼ全員。
(何でオレだけが、何の力も持ってないんだろう。双子の和久は強い能力を持ってるって言うのに、オレだけ何で……)
彼が、十六年の人生の中で、幾度となく繰り返した自問。答えは見つからない。一族の長老たちですら、皆目検討がつかないのだ。
ある日突然、能力が開花する者もいるというから、気にすること無いよ、と和久は慰めてくれたが。
でも……。
何も感じない。
何も見えない。
自分だけが、役に立たない。必要の無い人間だと言われているような気がする。
生まれてくる必要があったのは和久だけで、自分はいらなかったのではないだろうか……?
「さぁ、いこう」
和久が促した。その顔からは、完全に笑みが消えている。ゆずるの顔にも緊張が見える。
三人はもう一度だけ、顔を見合わせる。そして、一呼吸おいた後、ゆずるがペンションの門を押した。
──ギギギ……。
鉄製のさびた門が、まるで来訪者をあざ笑うように鳴いた。