さようなら、愛しい人
パトリックが病に伏したのは、本当に突然の事であった。
まだ若く、病気になるなんて本人ですら予想していなかった。
そもそもそうなる以前にそういった兆候があったか、と問われればパトリックは「無い」と断言しただろう。だからこそ、突然の病気に彼は何ができるでもないままに病床に臥す形となった。
ローエグラム伯爵家。
彼はその家の次男で、正式な跡取りではない。だがしかし、同じく伯爵家であるアルスター家の一人娘、セレネとの婚約が決まっていた。家を継ぐのは兄で、自分はアルスター家に婿入りするはずであった。
セレネは貴族令嬢として見るならば、可もなく不可もなく、といった感じであった。
何か、目に見えてわかりやすい優れた何かがあるわけでもないが、目に見える欠点らしきものもない。周囲の目を惹きつけるような華があるというわけではないが、よく見れば可憐で愛らしい容姿。とはいえ、大輪の薔薇のような美貌を持つ侯爵令嬢や、白百合の如き美しさを持つ公爵令嬢などと比べれば、比べる事がおこがましい。セレネはそんな美貌の令嬢たちと同じく花に例えるならば、カスミソウのような控えめなものが精一杯。
社交の場に行き、ちょっとパトリックが友人たちに挨拶をするべく離れてしまえば、壁の花になっていても気付かないような――よく言えば控えめな、悪く言えば地味で目立たない娘であった。
とはいえ、見た目は悪くはない。
上には上がいるが、下には下がいる。醜女と囁かれている成り上がりの男爵令嬢と比べるのであれば、それこそセレネは天上から舞い降りた女神と名乗っても許されると思う。
美貌の令嬢たちの中に入れば女神というよりはその女神に仕える天の御使いか何かだと思うだろうけれど、面と向かって嘲笑されるような見た目でない事だけは確かだ。
性格も、貴族令嬢として見るならばやや素直すぎる傾向があるが、控えめで優しく、将来の妻として考えれば彼女は充分に夫となるパトリックを立ててくれるだろう。
そういった意味ではこの婚約は当たりだったと言える。
家を継ぐわけでもない次男であるパトリックは、下手をすれば金だけはある家に売られるような形で婿に出される可能性もあったのだから。
ローエグラム伯爵家は実の所ここ数年で経済状況が悪化していた。現当主である父がギャンブルにのめり込んだ、とかそういうわけではない。ただちょっと天候悪化による不作が続き、それらの状況改善に奔走した結果思った以上に出費がかさんだに過ぎない。まだ爵位を売るだとか、それこそ一家全員で首を吊るだとかまではいかないが、それでも落ち目である事は否定できなかった。
対するアルスター家は商人とも懇意にしているらしく、また現当主でもあるセレネの父が領地経営においてはローエグラム家と比べるのもどうかと思う程の手腕を発揮しているためか、金はある。
セレネとの婚約は、ローエグラム伯爵家に金銭援助と少々の人脈という助けをもたらしたのだ。
とはいえ、パトリックは物足りなさを感じていた。
セレネは悪い娘ではない。妻として考えるのであれば、控えめで夫を立てる――まさしく良妻賢母となるだろう、と思えるだけの娘ではあるのだ。
けれど、その控えめな態度はパトリックからすれば面白みのない、というように映っていた。
将来的に結婚すれば妻としてなら満点だろう。けれど、恋人として見ると途端に魅力も何もあったものではなくなるのだ。
パトリックはまだ若く、だからこそそう思ってしまったのかもしれない。
婚約したとはいえ、まだ結婚したわけじゃない。
結婚までの短い間に、ちょっとした遊びは許されるだろう。
そう思い、パトリックはセレネにばれないように市井で気軽に遊べそうな女に手を出した。
相手が貴族だったなら、それこそバレた時の後始末が面倒すぎる。
お互い割り切って遊ぶのであればいいが、そもそも貴族の令嬢が割り切って遊ぶなどあるはずがない。それこそ低位貴族の娘が将来自力で生きていけるだけの力もないからこそ、金目当てで妾になるだとか、愛人としてやっていくだとかなんていう話は聞くが、高位貴族の令嬢が遊びで適当な男と関係を持つはずがない。
万一バレた時の事を考えると低位貴族であっても関係を持つのはやめておこうとなる。
であれば、市井で適当に遊べる平民を見繕えばいい。娼館というのも考えたが、ああいった店はちゃんとしたところならさておき、そうでないところだと病気が蔓延しやすいと聞く。ただの病気ならまだしも性病となれば万一自分に感染してみろ。誤魔化しがきかない。
ある程度貞操観念がマトモで、それでいて何かあったら金を握らせれば泣き寝入りしてくれそうな平民の女なら遊ぶのにも丁度いいだろう――パトリックはそう考えていた。割と最低なクズである。
結婚前のちょっとした遊び。パトリックはあくまでもそのつもりだった。
セレネやその周辺にバレなければ問題ない。そう思ったパトリックは最初のうちは慎重だった。
だがしかし、大人しいセレネはそもそも市井にお忍びで一人やってくるなどという事はないし、アルスター家の使用人が買い物に出るにしても、行く先は限られている。だからこそセレネやアルスター家の者にバレないように、という慎重さは気付けば簡単に吹き飛んでいた。
パトリックが結婚までの間に遊ぶには丁度いいだろうと付き合っていた女性は、少しばかり金に困っていた。見た目はパトリックの好みであったし、少し話してみて頭が悪いわけではない。勉強は苦手と言っていたが地頭がいいのか会話をしていても話がかみ合わなさ過ぎて苦痛を感じるという事もない。
気付けばパトリックは遊びのつもりで手を出していた女性――ヘルガにのめり込んでいた。
金に困っているヘルガに度々援助をする。ローエグラム家もまた金に困っているというのに一体どこからその金が……とは考えるまでもない。アルスター家からの援助金にパトリックは手をつけていた。
あまりにも大金であったなら即座にバレて父に特大の雷を落とされていた事だろう。けれども、パトリックはセレネに贈りたい物があるだとか、その場しのぎと言ってもいい嘘を重ね少額ずつそこから引き出しヘルガへと貢いだ。
アルスターの金でアルスター家の娘への贈り物だとか、正直鼻で嗤う案件だ。けれどもローエグラム家にはあまり自由にできるだけの金はない。当主である父も、その事に関しては苦々しく思ってはいるようだったが婚約者に何の贈り物もしないというのも体裁的にどうかと思ったのだろう。それに関してあまりくどくどとパトリックに言う事はなかった。
パトリックはそうしてヘルガとの蜜月を楽しんでいた。結婚までの間のちょっとした遊びであったはずのそれ。しかしいつの間にやら本気になっていた。どうして自分はヘルガと結婚できないのか。そう苦悩した事は数えきれない。
冷静な第三者がいればそれこそ現実を見据えた上での容赦のないツッコミを入れた事だろう。けれどもパトリックは周囲に相談できるものでもないというその部分だけは弁えていたし、だからこそ彼は一人で悲劇のヒーローを気取ってすらいた。誰にも相談できない道ならぬ恋……真実の愛だというのに誰からも祝福されないであろう運命の悪戯。そんな風に脳内であれこれ想像を重ねて、勝手に盛り上がっていた。
そんなパトリックに更なる悲劇が訪れたのは、とある日の事であった。
道ならぬ恋に悩んでいた日々は精神に負担をかけていたのか、ここ最近あまり寝つきが良くはなかった。けれども単なる寝不足だと思っていたため、そこまで大袈裟に考えてもいなかった。むしろそれくらい悩んでしまう状況に、更に己に酔いしれてすらいた。
そんなパトリック本人の思いとは別に身体は徐々に疲労が溜まり、日常生活に支障が出始めた。
例えばちょっと足がふらつくだとか、少し動いただけで息切れがするようになるだとか、明らかに体力が落ちていた。それは誰の目から見ても明らかな程に。
そしてある日、彼はヘルガと逢瀬を重ねていた時にとうとう倒れてしまったのだ。
ヘルガは医者ではないし、そういった知識もなかった。だからこそどうすればいいのかがわからずに、とにかく医者に診せる事にした。パトリックは自分の事をあまり大っぴらにヘルガには語っていなかったけれど、それでも彼が貴族である事はヘルガも察していた。よく自分に贈り物をしてくれるところから、貴族か商人のどちらかで考えていたが、商人であるようには思えなかったしそうすれば消去法で貴族であるという結論に落ち着く。
他にも金を持っている職業をいくつか思い浮かべたけれど、パトリックとの普段の会話を思い返せば貴族であるという結論になるのはある意味で当然だった。
医者に連れていき、貴族である可能性を医者にも伝えた。医者は単なる町医者であったがそれでも医者同士の繋がりはある。そこから貴族と関わりのある医者へ連絡がいき、そうしてパトリックはローエグラム家へと帰る事ができたのだ。
家の名を出さなかったのは勿論己の保身もあった。ヘルガは賢い女だが、しかし家の名を出して下手に欲を出されたら。もし自分が貴族になれるかもしれない、などという思いを抱いて家に突撃したら。
いや、ヘルガは賢い。そんな事をするはずがない。そう思いながらも、それでも欲に溺れた者は時としてとんでもなく愚かな行動に出る事をパトリックは知っていた。だからこそ家の名は出さずにヘルガと付き合っていたのだ。
けれどもそのせいで、パトリックが倒れてから家に連絡がいくまでに若干の時間が経過してしまっていた。
パトリックを医者に連れて行ったヘルガに関しても、ここで父にバレてしまった。
あぁこれはまずいな、とパトリックも内心でどうするべきか悩んではいたのだ。
ちょっとしたお忍びで出会った女性がたまたま、とか言うにしても、ヘルガはその時パトリックが贈った装飾品を身に着けていた。あからさまに高価な物であれば物取りだとかに狙われるが、控えめで普段使いにしていてもおかしくはない程度の装飾品。それは、パトリックがセレネにプレゼントをしようと思って、などと言っていた物であったのだから。それを身に着けているヘルガを見て、父が気付かないはずもない。
実際父は直接見てはいない。ヘルガと面識はない。けれど、パトリックを館へ連れ帰った従者から父に連絡がいっているだろう事はパトリックにも簡単に想像できた。
この体調不良の中、父からくどくどと叱られるのはキツイなぁ、なんて思いながらパトリックは自室のベッドで静養する事になったのだ。
ところが父はパトリックのやらかした事に気付いていながらも、それを咎める事は言ってこなかった。
体調が回復したら言われるのだろうか。それはそれで……と憂鬱な気分になるが自業自得の面もある。仕方がないと諦めた。
けれど、パトリックの症状は一向に回復する兆しがなかったのである。
最初のうちはちょっと休めばすぐに良くなると思っていたパトリックも、よくなるどころか徐々に悪化していっている状態に不安になってきた。幼いころから自分を診てくれていた専門医の出す薬で症状が緩和されているとはいえ、じわじわと悪化していると自分でも理解できるのだ。不安にならないはずもない。
一体自分はどうなってしまったのだろう。そんな不安が日に日に大きくなっていった。
ある日の事だ。
ロクに立ち上がって動けないパトリックの世話をしているメイドたちの話し声が、扉一枚隔てたところからかすかに聞こえてきた。
ぼそぼそと、周囲にあまり聞こえないようにと配慮しているだろう声量ではあるが、それでもパトリックの耳には所々その内容が届いていた。
その内容はパトリックが良くなる様子がなければ、このままアルスター家との婚約を続けられないというものだった。今はまだ様子見であるけれど、症状が良くならなければ婚約の白紙撤回も視野に入れなければならない。そうなれば、この家はどうなるのかしら、というパトリックだとかローエグラム家というよりは、自分たちの今後の生活を心配した内容。
それを聞いて、パトリックはようやく現実を直視する羽目になった。
そうだ。
本来ならば自分はアルスター家の婿となるはずだった。
同じ伯爵家であっても、こちらの方が歴史がある。アルスター家は同じ伯爵家であっても歴史は浅い方だ。ローエグラム家との繋がりで得られるものとアルスター家との繋がりで得られるもの。双方お互いに利害が一致したからこその婚約でもあった。
だが、自分がこの状態では婿としてアルスター家に行ったとして、一体何の役に立つというのだ……?
何の役にも立たない男を婿にするなどアルスター家とてそこまで酔狂ではないだろう。このまま寝たきりの状態が続くようなら、確かに婚約はなかった事に……となっても仕方のない話だ。
その場合、どちらが悪い、とかではないのだろう。
パトリックのこれが明らかに自分に非があるようなものであればまだしも、彼にだってどうしてこんな事になってしまったのかわからないのだ。
結婚した後でこれならともかく、今はまだ婚約した段階だ。その関係をなかったことにしたとして、薄情とは言えない。お互いの利になるからこその婚約だったのだから、その利が消えれば解消するのは当然の流れだ。
しかし、もしそうなれば。
今まで援助されていた金はどうなる?
あれらは本来結婚する事を想定して援助されていた。けれどその関係がなかったことになるのであれば、その金は返還しなければならないだろう。
…………マズイ、と思った。
セレネに、という名目で買った装飾品はヘルガに貢いでしまっている。
父がそれを見逃したのはどういう事だろうかと思ったが、恐らくはパトリックが持ち出した金額で買ったものなどセレネとて必要ないと思うような代物だと判断したからこそスルーされていたのかもしれない。どうせ結婚してしまえさえすれば、その程度の金をアルスター家はとやかく言う事もないだろうと判断したに違いない。
ローエグラム家の経済状況はアルスター家に把握されていると思っていい。
だからこそ何かの折にセレネに渡す贈り物がなかったとしても、向こうの家とてとやかく言ってきたりはしなかった。
だが婚約が撤回されたなら、それらの金銭は返さなければならないだろう。一度に全てを……というのは無理だとしても、長い年月をかけての借金になるだろう。その時、領地の復興に使われた分はともかく、それ以外に使われた金額なども調べられてしまえば。
セレネに贈ってすらいない物を買った、というのが知られたら。
更にはそれを別の女に贈っていたなどと知られてしまえば!!
アルスター家とローエグラム家の仲は壊滅的なものになるかもしれない。
自分が健康であれば、借金など働いてすぐさま返してやるさ! と啖呵をきったかもしれない。だがしかし今はどうだ。今はもう立ち上がる事すら難しいくらい体力が落ちている。
もし、この家が借金でどうしようもないというところまで来てしまったら。
父は、一体どうするだろうか。領地を売る? 爵位を返す? どちらにしてもその時自分は完全なお荷物だ。捨てられるかもしれない。
こんな状態であれば、仮にヘルガの所へ行けたとしても彼女とて見捨てるかもしれない。
パトリックが多少なりとも貢いだからといっても、ヘルガの家はまだまだ金に困っている状況なのだ。
そんなところにパトリックが転がり込んだとて、迷惑がられても有難がられる事はないだろう。
そうだ。自分の今の生活はアルスター家の援助で成り立っていた。だというのにそれが無くなってしまえば……
せめてセレネと話がしたい。
みっともなく縋る事になろうとも、今の自分に必要なのは彼女と、アルスター家という存在だ。
ヘルガとも別れよう。彼女と暮らす事ができればどれだけ幸せだろうかと思った事は何度だってある。けれど、その生活はアルスター家の金があってこそ成り立つものだ。セレネに、いや、アルスター家に見捨てられればそんなもの、一瞬で消えるものでしかなかったのだ。
パトリックが呼んでいたから、というわけではないが、それから少ししてセレネが見舞いにやってきた。
セレネを見るなり今まで済まなかったと謝罪するパトリックに、セレネは困惑した様子を見せていたがそれも一瞬で、その後はパトリックの看病をするために度々ローエグラム家に訪れるようになる。
一時小康状態であったものの、それでも徐々に悪化していくパトリックは日に日にやつれもう長くない事が窺えた。
すっかり痩せ衰え、パトリックは少し前と比べるとすっかり別人になっていた。
まだまだ溢れる若さのようなものがあったはずのパトリックは、今では痩せ衰えた結果まるで老人のような見た目になってしまっている。
瑞々しさのあった肌もすっかりカサカサになりまるで枯れ木のようだ。
それだけではない、艶やかでサラサラだった髪はごっそり抜け落ちてしまい、今では頭皮がほとんど見えてしまっている。
もうじき寿命を迎える老人なのだ、と言われれば恐らく大半の者が信じただろう。それくらいの変わりようだった。
けれどもセレネは婚約の白紙を告げるでもなく、献身的に看病をしていた。イヤな顔一つせず、文句も言わずパトリックの世話をしている。それはもう看病というより介護といった方が正しいくらいであった。
イヤだなぁ、という感情を表に出さないだけかと思ったが、セレネの目にはそういったものが一切浮かんでいなかった。どこまでも献身的。セレネのその当たり前だと言わんばかりの行動に、パトリックは今までの自分は何と愚かだったのかと涙を流し悔やんだ。
確かに他の令嬢と比べればパッとしない、華がないと言ってしまえばそれまでだ。けれど、その見た目がなんだというのか。華やかでなくとも彼女は美しいし、それに何よりこんな事になってしまった自分にだって相変わらず優しい。ヘルガだって自分が倒れた時に医者に連れていってはくれたけれど、その後家の使用人がパトリックを連れ帰る時にどこか気まずそうにしてパトリックから目を逸らしていた。
もし、彼が貴族である事をやめてこちらに来られても困る、といったものがあったと言われれば充分に納得するものであった。いや、あれは単純に何かあった場合の責を問われたらという恐れであったのかもしれない。
自分からヘルガに会いに行く事はできなくなったからというのもあったが、あれ以来ヘルガとは顔を合わせてすらいない。平民と日頃から付き合いのある家であればまだしも、ローエグラム家はそうでもない。そこにヘルガがのこのこやってくる事はまずできないだろうから、彼女が来ないのは正解ではある。けれど、それでもほんの一目だけでも、と館の外から遠巻きに眺めにくるくらいの事があっても良かったのではないか、とパトリックは思ってしまったのだ。
その時自分はヘルガの事に気付けないかもしれない。けれどそれでも。
ほんの少しだけ、夢を見たかった。
もし、仮に来ていたとしても下手をすれば追い返されるだけだ。そしてパトリックにそれをわざわざ告げる事はないかもしれない。
こんな事になると知っていれば、ヘルガとはもっと綺麗に別れておくべきだった。
セレネの優しさに浸りながらもパトリックはそんな事を考えてしまった。彼女が婚約をなかったことに、と言い出さない事に内心で怯えながらも、その優しさを享受する日々。一向に良くなる様子のない自分の身体。
できる事などほとんどなくて、だからこそベッドに寝たままパトリックはただぼんやりと考える事が増えた。考えるといっても、体調が良くなったら……なんて空想はとっくに通り過ぎてしまった。日に日に少しずつ悪化していく身体がある日急に良くなるなどあり得ないし、だからこそ考えるのはこれから先の話であった。
今の自分は生かされている。
セレネが毎日のように見舞いに訪れているからこそ、この家の中での扱いもそこまで酷いものではない。
もし彼女が来なければ、自分の身の回りの世話はもっと雑になっていたとしてもおかしくはないのだ。どう考えても今のパトリックはこの家のお荷物でしかない。それを丁重に扱うか? と考えれば自ずと結論は出る。
セレネこそが、今の自分の生命線であった。
だからこそパトリックは恐れた。
彼女がこの家に来なくなることを。今日は来てくれた。また明日、と言って去っていくセレネだが、本当にその明日が来るかはわからない。
何かの拍子にセレネが来なくなる可能性は当たり前のように存在する。
いっそずっとこの部屋に留まっていてほしい。
自分の安寧を守るためにパトリックはそんな事すら考えた。けれど、自分の我儘で彼女が気分を損ねて二度と来なくなるかもしれないと思えば、そんな事言えるはずもない。自分はただ従順に彼女の来訪を待つしかないのだ。それこそ、犬のように。
いつまで続くのかもわからない日々。終わりがくるとなれば、その時自分は惨めに死ぬのだろうという確信がある。けれど、いっそサクッと終わってしまった方が良いのではないか? と思い始めるようになってきた。
今の自分はただ生きているだけだ。
ベッドの上で寝ているだけで、何をするでもないだけの存在。
生きているといっても何ができるわけでもない。実はもう自分の身体は腐り落ちていると言われたら信じてしまいそうになるほどに、身体の感覚もない。首から下の感覚はとっくになくなっていた。
「パトリック様、お加減はいかがです?」
「あぁ、あぁ、セレネ、相変わらずだ。もう何の感覚もないんだ。良くなる気がしない。このまま私は死ぬのだろうか。死ぬのならいっそ苦しまないように、と思うのだが、やはり死ぬのは怖い。いやだ、いやだ、どうしてこんな事に……」
今日も見舞いにやってきたセレネに、パトリックはともすれば支離滅裂な言葉を吐きだしそうになる。彼女だけが今の自分の話をきちんと聞いてくれる。家族はこの部屋に寄り付こうともしない。世話をするメイドたちも最低限の義務だけでやっているというのを隠しもしない。
自分はお荷物である、というのを態度で突き付けられる中、セレネだけは変わらなかった。
そんな彼女に思うまま心のうちを吐き出したい。けれど、支離滅裂な言葉になってしまえば、とうとう狂ってしまったのだと思われてセレネが足を遠ざけたら。
それを思うとパトリックはどうにかマトモな言葉に聞こえるように言葉を吐きだすしかないのだ。不安に押しつぶされそうになりながらも、今はもうセレネとの会話だけが外部からの刺激といってもいい。
声を出すにも腹に力が入らない。だからこそ声はすっかり細く小さなものへ変わってしまった。不安を押し殺そうとするとどうにも早口になってしまう。
セレネは自分の声を聞き届けているだろうか? もしかしたら何も聞こえていないのではないか? そんな風に思えてしまう。
だがセレネはパトリックの言葉をきちんと聞いているらしく、穏やかな、それこそ見ているだけでこちらが安心してしまいそうな笑みを浮かべ言葉の一つ一つを拾い上げてくれている。
パトリックの世界はすっかりセレネで満たされてしまっていた。
「セレネ……セレネ、お願いだ。私を捨てないでくれ……君に捨てられたら生きていけないんだ……!」
愛を希うように、言葉を紡ぐ。
愛を乞うのもそうだが、実際に彼女に捨てられれば自分は生活できない。だからこそ、パトリックのそれは愛を囁くというよりは単なる懇願であった。
その言葉にセレネは思いもよらない事を言われたかのように僅かばかり、驚いた顔をした。
見舞いの品として今日は珍しい果実酒を持ってきましたのよ、と言っていたセレネの手にはグラスに注がれた黄金色の液体が輝いている。パトリックの上半身を起こしてそれをゆっくりと飲ませると、セレネはグラスを置いて笑う。
「おかしな事をおっしゃるのねパトリック様。わたくしは貴方を捨てませんわ」
「本当に……?」
「えぇ、勿論ですわ」
その表情には嘘がない。どうしてそんな事を言うのかしら、おかしなパトリック様、なんて呟きが聞こえてきて、パトリックの胸に安堵が広がる。今しがた飲まされた果実酒は、確かに珍しいものなのだろう。今までに飲んだことのない味だった。甘く爽やかで、しつこくなくていくらでも飲めると思えてしまいそうなもの。身体が自由に動くのであれば、もう一杯、と自分で飲んでいただろう。
もう一杯、とセレネにねだろうかとも思ったが、あまり飲み過ぎるとトイレに行きたくなる。自力でトイレに行く事もできなくなったパトリックには、おむつが装着されている。まだ若いうちから……と考えるとこれだけで羞恥で死にたくなるものだった。
メイドたちにこれらの世話をされるのも屈辱であったが、甲斐甲斐しく世話をしてくれるセレネにも流石にここまでの世話はさせられない。どうしようもないところまできた感じはあるが、それでもまだセレネの前では格好つけたかった。
今、自分は果たして笑えているだろうか。
そんな風に考える。
身体が動かないせいで、表情も動かそうとして動いていないのではないか、という気しかしないのだ。
セレネの言葉に安堵し、そうして何度目かの後悔がよぎる。あぁ、本当に自分はどうして彼女の事を捨てようなどと考えてしまったのだろう……
「セレネ、セレネ……ありがとう、愛して――」
言葉は最後まで続かなかった。
こふっと途中で咳が出て、その拍子に口から何かが零れた。
上半身を起こした状態だったので、視線を少しだけずらせばそれが何であるのかは理解できた。首から下の感覚がなかったのと、痛みもロクに感じなかったからこそ最初はうっかり涎が零れてしまったのかと思ったが、その色は赤かった。
「え……?」
唾液か、はたまた先程飲んだ果実酒が逆流でもしたのかと思っていたがそれは血だった。
それは寝具に飛び散った色からも明らかである。
血? 吐いた? 誰が? 私が?
一拍遅れてそんな事を考える。目の前の現実を認識できない。直視しようとすればするほど、目の前が真っ暗になる気がした。
「ねぇパトリック様。わたくしは貴方を捨てたりなんかしませんわ」
でも、とセレネは続ける。
「わたくしを捨てたのはパトリック様ではございませんか」
その声が、やけに遠くから聞こえる気がした。
「わたくしは貴方を愛していたというのに。……酷い人」
「セレ……」
彼女が今どういう表情を浮かべているのか、パトリックはわからなかった。視界が霞む。薄いベールをかけたように視界が黒くなっていく。彼女に手を差し伸ばそうとして……しかしその腕は動かない。自分の身体なのに自分の思い通りにはちっとも動いてはくれなかった。名を呼ぼうとして、しかし途中で再び咳き込み喉からごぽりと音を立てて再び血の塊が吐き出される。
何が起きているのかわからない。けれど、明らかに今、不味い状況にあるというのは理解できた。
医者……医者を呼ばなければ……助けを求めようにも声が出ない。縋るような視線をセレネに向けたつもりだったが、視界が黒く染まってよく見えない。
「ェ……レ……」
どうにか振り絞って出した声は、しかしこれが限界であった。
「さようなら、パトリック様」
それが、パトリックが最期に聞いた言葉だった。
――この婚約がほぼ金目当てに結ばれたものだという事をセレネは理解していた。
同じ伯爵家でありながらも、歴史は向こうの方が長い。実際他の貴族たちからも、ローエグラム家の名は知っていてもアルスター家については知らないという者もいるのは事実だ。
伯爵でありながらも歴史ある貴族からすればアルスター家は成り上がり者のように見られている節もあった。露骨にそういった言葉を投げかけられた事はないが、社交の場でひそひそと囁かれたのをセレネが聞いたのだって一度や二度ではない。
同じ伯爵の身分であっても、明らかにローエグラム家とアルスター家は同等の存在ではないのだ。
ローエグラム家が金に困っていなければ、まず間違いなくこの婚約は結ばれる事もなかった。セレネはそれをよく理解していた。
それでも、折角結んだ縁だ。セレネはパトリックの事を知ろうと努力したし、そうしているうちにすっかり彼に恋をしていた。少しばかり引っ込み思案でもあったセレネには、パトリックはあまりにも眩しい存在に映っていた。セレネが知らない事を、けれど馬鹿にすることもなく教えてくれる。前を行き、彼女に道を指し示してくれるような――頼もしい存在であったのだ。
けれど、セレネの想いとは裏腹にパトリックはそこまでセレネの事を想ってはいなかった。その証拠に彼は市井の娘とよく一緒にいるようになった。セレネとは正反対の、自分の意見をしっかりと口にできるような、誰に守られずとも自分の足で立って生きていけるような力強さのある女性。
守られずとも、という点ではセレネもそう在りたいと思っていたが、生まれついての性根は中々改善できるものでもない。パトリックと仲睦まじい様子を見せる彼女の事を、セレネは憧れと嫉妬に満ちた感情で見ていた。
もしかしたら彼女の事を愛人として囲うつもりだろうか。
正直それはとてもイヤだ。だって、そしたらどうしたって彼女の方が愛される。妻の立場にいても、自分は愛されない。ただ金さえ出せばそれでいい、みたいな扱いを受けるのがわかりきっていて、愛人の存在を許せるだろうか?
否。無理だ。許せるはずがない。けれど、彼女に何かをして、その結果余計に自分がパトリックに嫌われるような展開も避けたい。
自分が彼女の存在を受け入れればいいだけの話だけれど、それも無理。
悩んで考えた結果、仮にあの女を排除できたとして、パトリックが新たな女を作らないとも限らないというところに行きついてしまった。
ローエグラム家がアルスター家との繋がりになるだろう二人の婚約をなかった事にするのはないだろう。援助した金を返せとなれば、どうにか持ち直しつつあるローエグラム家は一転あっという間に没落するのが目に見えている。せめてもうちょっと年数が経過して盛り返す事ができているなら話は変わったかもしれないが、現時点では婚約を無かったことにするなどあり得ない。
セレネにもそれはわかっていた。
けれど、これ以上他の女と親しげにしているパトリックを見るのはつらい。見ない振りをしていても、どうしたって女の影がよぎるパトリックと一緒にいて、セレネは何もなかったように接するなんて到底できなかった。
セレネは両親に泣きついた。いい歳して親に泣きつくなんてみっともないと思っていたが、こればかりは自分にどうにかできるものでもない。
このままでは嫉妬に狂って何をするかわからないとまで言えば、最悪の想像をしたのだろう。両親は我慢しろとは言わなかった。
ローエグラム家にも話を通した。勿論渋られた。だが、このままいけばパトリック有責の婚約破棄になり得る事も考えれば、アルスター家の要求を突っぱねる事もできなかった。
パトリック有責での婚約破棄ともなれば、今まで援助した金の返還だけではない。慰謝料も払わねばならないだろう。そうなれば間違いなくローエグラム家は終わる。
跡を継ぐ長男も、隠居して残りの人生を穏やかに暮らすつもりの現当主やその妻も、一転借金奴隷に身を落とす可能性が出てしまえばアルスターの要望を断れなかった。
自分たちだけが犠牲になるわけではない。使用人たちも解雇となれば、路頭に迷う者が出る。
紹介状を書いて他の職場を紹介するにも限度があるのだ。それ以外にも、間違いなくローエグラム家の領地に住む領民たちにも影響がでる。場合によっては普通の生活ができなくなって犯罪者へと身を落とす者たちも出るだろう。
そういった最終的な被害を考えれば、パトリック一人の犠牲で済むならば……とパトリックの父も、次期当主であるパトリックの兄も何も言えなかった。母は最初反対していたが、それでも最悪の結末を聞かされればそれでもイヤだとは言えない。何せその被害者の中に自分も含まれるだろう可能性は高いのだから。
そうしてパトリックは――知らぬ間に、家族や使用人たちから見捨てられる事となったのだ。
少量ずつ、日に日にパトリックの食事に毒が混入されるようになる。彼の体調不良は病気などではない。ローエグラム家お抱えの医師もまた共犯者であった。
勿論最初医師もまたこの計画には反対した。けれど、彼の姪はローエグラム家の侍女として働いていたし、彼の息子夫婦もまたローエグラム家の領地に暮らしていた。
もしローエグラム家が没落したとして、そうなれば息子夫婦や姪が路頭に迷う可能性はとても高く、他の土地へ引っ越しをさせるにしてもそう簡単にいかない。それに何より、身内を別の所に逃がしたとしても他の者たちは? 万一、今回の件を知っていて身内だけを逃がした事が知られれば、彼だけではなく身内もまた迫害されるかもしれない。
結果として、医師はパトリックの事を見捨てた。医者として最低の行いであるのはわかっている。けれど、たった一人の犠牲でその他大勢が助かるなら……そしてその助かる側に自分の大切な者がいるのだ。例えば悪い部分の腫瘍を切除して他の部分に被害が及ばないようにする――そんな、これはそんなものなのだ、と医師は自分に言い聞かせた。
ローエグラム家の使用人たちは、パトリックの食事やそれ以外で口にする飲み物などに毒が混ぜられていくのを黙って見ていた。一日に摂取させる量は決められていた。じわじわと死に至るように、決して一息に死なないように。
例えばこれが、浮気した男憎しでセレネが指示していたのであればもしかしたら、パトリックに誰かがこっそり忠告していたかもしれない。
けれど、セレネはパトリックを愛していた。誰かの所へ行くのなら、行けないようにすればいい。そうして自分が彼のところへ通えばいい。そういう考えに至ったのだ。
衰弱してとうとう自力での歩行もできなくなったパトリックの元へ訪れるセレネは幸せそうで、だからこそ困った事に使用人たちの罪悪感は薄れつつあった。
あの人が憎くて憎くて仕方がないの、とばかりの感情が滲んでいたならその手伝いをした事で罪悪感がより強くなったかもしれない。けれど、セレネが本当に幸せそうに微笑むものだから。
これは正しい行いなのだ、と思ってしまったのだ。
ある意味それも現実逃避だろう。だが、もうここまで来てしまった以上引き返す事もできなかった。
パトリックは恐らくもう長くはない。使用人たちは薄々そう感じ取っていたし、パトリックの家族も同じくそう思っていた。
トドメを刺したのは、セレネである。
海を越えた先の国から入手した、この国では珍しい果実酒。それに毒を混ぜた。
この頃にはパトリックが縋るのはセレネだけで、セレネもまたそれに幸福を見出していた。
けれど、セレネは気付いていた。
パトリックは本当にセレネを愛しているわけではない。見捨てられたらもう誰からも相手にされないから縋っているだけだ。
捨てないでくれ、と言われた事でセレネはトドメとなるだろう果実酒を飲ませる事を決めた。
最初に裏切ったのはそちらではないですか! そうみっともなく喚きたい気持ちもあったけれど、何もかもが今更なのだ。
結婚前のちょっとした遊びだと言われても、それが本当かどうかはわからない。結婚した後でも愛人を囲う可能性はあったし、愛人にしなくてもセレネの目を盗んでの逢瀬が行われるかもしれないのだから。
そしていつ真実の愛を見つけたなんて言って離縁を突き付けられる事か……!
パトリックの軽率な行いで、セレネは常にその疑いを持たなければならなくなってしまった。
それならばいっそこの手で……そう何度も思った。
けれど、明らかにこちらが殺したとなると自分の家族だけではない。多くの者に迷惑がかかってしまう。
セレネは中途半端なところで理性が働くタイプだった。
パトリックを殺した後で自分も死ぬ――というのも勿論考えた。けれどそうなればお互いの家の醜聞となり、社交界でどういう噂が流れる事か……セレネは死ねばそれで終わりだが、残された者たちの事を考えればそんな事もできなかった。
けれどもだからといって何事もなかったかのように振舞うなんて事もできそうにない。いや、仮にできてもすぐにボロが出る。セレネはそれをよく理解していた。
だからこそ両親に泣きついて、彼を毒殺する事に決めたのだ。
ゆっくりと、じわじわと、真綿で首を締めるように。
本来であれば日常生活もマトモに送れなくなった男との婚約などしていても意味がない。ましてや婿入り予定の男だ。それがロクに動けないのであれば、婿として迎え入れる意味がない。本来ならばその時点で婚約の解消を申し込む。
だがしかしそうなったのはセレネが実行したからであり、原因を作ったのはパトリックだ。
だからこそセレネは白々しくもパトリックの元へ見舞いに足繁く通い、甲斐甲斐しく世話をする。
こうなってしまった事の発端をローエグラム家の使用人たちは知っている。下手に外に噂でも漏らそうものなら間違いなく自分たちも犠牲となるのはわかっている。むしろ自分やその家族の生活を考えた上で口を噤む事を選んだのだ、噂と言えども外に漏れるような事をするはずもない。
若干の罪悪感があったとしても、使用人たちはパトリックの世話を丁寧にはできなかった。セレネが世話をするためというのもあるが、あまり接する時間を増やして何かの拍子に口を割らないとも限らないからだ。
暴露したらしたで、もしかしたらそれはそれで面白い事になったかもしれない、と考える者はいたが、セレネの計画を邪魔する事になれば最悪次の破滅は自分を含めた身内だ。万が一を考えれば接触そのものを最低限にするしかない。
不治の病となり寝たきり状態になってしまった婚約者を見捨てる事なく献身的に支える令嬢――それがセレネに対する周囲の反応であった。実際そうしたのはセレネであるにも関わらず、その事実を知られなければとんでもない美談である。
そうしてパトリックが死ぬまで献身的に面倒を見、彼が死んだ後も彼だけが伴侶だと言いセレネは生涯独身を貫いた。それが許されたのは、そもそもアルスター家に金がある事と、またセレネが女でありながらも伯爵家の跡を継ぐことを許されたからだ。
死んでも彼はわたくしの夫です……そう宣言し、アルスター家はローエグラム家の援助をも続けていた。
世間ではこれも美談として語られている。
実際パトリックを毒殺する計画が出た時点で、彼が死んだ後も援助をする事を約束していただけに過ぎないというのに。
多少の情報操作をした事も否定はできないが、ローエグラム家もアルスター家のどちらも家の名は落ちていない。
結婚前に夫となるべき男に先立たれたセレネはその後、いくつかの縁談を申し込まれたが――そのいずれも断っている。パトリック曰くあまりぱっとしない地味な令嬢であったセレネは、パトリックを失った事である種の華を得たようだ。
だがしかし、どれだけ好条件の縁談であっても決して首を縦に振らなかったし、晩年を迎える前には養子を迎え入れてアルスター家の後継者として育て上げ、その後は潔く引退している。そうして生涯先立たれた夫だけを愛した婦人の話は、すっかり美談として定着してしまったのだ。実際結婚もしていないので夫というのはおかしな話だが……
セレネの両親も、パトリックの両親も、更には当時の事を知る者たちも、真実を語る事なく没しているためセレネが死ねば真実は完全に闇の中だ。
真実など知らぬまま、愛の話の一つとして語られるのだろう。セレネが引き取った後継者によって。そしてそれを聞いた者たちによって。