第十二話 寒椿(1)
「見て~! すごいわ、すごいわっ!!」
空から降り注ぐ雪に大はしゃぎで、くるくると踊りまわるツバキを横目に、直久は地面にへたれこんだ。
「んだぁああ、つかれたっ!」
今も昔も、この屋敷ときたら、玄関から表の門扉までの距離が、並み外れて長い。そこへ、目にするもの全てに心を奪われて、まったく前に進まないツバキ。いいかげん痺れをきらした直久が、ツバキを背負って門扉まで全力疾走した、というわけだ。
「もうっ……ちょっとっ……狭くていいとっ……思うっ、この屋敷!!」
息が切れてもなお、誰かに文句を言いたくてしかたない。直久は今現在そんな状況といったところだ。
まだ、ぶつぶつと何かを言いながら、直久は雪の上にごろりと仰向けになる。すると、雪が降り注いでくるのが見えた。
そういえば、こんなふうに雪が降るのを見たのは初めてだなあ。直久は暢気にそんなことを考えはじめた。
真っ暗な空から降って来る雪は、自分の生きている時代でも、彼女たちが生きている時代でも同じ。永遠にその姿を変えることなく、静かにあたりの音を消しながら降り積もる。そう考えると不思議だ。
「ねえ、直ちゃん! 雪って食べてもいいの!?」
無音の世界にひたっていた直久の耳に、無邪気な声が飛び込んできた。見上げると、ツバキが両手を大きく広げ天を仰いでいる。
「食べてもいいけど。味しないよ?」
「ホントね、よくわからないわ」
「でしょ……って、食べたんかいっ!」
「落ちている方を食べてもいい?」
「それは止めなさい」
思わず、幼稚園児をたしなめる保父さんのように直久は言った。
「ケチっ!」
「け、けちっ!? どこでそんな言葉をっ!」
「ヒミツーーっ!!」
ツバキは本当に楽しそうに、走りまわった。
「あ、ちょっと、遠くにいっちゃだめだよ~?」
なんだか、お父さんになった気分だな、と直久は思った。手がかかるし、目が話せなくて危なっかしいし、疲れるけど、それ以上に、ほほえましく、胸があたたかくなるから不思議だ。
一つ一つの反応が、無邪気で、新鮮で。そういう見方があったのかと、再発見させられる。
彼女を好きになった清次郎の気持ちが少しだけ分かるきがした。
(……それにしても遅いなぁ、アヤメさん)
直久は、じっと屋敷の方を見た。いくら目を凝らしても、赤い着物の少女の姿は見えてこない。
「誰かを待っているの?」
小さくため息をついて、背後を振り返った。
ツバキはきょとんとした顔で、直久を見つめ返す。
「うん、ちょっとね」
アヤメはすぐに追いかけると言っていた。だから、直久はツバキの手をひっぱり、屋敷を取り囲む高い鉄柵の外に出たところで、彼女を待つことにしたのだ。
アヤメは先に山小屋の老婆のところへ、ツバキを連れて行けと言っていたけれど。アヤメのことだって、直久は心配なのだ。
(それにしても、結局オレをここへ呼んだのは誰なんだ?)
直久の知る結末は、ツバキが絵描きと駆け落ちし、銃殺されるというものだ。
だからそれを阻止し、ツバキを無事に逃がせば、自分はもとの世界に帰れるにちがいない。そう思ってここまでやってきた。
本当にそれでいいのだろうか?
(なんか引っかかるんだよなぁ~。……よし、落ち着いて最初から考えよう。今はカズがいないけど、オレだっておんなじDNAだ! やればできるはずっ! 多分! きっと、おそらく!)
こと頭脳面においては、驕らず、謙虚に、自分を過大評価しないところが直久のいいところだと、言う人もいるにはいる。しかし、今はその知能に頼るしかないのも事実。直久は、自分を励ますよう、大きく息を吐いた。
(オレがここへ来たのは、悪霊のせいだ)
悪霊が、自分の体内に入り込んだのは分かった。その時に、感じた強い感情は、“悲しみ”と“孤独”。
怒りや、妬みではなかった。悪霊は、誰かを恨んでいるというわけではなさそうだ。
もしかして、きっと悪霊は、この時代、つまり自分が生きていた時に感じていた苦しみを無限にループするように味わい続けているのではないだろうか。
だって、過去にタイムスリップするなんて、そうそうあることじゃない。そんな映画や小説みたいなこと。
(たぶん、これはタイムスリップじゃなくて悪霊の記憶なんじゃないか?)
悪霊は、この悲しみの無限地獄から抜け出したくて、助けを求めていたのではないだろうか。
ずっとずっと。直久たちがこうして屋敷を訪れる今日までずっと。助けて、助けて。そう訴え続けて。
では、そうだとして。
誰が悪霊になったというのだろう。いや、どちらが、というべきか。
自分たちはずっと、生け贄になるはずであったツバキが悪霊になったものだと思っていた。それは本当に正しいのだろうか。
ツバキが生け贄になることを嫌がり、恋に落ちた絵描きと逃げ出す。そして、その駆け落ちの途中で射殺。生きたくても生きられなかったツバキは、全てを怨んで悪霊になる。
それが和久やゆずるが考えていたシナリオだ。
けれど、直久の知っているツバキは生け贄になることを嫌がっているようには、これっぽっちも見えない。そればかりか、生け贄になるのを心底楽しみにしているようで、今だって、「早く雪を見たら帰りましょう」と何度何度も、うるさいぐらいだ。
だから、直久にはどう考えても、ツバキが恨みを晴らすために悪霊になるとは、考えられないのだ。
一方のアヤメは、双子の姉が生け贄にされることをずっと気に病んでいた。それを止めたかった。でも止められない。どうしていいか分からない。それで、ツバキを逃がすことにした。というところだろうか。
これまた、アヤメが悪霊になる要素は見つからない。
(でも、よく考えたら、アヤメさんはどうなったんだろう)
“最後の生け贄”のツバキに、双子の妹がいたことは、現代まで伝わっていなかった。そもそも、結局、生け贄の儀式は行われたのだろうか。
(まさか……アヤメさんがツバキちゃんの代りに、生け贄にされたなんてことは……?)
つまり、こうだ。運悪く、ツバキが逃げたことが、すぐにバレて、逃がしたアヤメが捕らえられる。そして、アヤメが代りに生け贄とされ、ツバキはツバキで逃亡に失敗し殺される。これが過去に起きた出来事だったのではないだろうか。
もし、自分の考えた通りだとすると、アヤメはもう捕らえられているのではないか。
そして、何も知らず、ずっと生け贄を心待にしていたツバキと違い、“死”を知っているアヤメが、無理矢理生け贄にさせられたら、それこそ悪霊になるほどの苦しみを生むのではないだろうか。
直久は、自分の出した結論に、ぞっとした。
「ってことは……やっべぇっ!!」
勢いよくツバキを振り返った。そして、すでに足を走らせながら、叫ぶように言い放つ。
「ここにいて! すぐに戻るから待ってて!! 絶対にここを動いちゃだめだからね、いいねっ!?」
ツバキの呆然とした顔が、不安を呼ぶ。
けれども、直久は全力で屋敷の方へと急いだ。今はアヤメのほうが優先だ。だから、後ろを振り返ることなく。必死に走った。自分の後をツバキがついてきていることも知らずに────。
やっと広い裏庭を抜け、裏門が見えてきたところで、アヤメの手を引いていた清次郎の足が、不意に止まった。辺りは闇に覆われ、降り積もる雪の音だけが、アヤメにはやけに大きく響いて聞こえた。
どうしたというのだろう。
この門を抜ければ、自分たちは自由。
もう、この家からも、生け贄からも束縛されない、夢のような世界が広がっているというのに。
アヤメは清次郎の行動を理解できずに、首をかしげ、清次郎を見上げる。彼の顔から明らかな戸惑いを感じた。
何をいまさらためらっているのだろう。まさか、追われる身になるのが怖くなった、とか言うのではあるまいか。
一瞬の不安がよぎり顔を曇らせるアヤメを、清次郎はじっと見つめた。そして思いもよらぬことを口にした。
「あなたはツバキじゃない」
その言葉はアヤメの心臓を一瞬で止めるほどの威力がった。
自分を取り巻く世界の全てが凍りつき、音までもが雪にかき消されたように感じた。
彼を振り向いた瞬く間の自分の動きですら、自分のものでないような感覚。
永遠とも感じる、無の時間が雪とともに降り注いでくる。
どうして?
なんで?
わかるはずない。自分だって鏡を見るように、そっくりだと思った。気持ち悪いほど、同じだった。全てが同じだったのよ。
違うのは、この着物の色だけだった!
それなのに、家族でもない彼に自分と姉との区別がつくわけがないっ!
動揺を隠し切れずにいるアヤメの手を、清次郎は振り払った。黙ったままのアヤメの表情を肯定と読み取ったのだろう。
「違和感がありました、あなたのを抱きしめた時。それは次第に強くなりました。あなたはツバキではない」
「なんで!」
アヤメは咽が裂けるほどに叫ぶ。
「私とツバキなんて、どっちだっていいじゃない! どっちだって一緒じゃない!」
「アヤメさん……」
「顔も、声も、背の高さも、すべて同じよ! 何が違うというのよっ!? あなたがほしいのはこの器でしょう!?」
清次郎は寂しそうな目をした。そして、ゆっくり首を横に振る。
「違いますよ。反応のひとつひとつをとっても。そうですね……確信したのは、この雪です。彼女は雪を見たことが無い。きっと彼女ならば、ふわふわと舞うこの雪に目を奪われていたことでしょう。僕の存在を忘れるほどにね」
清次郎は嬉しそうに目を細め、天を仰いだ。その笑顔は、ツバキに向けたもの。雪を見て、はしゃぐツバキに向けられたもの。それがわかるから、アヤメはますます、惨めな気分にさせられる。
この人は絶対に私には微笑みかけてくれないのね。
一緒にいても、私を見てくれないのね。
目の前にいるというのに、私を通してツバキを見ている、いつも、いつも……これからもずっと。
「僕が愛しているのは、あなたじゃなくて、ツバキなんです」
悔しさに唇をかみ締めていたアヤメに、駄目押しのような清次郎の一言は大きかった。アヤメの嫉妬に油を注ぐ。
「だから! 私がこれからツバキとして生きるわっ! どうして私じゃだめなの!?」
「……違いますよ、アヤメさん。あなたがだめなんじゃない。僕がだめなんです。ツバキじゃなきゃ、だめなのは僕なんです」
アヤメは頭を殴られたような衝撃を受けて立ち尽くした。胸も張り裂けそうなほど、痛い。
そんな……。
どうして……。
「だから……私がツバキになるって……言っているじゃない」
ぽたり、ぽたり。大粒の涙が、アヤメの足元の雪を溶かしていく。
「……すみません、ツバキを迎えに行きます」
清次郎がゆっくりと体の向きを変える。
「まって……清次郎さま!」
彼が行ってしまう。
アヤメはすかさず彼の背中に声をかける。けれど、彼の足はまた一歩前に出された。
「お願い……行かないで……」
もう彼が振り返ることはない。そう確信した。もう、どうすることもできないのだと。
私では、あの人を止めることすらできない。
「いやぁ……」
いくら懇願しても、清次郎の足は屋敷の方へと進んでいく。
ツバキの元へと。一歩、一歩。
後から後から流れおちる涙が、止められないのと一緒。
もう手が届かない。
自分のものにはならない。永遠に。
自分が欲しいのは、あの人だけなのに……。
あの人の腕の中にいられるなら、どんなことだってしたのに……。
「清……次郎……さま……」
お願い、私の前からいなくならないで。
こっちを向いて。もう一度だけ、最後に一度だけ、私を……アヤメを見て。
「ツバキなら……屋敷にはいないわ……」
消え入りそうな声で、なんとかアヤメは言った。
とたんに、清次郎の足が止まる。振り返った彼の瞳の中にアヤメがいた。
……ああ、なんて残酷な人。
ツバキのこととなると血相を変えるのね。酷い。ひどすぎる。
どうして……。
なんで、私じゃないの……?
アヤメは、あふれる涙を押さえ込むように顔を両手で覆ったが、耐え切れず、ついにそのまま声を上げて崩れ落ちた。