妖精起こして犬と呼ばれ
「自分はまだやれます!」
上官室に大声が響いた。
声を荒げ、目の前のデスクに座る上官を睨んでいるのは眼鏡をかけた青年だった。
軍服の上からでも分かる鍛え上げられた肉体をしている。
人を殺すという目的のためだけに練り上げれられた、至高の結晶だ。
「何度も言わせるな。機密作戦部隊アッドは国家の存亡を左右する重要任務を遂行する精鋭中の精鋭だ。作戦中の不慮の事故とはいえ、視力が落ちた人間を使うことは出来ん」
「では、自分はこれからどうすればいいのですか?!」
「先ほども言っただろう。退職金を支払う。職を見つけなくてもしばらく暮らすには十分な額だ。機密保持契約は交わしてもらい、監視はつくだろうが…一般市民として暮らせばいい」
「今更出来ない!私は、兵士として育てられたのですよ?!」
男は幼いころから機密作戦部隊アッドのために育てられた、生粋の兵士だった。
国家のために働く、それだけが男の意義だった。
その意義が失われるなど、到底許容できなかった。
「……分かった、D1」
大きくため息を吐いて、上官は男の名前を呼んだ。
名前というには簡素な、幼少時に割り振られたロット番号ではあったが。
「チャンスをやろう。どんなに言われても、アッドは無理だが…兵士として軍に復帰するチャンスだ」
「ありがとうございます!」
頭を下げるD1。出来ればアッドに戻りたかったが、この際、軍で兵士として働ければ文句は言わない。
「ウンディーネを知っているか?」
「ウンディーネ…氷の空を保つ役目を持つ魔女たちのことですか」
「ああ」
上司が背後に視線をやる。
そこには窓があり、窓越しには空が見える。
その空は、我々が想像する空とは異なっている。青く透明だが…氷で出来ているのだ。
どこまでも、空は氷で覆われていた。
そして…その氷の向こうでは、巨大で黒い何かが時折動いているのが、氷に落ちる影で分かった。
「遥か昔、遠い宇宙からやってきた正体不明の怪物・インベイド。地球など容易に破壊出来るほどの巨大生物に、地球は滅亡の危機に陥った。
しかし、そこで立ち上がったのが、最初にして唯一の魔女・ベラドンナだ。
彼女は自らを犠牲にし、魔法で、地球を覆う氷の空…インベイドにとっては突破不可能のシールドを作り出した。
だが、氷で出来ているシールドは、太陽の熱で溶けてしまう。
インベイドが薄くなった氷を突破するのは時間の問題だった。
そこで、我々、地球軍はベラドンナの細胞と、それに適応する人間の細胞を合わせることで、魔法を使える人造兵器を作り出した。
それが、ウンディーネだ」
上司はD1に視線を戻し、続ける。
「だが、ウンディーネには色々な問題があった。
体が崩壊してしまうため、魔法を使えるのは一度きり。
疑似魂の作成のために、”悔い”を残して死んだ若い少女を使わなければ、ベラドンナの細胞が適応しない。
しかし、”悔い”が残っていては、決意が鈍り、強い想いが必要な魔法が使えない、などだ。
だから、ウンディーネ計画が始動したときから、我々軍は、ウンディーネ一人一人にパートナーをつけることで、彼女たちが抱える悩みを解決し、魔法を使えるように手助けしてきた」
「…上官」
「話が見えてきたか、D1」
上官が頷く。
「お前には、そのパートナー、―――兄妹になってもらう」
====
上官とD1は廊下を歩いていた。
上官によれば、この先にD1が担当するウンディーネがいるのだという。
「ウンディーネの首にはチョーカーが付いている。これは、フラツィがウンディーネの疑似魂を起動させるためのスイッチであると共に、いざというときには首を吹き飛ばせる爆薬となっている」
トントン、と首を指で叩いて上官が言った。
「今、ウンディーネはスリープ状態となっている。だから、接触したら、まずは首のチョーカーに触れろ。それで起動する」
「了解しました」
「…D1、正直、申し訳ないと思っている。ただ、軍規定で彼女を回さなければならない。それでも、私はお前のことを中々気に入っているんだ。それだけは分かってくれ」
「…これから会うウンディーネに何か良くないことでも?」
「通称、我儘姫。過去9回にわたり、空の氷を補強する儀式である”空との婚姻”に失敗してきた問題児だ。
フラツィとの関係が上手くいかず、中には担当を放棄するフラツィもいた。ただでさえ、ウンディーネは生前の記憶が曖昧だから、”悔い”が何なのかをはっきり話すことが出来ない。
それなのに、コミュニケーションすら上手くいかない奴の”悔い”をどうやって解決する?……そんなわけで、悔いを解消できないために”空との婚姻”で魔法を使えない。
儀式自体は複数のウンディーネで行うから、氷の補強自体は可能だが…出力が落ちるんだ。どうなるかは想像に難くないだろう?」
「ええ…」
「今までは、お前のような軍への復帰を望む人間や、失敗をした人間の汚名挽回の機会として、一応生かされていたが…軍の予算も無限じゃないんだ。同情で世界は救えない。使えるウンディーネに取り換えた方がいいと、廃棄の話まで出ている始末だ」
話しているうちに二人はある扉の前にたどり着いた。
「私はここまでだ。自室の割り当てなどは追って通達する」
「ありがとうございます」
「いいか、何とかして”悔い”を見つけるんだ。そうすれば、彼女と仲が悪くても何とかなる。…頑張れよ。D1」
ポン、とD1の肩に手をおいて、上官は去って行く。
その背中に一礼し、D1は扉へと向き直った。
「さて…」
ドアノブを回し、押し開ける。
―――中はかなり広い作りになっていた。
調度品やフリルがふんだんにあしらわれたカーテンなどから、貴族やお嬢様が住んでいる部屋のようにも錯覚する。
中央にはベッドが鎮座し、誰かが寝ているようで、布団が盛り上がっていた。
D1は少し警戒しながらベッドへと近づく。
そして、息を飲んだ。
精緻な人形がそこに寝ていた。
透明な空色の髪。
陶器のように滑らかで白い肌。
黒のドレスが肌とのコントラストを描いている。
年は大体…13歳ぐらいだろうか。
「これが、ウンディーネか」
折れそうな細い首に、チョーカーが巻かれているのを見て、D1は呟いた。
さあ、いつまでもこうして眺めていても仕方ない。
気合を一つ入れ、D1はチョーカーに触れた。
『魂の接触を確認。疑似魂をスリープ状態から復帰します』
無機質な機械音が響き、少女の頬に赤みが刺す。
呼吸が少し浅くなり、覚醒が近いことを示す。
―――少女の目が開かれた。
すい、と瞳が動き、傍らに立つD1を捉える。
それから、少女は静かに起き上がり、ベッドから降りる。
まっすぐに立ち、D1と向かう合う。
澄んだ青色の瞳に見つめられ、D1の心臓は少し高鳴った。
そして。
「あなたが、次の私の犬?」
「は?」
可愛らしい口から飛び出した予想外の言葉に、D1は空いた口が塞がらなくなった。
「い、いや待て。違う。オレはお前の新しいフラツィだ」
「フラツィ?じゃあ、犬で合ってるじゃない。よろしくね、下僕10号」
「下僕10号?!」
「気に入らないかしら?我儘な下僕ね。…そうね、じゃあ、セント。貴方は今日からセントよ」
「なんで勝手に名付けてんだとか、色々言いたいことはあるが…その名前の由来は何だ?」
「セントバーナード。私が好きな犬種よ」
「犬じゃねえか!」
「ちなみに、今日からずっと私の前ではこの犬耳をつけてね」
「完全に犬扱いじゃねえか!つけねえよ!」
なんだこれは、話が違う!とD1は叫びたい気分だった。
いや、問題児だと聞いていたので違わないのだが、思っていたのとなんか違う!
「あら?そんな態度でいいの?」
と、ウンディーネの雰囲気が変わる。
先ほどまでの雰囲気を水のような静けさとするなら、今は毒霧の中にいるような嫌な感じだ。
「私の元に来るフラツィは、何か大きな失敗をして起死回生をかけているだとか、そんな人ばかり…あなたも、何か引けない事情があるのではなくて?」
「ぐ…」
「私の言うこと聞いていれば、私は大人しく、最後の日に魔法を使えるよう、貴方に協力するし、努力するわ。プライドと引き換えに、貴方は成果を得られる可能性が格段に高まる。悪い取引ではないと思うけど?」
「…………くそ」
D1、改め、セントは悪態をつくと、犬耳のついたカチューシャをウンディーネの手から奪い取り、装着した。
犬耳が生えた、むさい男の誕生である。
(なるほど…こうやって先駆者たちはプライドを折られ、逃げ出したのか…だが)
「やってやろうじゃないか」
「いい子ね。…私の名前はアリア。ただのアリアよ。よろしくね。犬」
覚悟の決まったセントを見て、満足そうにニコッと笑い、アリアは自分の名前を告げた。
「さて、自己紹介も済んだところでお茶会にしましょ」
アリアがベッドの近くに置いてあったリモコンを操作すると、オート型のメイドボットがワゴンを押してくる。
(ロボットとは…ウンディーネが快適に過ごせるように、軍部は相当予算をつぎ込んでいるようだな)
本来は死が確定した少女たちへの慰めなのだろう。
しかし、それがずっと続くならただの浪費でしかない。
使えないウンディーネを廃棄したくなるのも分かる、と思いながら、セントはワゴンをのぞき込む。
乗っているのは、アフタヌーンティーセットのようだ。
ティーポットとカップ。
見た目も楽しい、鮮やかなお菓子が詰められたバスケット。
「お茶会か、見た目の通り、可愛らしい趣味もあるんだな―――」
椅子を引いて座ろうとするセント。
しかし、
「待ちなさい。主人が許可してないのに、座ろうとする下僕がどこにいるの」
「…分かったよ」
アリアにそう言われ、少しむっとしながら直立不動となるセント。
「座りなさい」
ご主人様から許可が出たので、下僕は座ろうと椅子を引く。
「待ちなさい」
また、制止。
今度はなんだ?とセントは怪訝な顔でアリアを見る。
「犬が座れと言われたら”お座り”でしょ」
「……」
このクソアマ、とは口に出さない。
堪えるのだ。D1。これは精神修練だ。拷問訓練なのだ。
「返事は?」
「…わん」
両手をついて、腰をかがめる。
まさに犬がやる『お座り』のポーズ。
「まあ、及第点ね」
満足そうにアリアは頷いた。
お座りに及第点もクソもあるか。
そう思ったが、これも口には出さない。
「よし、偉いセントには私が好きなジャスミンティーを飲む許可を上げます」
アリアが言う。
ここでセントは嫌な予感がした。
お座りのポーズでお茶が飲めるわけがない。
まさか。
セントの目の前に置かれる『犬用エサ入れ』。
その中に、ティーポットからジャスミンティーが注がれた。
「飲んでいいわ」
「……わん」
頑張れD1。必ず軍へ復帰するのだ。
名だたる著名人だって、どん底から這い上がってきたエピソードを持つ人物が多い。
これはそのどん底。つまり、この後には栄光が待っているのだ。
成人男性が地べたに這いつくばって、犬用エサ入れからお茶を舐めとるという行為に対する、沢山の言い訳が頭の中に溢れた。
たっぷり10秒はかけて、セントはエサ入れに屈みこむ。
(これだけ嗜虐志向があるんだ。コイツの悔いは、きっとSMに関連することに違いない…つまり、オレが耐えれば、それだけ情報を得られるんだ…)
―――この日、彼は大切な何かを失った気がした。
====
いくつかの日々が流れた。
セントは屈辱に耐え続けた。
アリアはセントが文句も言わずに耐えていることに少し驚いたようだったが、何も言わなかった。
====
そういえば、こんな日があった。
====
いつものお茶会。
セントはアリアのテーブルを挟んで向かいに立って、主人の指示を待っている。
そして、ジャスミン茶を一口飲んだアリアが口を開いた。
「座りなさい」
両手を地面について犬のお座りをする。悲しいかな、すっかり慣れてしまった。
だが、そんなセントを見て眉を顰めるアリア。
「…違う。普通に座って」
「なんだ?椅子に座ればいいのか?」
「そうよ。犬耳は可愛いからつけたままでいて欲しいけど、紅茶はティーカップで飲んでいいわ」
突然の主人からの許可に、下僕は戸惑いながら立ち上がる。
「珍しいな。どういう風の吹き回しだ」
「何よ、悪い?…偶々、そうしたくなったのよ」
そっぽを向いて話すアリア。その耳が赤くなっている。
首を傾げながら、セントはアリアの向かいにある椅子を引いて、1ヶ月ぶりに人間らしく、普通に座ったのだった。
====
こんな日もあった。
====
「男性を、喜ばせるSMとは、ムチだけではダメ…時にはアメを与えること…」
顔を赤くしてアリアが雑誌を読み込んでいる。
ケバケバしいピンクで彩られたそのタイトルは「色欲No.1」。
よほど夢中で読み込んでいるのか、いつもの時間になったことにも、セントが部屋に入ってきたことにも気付いていない。
「…おい」
「ひゃああ〜っ!」
後ろからセントが声をかけると、情けない声を上げ、アリアは雑誌を放り投げた。
「げっ、げっ、げげげ」
「鬼太郎?」
「こっ、この駄犬ーッ!レディの部屋に入るときはノックをしなさいよーッ!」
ボコボコ肩を殴られる。結構痛い。
だが、若干セントが悪かったのも事実なので、甘んじて受け入れる。
(やはりSMプレイに関係する悔いなのか?)
痛みに耐えながら、セントはそんなことを思ったのだった。
====
「最近、あんまり下僕扱いをされなくなってきたな…」
セントは自室で一人、悩ましい顔をしていた。
SM関連の悔いについて、セントは彼女の経歴を探っていた。
しかし、癌で死んでしまった以外は普通の少女だった彼女に、もちろんそんな過去があるわけがなく。
捜査は難航していた。
その上、最近のアリアの様子を見ていると、もしかしてSM関連に悔いはないのでは?と思えてきた。
「下僕扱い以外の、共通項か…そういえば、普通に座れと言われたとき、犬耳はつけていて欲しいと言っていたな」
犬耳……思えば、彼女が起動したときの第一声も、「あなたが私の犬?」だった。
「まさか……犬か?」
犬。それが悔いなら、一つ心当たりがある。
セントは紙の束から一枚を抜き出し、どこかへと電話をかけ始めた。
====
「遅い!」
いつもの時間より1時間も遅れてきたセントを目にした途端、アリアは怒髪天を突く勢いで怒鳴った。
「下僕が主人を待たせるとはいい度胸じゃない…いいわ、最近はやってなかったけど、久しぶりに調教フルコースを―――」
「待った。その前に、見せたいものがある」
「……何よ」
アリアが怒りの鉾を一旦収めたのを確認し、セントは扉の向こうで待たせていた『それ』のリードを引いて、室内へと呼び入れる。
数年の時が経っていても、姿かたちが多少変わっていても、共に過ごした主人を覚えていた『それ』―――茶と白のセントバーナードは、アリアを見た瞬間、嬉しそうに吠えて駆け寄った。
すとん、とアリアの膝が落ちる。
その瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
セントバーナードが涙をなめとると、アリアは震える手を伸ばし、彼を抱きしめる。
「ごめん、ごめんね。あんなに大切だったのに、私が死ぬまで傍に居てくれたのに、私、貴方のこと思い出せなかった…でも、ずっと心配だったの…ありがとう、生きててくれて…」
アリアの嗚咽はしばらく続いた。
セントは壁にもたれて目を閉じ、彼女が落ち着くまで静かに待っていた。
====
セントは一人、バーで飲んでいた。
カウンターの隅に座って、ウィスキーに浮かんだ氷が解けていくのを眺めている。
「うまくやっているようじゃないか」
そこに声がかけられる。
視線を移すと、上官が立っていた。
「まあ、そうですね」
気のない返事に気づかないのか、上官はセントの隣に座り、カクテルをバーテンダーに注文する。
「我儘姫は今度こそ魔法を使えそうだな。私も小さな少女を殺す趣味なんて無いからな。まあ、魔法を使っても結局は…どっちが良いかとは言えんな」
「ええ、そうですね」
と、そこでセントの様子に気が付いたらしい上官は眉をひそめた。
「なんだ?何か懸念でもあったか?」
「……」
少しの間。そしてセントは口を開く。
「…今更、怖気づいてしまいました。
最初は軍隊に返り咲くために何でもやってやるし、誰でも犠牲にしてやるって思ってました。
けれど、アリアと過ごすうちに、そんなことより、彼女を大切にしたいって思えてしまったんです」
「……」
上官にバーテンダーがカクテルを運んでくる。
それを受け取り、一口飲んで、上官は口を開いた。
「D1、彼女たちは、いわば花火だ。一瞬の狭間に煌いて消えていく、美しい一発屋。その生き様を尊むことがあっても、情を移すのは止めておけ」
「でも」
「でももしかしもない」
セントの反論をぴしゃりと叩き潰す冷たい声。
「人類のために罪のない少女たちを犠牲にする罪。我々が心に留めるべきことは、永遠に忘れてはならないことは、それだけだ」
ぐい、とカクテルを飲み干し、お代を多めにカウンターに置く上官。
席を立ち、セントに背を向ける。
「ここで結果を残せば、お前はフラツィとしての腕を認められ、軍に戻れるだろう。そんな気持ちではこの先すぐに挫けてしまうぞ」
「…」
上官が去って行く。
無言でセントは手に持ったウィスキーを飲み干した。
====
その日がやってきた。
「空との婚姻」は盛大なセレモニーではない。
それは人類を守るために必要な行為であり、人類の大きな罪でもある。
だから、進行はあくまで機能的。
定刻に決まった場所に必要最低限の人数が集まり、儀式を始める。それだけ。
ただし、ウンディーネたちはウエディングドレスを彷彿とさせる白い衣装に身を包む。
それは、若くして死んだ少女たちへのせめてもの手向け。
恋は知っても、愛を誓いあう年齢にはなれなかった彼女たちへ、軍からの精一杯の贈り物だ。
魔方陣の外側に、等間隔を開けてフラツィとウンディーネのペアが並ぶ。
そして、それぞれ意匠の異なるドレスに身を包んだウンディーネたちは、ブーケを胸に携えて、フラツィに見送られ、魔方陣の中央へと歩き出す。
聖者の行進のようだ。
いや、もはやこの世に未練はなく、ただ大切な人を守りたいという純粋な意思の元に進む少女。
それはまさに、この世に生まれた聖者そのものなのだろう。
そして、アリアもまた、他の少女と同じく中央に向かおうと踏み出す。
「なあ」
だが、アリアが数歩行ったところで、セントは彼女を呼び止めた。
振り返るアリア。
「儀式への参加、やめないか?他にもウンディーネは居る。お前が犠牲になる必要はないと思うんだよ」
「セント…」
少し驚いた顔。しかしその表情はすぐに消え、アリアは微笑んだ。
「ダメよ。役立たずの軍用犬は殺されちゃうもの」
「オレが絶対に守るよ」
「それじゃ、立場が逆じゃない」
アリアがつま先を精一杯伸ばした。
セントの唇に触れる柔らかい感触。
驚くセントと、照れくさそうに笑うアリア。
「私が貴方を守りたい。だから行くの。―――生きて。大好きな私の下僕」
次の瞬間。
氷の空、その一部が砕け散る。
老朽化したというよりは、大きな物体がぶつかって砕いた、というように放射状にヒビが入り、崩れ落ちた。
穴となった場所から、黒い何かが顔をのぞかせる。
ぬらぬらとした黒い外殻。
笑っているようなむき出しの歯茎。
巨大な黒いクジラのような、昆虫のような姿。
実に数十年ぶりに地球の外気に触れた『インベイド』は、その歓喜を表すかのように甲高い叫び声を上げた。
「予想よりも数倍早い!早く儀式を!」
誰かが叫んだ。
アリアはもう振り返らなかった。
中央へと駆け出す彼女の後姿。伸ばした手は届かない。
アリアが中央に辿りついたことで、欠けていた輪は完全なものとなる。
水妖精が互いに手を取り合って歌い出す。
鈴を弾く様な澄み渡った美しい調べ。いくつもの光が魔方陣から生まれ、粉雪のように煌めいて舞い上がる。
砕けた空の欠片が、光を反射して輝く。
まるでこの世の終わりのような幻想的な光景。
『―――Freude, joy of man’s desiring,
Holy wisdom, love most bright;
Drawn by Thee, our souls aspiring
Soar to uncreated light.』
氷の幕が再生を始める。
インベイドが焦っているのが傍目から見てもはっきり分かった。
ヒビの入っている氷の膜に何度も体当たりをし、めちゃくちゃに暴れて何とかこちら側へ飛び出ようとしている。
『Word of you, our flesh that fashioned,
With the fire of life impassioned,
Striving still to truth unknown,
Soaring, dying round Thy throne.』
しかし、再生のほうが遥かに早い。
そして―――氷の空は数か月前の完全な姿を取り戻した。
もはや何者にも破ることは出来ない、強い想いの結界の向こうで、悔しそうな唸り声を上げるは弾き者。
数回上空を旋回したあと、インベイドは再び成層圏近くへ戻っていった。
危機は去った。
―――眩い光を放っていた魔方陣は元の静けさを取り戻している。
其処には誰もいない。
誰かのために命を捧げた少女たちは―――もう、誰も。
=====
「いい眺めだろう?復帰と昇格の祝い金で買った土地だ」
開けた丘の上で、セントは海と空を眺めながら言った。
彼の横には小さな墓が一つある。
彫られた文字は―――『親愛なる飼い主』。
「お前が守った世界だ。そしてこれからも守られていく。オレが守る。そこで自分の成果をゆっくり堪能するんだな」
足元に座っていたセントバーナードが高々と遠吠えをした。
声は氷の空に広々と響き渡った。
風に乗って、聞き覚えのある笑い声が聞こえた。
―――それは多分気のせいだと、かつて犬と呼ばれた彼は知っていた。