第十話 ツバキとアヤメ
───……物語の主人公は、いつも可哀想なお姫様。
悪い魔女に虐められる哀れなお姫様。
お姫様は無垢で可愛らしい。
疑うことも、恨むことも、知らない。
愚かで無知なお姫様。
誰もが哀れむ。
私はお姫様ではない。
彼女を哀れむ立場であり、実際、彼女の不運に涙した。
だけど、なぜ?
なぜ、物語の最後にきて、彼女を羨ましく思うのか。
物語の最後だけ、彼女と入れ替われたらと思ってしまうのは、なぜなのだろう……────
彼女――アヤメの日常は、扉を叩くことから始まる。
屋敷の、他のどの扉よりも分厚く、暗く重いその扉をノックしようとして、彼女の手が止まった。
いつも躊躇う。扉の前でしばらく体が動かなくなる。
怖い。
もし返事が返ってこなかったら?
確かめるのが怖い。
もし。
もしも、ツバキが逃げてしまっていたら。
生け贄になるのは自分──アヤメなのだから。
でも、姉の在室を確かめる瞬間の不安は、確かめないでいる時間の長さと恐怖に比べたら、小さなもの。
大丈夫よ、昨日はちゃんと返事が返ってきた。自分にそう言い聞かせ、アヤメは今日も、その扉を静かに叩く。
廊下に乾いた木の音が、コン、コン、と響いた。
アヤメは、自分の乾いた喉を潤そうと、意識的につばを飲み込むように試みる。だが、うまくいかない。それで、声がかすれてしまう。
「ツバキ……私よ……」
しばらくして、扉の向こう側からコンコンと返事が返ってきて、アヤメはホッと息を漏らした。
(ああ……)
涙が出そうになる。
この瞬間が、いつも幸せだった。
この瞬間だけ、安心できた。
その気持ちを心の奥底に、必死に閉じ込め、アヤメは扉の向こうに居る妹に労いの言葉をかける。
「大丈夫……?」
声をかけるだけで、アヤメがその扉を開くことはない。毎朝、毎朝、彼女はただその扉を叩くだけだった。
アヤメには、その扉が怖くて、それ以上触れなかった。
自分ではないのに、その扉の中にいる、同じ顔のツバキが鏡の中の自分の姿であるような錯覚にとらわれるからだ。
生け贄になるのは、私じゃない。
私じゃないのよ、ツバキなの。
そう自分に言い聞かせていないと、頭がおかしくなってしまいそうだった。
「姉さん」
アヤメは、はっとなって、声のする方を見た。きっと、自分の顔は真っ青だったに違いない。
「おはよう姉さん」
そう言って、一点の曇りも無い笑顔を携えた幼い弟と目が合う。弟はまだ十歳にも満たない。その弟の屈託の無い表情は、アヤメの心の奥深くまで突き刺さった。それでも、何事も無かったかのように、アヤメは微笑んだ。
「おはよう、アカネ」
胸に飛び込んできたアカネを、しっかりと抱きとめる。
「おはようございます」
その心地よい声色に、アヤメの全身がそっとざわめきたった。
アカネが連れてきたのだろう、そこには背の高い、ごく整った顔立ちの青年が立っていた。年は二十代前半といったところだろうか、まだまだ笑顔にあどけなさが残っている。
青年は、アヤメと目が合うと、ペコリと、頭を下げた。
その拍子に、無造作に伸びた前髪がさらさらと揺れ動き、アヤメは目を奪われる。
触ってみたい。きっと、彼の髪は、柔らかくて、絹のような肌触りに違いない。思わず手を伸ばしそうになり、自分の髪をかきあげるフリをして、必死に誤魔化した。
「おはようございます」
ほんのり赤らんだ頬で、アヤメは青年を見上げた。
「清次郎さま、こんなに早くからお仕事ですの?」
「ええ」
青年――清次郎は上着のポケットを探り、銀色に輝く鍵を取り出した。
「あと、どのくらい? 今日には、描き終わるのかしら?」
知らず、アヤメの声が上擦る。1秒でも長く彼と話していたい。彼を独り占めしていたかった──ツバキではなく自分が。
「ええ。今日中には、描き終わりますよ」
冬だというのに、花が春だと間違えて、咲き急いでしまいそうな微笑みをアヤメに向けると、彼は言い終えるより早く扉の中に消えていった。
──バタン。
彼の背後で、扉が大きな音を立ててしまった。
部屋の中に入ると、地下へと続く階段に出迎えられる。部屋自体は地下にあった。
階段には、照明器具や明り取りなどは一切なく、清次郎が手にする明かりのみが、むき出しのまま薄汚れた土壁を照らしている。無数に走る壁のヒビや穴、シミなどが不気味に彼に笑いかけているようにも思え、何度来ても肝が冷える。薄気味悪い、の一言では片付けられない。
一段一段降りていくにつれ、かび臭さが強まり、ひんやりとした肌寒さを伴う風が、下から階段を上ってくるようだった。通気口は確保してあるのだろう。おかげで、息苦しさや、空気の籠もったような匂いはしない。
だが、雪深きこの地方。真冬に隙間風が通る部屋で、暖房もなく過ごさなくてはならないというのは、拷問である。そうでなくても、一応、人が住めるような造りをしているが、そこはまるで牢獄。
こんなところに閉じ込められなくてはならない理由が、この少女のどこにあるというのだろう。
何が罪だというのか。
「ツバキ」
清次郎が優しく名前を呼ぶと、その囚われの少女がふわっと微笑んで迎えてくれた。
彼女は、生まれてから、一度もこの部屋から出たことのない。
おかげで、どんなに外の世界が汚れていようと、人の心がいかに醜かろうが全く関係なく、清らかにそこに存在している。
無垢で、可愛いツバキ。
ツバキを前にすると清次郎は堪らなくなる。
なぜ。
なぜ、彼女は笑えるのだろう。
こんなにも優しく。こんなにも美しく。
「どうしたのですか? 浮かない顔をして」
「ツバキ……」
清次郎は力いっぱいツバキを抱きしめた。
彼女がこの牢獄にとらわれることになった罪。それは──この家に生まれたこと。
だが、それは彼女のせいではない。彼女の選んだことでもない。
それを、誰も彼女に教えるものがいない。村人や、家族、彼女の双子の妹までも、硬く口を閉ざしている。
彼女がもし、それを知ってしまって、『いやだ』と泣き叫ぶのが怖いからだ。
彼女がもし、逃げてしまったら、その代わりとなるのが嫌だから。
だから、彼女はこの部屋に閉じ込められている。真実から遠ざけるために。生け贄となって死ぬその日まで。
実際、ツバキはこのまま生け贄となることを受け入れるだろう。その他に自分が生きている理由を知らないからだ。幼い頃から、『おまえは十七歳になったら、村のために神に召されるのだ。これは名誉で、ありがたいことなのだよ』と、言い聞かされて生きてきた彼女にとって、生け贄になることはごく当然のことで。彼女の大好きな父親から、褒めてもらえる唯一のことだった。
(こんなことが……許されるのか)
清次郎は血がにじむほど、唇をかみしめた。
(生け贄など、何の意味がある)
山の神に生け贄を捧げないと村が滅亡するなどと、本気で信じている者など、どこにもいない。儀式を主催者である彼女の父親自身さえ、信じていないだろう。
たかだか、家のため、利益のために実の娘を殺そうとしているだけの話だ。そんな馬鹿げたことがまかり通って良いのか。
「……清次郎さん……痛いわ」
腕の中で、清次郎を優しく睨むツバキに、彼女を抱きしめる腕に思わず力がこもってしまっていたことを気づかされる。
「ごめん。嬉しかったもので」
「まあ、昨日もこうしてお会いしたでしょう」
そう言って、彼女はまぶしい笑顔を彼に見せた。
ああ、彼女を助けたい。
ツバキを助けたい。
そして、自分の手で、今までの分までも、幸せにしたい。
生まれたことが彼女の罪だというなら。生きることが死ぬためにあるというなら。
自分がこの少女に教えてやりたい。
“生きている”ということを。
幸せを実感する日々を……。
清次郎がまた険しい顔になったので、彼女は彼を元気付けるように笑った。
「清次郎さんは、寂しがりやですのね」
その笑顔が、今でも十分幸せです、とでも言い出しそうな気がして、彼は切なくなった。
「ああ。君が居ないと、僕は生きていけないんだ」
そう言ってアヤメの額に、そっと口付けた彼の目には、いつしか強い決意が浮かんでいた。
──バタン。
アヤメは扉が閉まるその音に、もう何度目かの絶望に打ちのめされていた。
「…………」
分かっていた。
今の笑顔は自分に向けられたものではない。
彼はツバキの絵描き。
今は、ツバキだけを見つめる絵描き。
以前、彼はアヤメの絵も描いてくれていた。赤い椿の花が咲く庭を背景にしたアヤメの肖像画を父親が気に入り、ツバキの生前の姿を描くようにと、清次郎に依頼したのだ。
絵が描き終われば、ツバキは死ぬ。生け贄にされる。そのことを知った彼の筆はひどく遅かった。
(……清次郎さま……)
アヤメは清次郎の背中を隠した扉を恨めしそうにみつめた。
清次郎がアヤメの熱い視線に気付くこと決して無い。きっとこれからだって、絶対に無い。
彼の目にはツバキしか映っていない。
ツバキだけを見つめ、ツバキのために生け贄となる儀式の日を遅らせ、ツバキのためだけに微笑みかける。
もう、ずっと前から知っていた。
気付いていたのに、認めたくなくって、目を閉じて、見ない振りして、耳を塞いで、聞こえない振りをして、そして、自分に嘘をついていた。
だけど、どうしようもない。彼はツバキを愛しているのだから。
だけど、でも、どうして! 私とツバキは双子なのに!
同じ顔、同じ声、同じ、同じ、同じ、同じ、同じ……。
なぜ、私じゃないの?
私のどこがダメなの?
私とツバキとどこが違うの?
可哀想で、哀れなツバキ。
それなのに、なぜ?
私がツバキを羨ましく思ってしまうのは、なぜ?