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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

最期に1つ、願うのならば

作者: 魅社和真

 東雲しののめ夕里ゆり

 それが、今この太平洋のど真ん中で沈む体を必死に浮かせようと暴れている私の名だ。


 私には燈夜とうやという名前の、2歳下の弟のような可愛いお隣さんが居る。その子も今年でもう16になった。



「夕里姉ぇ!! 本橋もとはし!!」



 船の上から身を乗り出して私と……もう1人、私と同じく海に落ちた子の名を、彼は呼んだ。



「助けてっ!! わ、私……泳げ……っ!!」



 水面を手で激しく叩いて叫ぶ彼女……本橋さん。

 その声は、私と同じく彼女も泳げないという事を切に語っていた。



「っと、燈……!……っ…………たっ、す……!!」



 震える喉で私も同じく助けを叫んだ。


 自身を浮かせる事に必死で、上手く言葉にはならなかったが……私は叫べる限り、彼に向けて助けを請うた。


 しかし私の声は、高すぎる波にのまれて少しも彼には届かない。

 彼は私の言葉に顔を向ける事も無く、何かを思案するように顔を俯かせていた。


 それに気づき、叫ぶ事が体力的にも限界だった私は水がこれ以上口に入らないようにと叫ぶのを止め、必死に足を動かした。



……今日は、燈夜に誘われて海にやって来たのだ。そこで今私と反対方向で溺れている彼女……本橋さんとも初めて会った。



 こんな事なら断るんだった、と燈夜の頼みだからと引き受けた過去の自分を呪う。……でも、誰が自分が今日溺れるなどと気づくだろうか?


 そうやって過去を悔いている間にも、私の体は衣服の重みでさらに沈んでゆく。それに私は声にならない悲鳴を上げた。


 燈夜はやはり私の声は聞こえなかったのか……私よりも声が高い本橋さんの声に頷いて、私の方をチラリと見てから後ろに声をかけた。



――それを見た瞬間、私は絶望に似た嫌な予感がした。



 それと同時に、どうしてか……いつそんな会話をしたかも思い出せない程昔の会話を……唐突に、思い出した。



『夕里姉ぇはさ、人助けとかするタイプだよな。俺もそういう人間になりたいんだ』


『もしさ、人が溺れてたりしたら絶対助けるんだ。死んだって助ける。……それって夕里姉ぇみたいだよな?』


『やめなさい。燈夜が溺れたらどうするの? 溺れるのも1人とも限らないでしょ』


『うーん……そうなったら、やっぱ泳げない方から助けるよ。泳げる方には少しだけ頑張ってもらって――――……』





「――夕里姉ぇに緊急用の浮き輪を投げろ!……夕里姉ぇ! ちょっとだけ頑張って!! 後で絶対助けるから!!」



……待って。待ってよ……燈夜。



 違うの。と、伸ばした愚かな手は高い波にのまれて沈む。

 その間に燈夜は本橋さんの方を向いて海に飛び込んだ。


 代わりに私には燈夜の友達から浮き輪が投げ渡された。……しかしそれは、私が掴むには遠すぎる場所に、悲し気に漂っている。



「待って……!! 届か……っ! ゴボッ!! ッゲホッ……や、やだ……!! 燈……」



 涙も声も、海に溶けて消える。


 何もしていないのに沈んでゆく恐怖に、強張った体はさらに沈む。


 恐怖の中、懺悔だけが何度も私の中で木霊する。

 愚かな私の、バカみたいな見栄を……何度も蔑み、後悔した。



――燈夜。ごめんね、嘘なの。私……本当は泳げないの。



『私はお姉さんだから出来ない事なんて無いのよ、燈夜』



 自分に羨望の眼差しを向ける燈夜に、私は自信満々に嘘を語った。


 その時の私が、今私を殺そうとしているという事を……当時の私は知る由もないだろう。


 本当は、泳げないだけじゃないの。勉強も苦手だったし、運動だって出来ない。何も出来ない人間なの。



 小さい頃……隣に燈夜が引っ越して来た時、兄弟の居なかった私は嬉しくて見栄を張った。お姉ちゃんぶりたかったのだ。


 燈夜に話した私は、何でも出来るし、優しい人だった。


 そんな嘘を信じて、幼い燈夜は何でも出来る私に憧れてくれた。……だから、それを現実にしようと頑張った。


 だけど、苦手な事はやっぱり頑張っても苦手で……泳ぐのも、せいぜい1分浮いてられるのが限度だった。


 勿論、燈夜はそれを知らない。私のバカみたいな見栄を未だに信じている。


……後悔するのも、謝るのも……助けを乞うのも、全てが遅すぎた。



「やっ……だっ……!! 怖……と、うっ…………ごめ……」



 ごめんなさい。嘘を吐いてごめんなさい。



 ごめんなさい。優しいあなたに残酷な二択を迫って。



 ごめんなさい。……何も出来ないくせに偉そうにして……ごめんなさい。



 沈みゆく視界で、燈夜を探す。


 彼が本橋さんの元へと去ってゆく、いつの間にか私の背を追い越した大きな後ろ姿を目に焼き付け……私の意識は、体と共に海の底へとゆっくりと沈んでいった――。







 暗い。暗い深海。



 虚ろにそこを見つめていると、不意に闇の中に一筋の光が見えた。……天国だろうか。


 泳げないはずの私の体は、不思議な程軽く地上へと浮上する。……海、じゃない?


 まるで空を掻くような感覚に疑問を感じながらも、私は上を目指す。



……叶うなら、今度は……もし、今度また会えたなら――…………。











「ほら、夕里。ちゃんとご挨拶なさい。お姉ちゃんでしょ?」



 急に背を叩かれて飛び上がる。

 驚き誰かと見上げると……そこには、随分と若くなった……母に似た人が、私を咎めるように見下ろしていた。



「……お母さんそっくり……」



ぱちくり、と目を瞬かせてその人を見つめると、その母に似た人はギョッとしたように目を見開いた。



「何言ってるの夕里! ほ……ほほほ! ご、ごめんなさいね! この子ったら少しボーっとした所があって……」



 おでこを叩かれて呆然とする。……何だかお母さんに似てるけど……背の高い人だ。

……っていうか、私も何だか声が高い。まるで子供のようだ。



――あれ? さっきまで私……海で……。



 まるで何事も無かったかのような日常的な日の光に、訳が分からず空を見上げる。いい天気だ。


……もしかして、溺れたのは夢だった? 本当は海にすら行ってなくて……。



 ボーっと眩しい空を見上げていると、突如優し気な顔の女の人が、私の視界から空を遮った。



「こんにちは夕里ちゃん。お隣に引っ越して来ました、桐生きりゅうです。よろしくね」


「……燈夜の、お母さん?」



 見覚えのある顔にポツリと呟く。その人はまさしく、私のお隣さん……燈夜のお母さんだった。


 お母さんに似た人と同様、何だか若くしたような懐かしい風貌をしている。一体今日は何がどうなっているのだろう?


 完成度が高いな、と思いながらその隣に佇む燈夜のお父さんに似た人も見ていると、急にワンピースの裾が下に引っ張られた。


 私はそれに合わせるように同じく下を向く。



「おねえちゃん、ぼくとーや!! 4さい!!」


「…………燈、夜?」


「あらあらこの子ったら……ごめんね、夕里ちゃん。この子自己紹介が好きで……」



 とーや、とーや、と何度も私に自身を指差し名乗る子供に、私は1歩後ろに下がった。



 唇が慄き震える。……どう、して…………!!


――間違えるはずがない。そっくりなどではない。これは――。



「……初めて、燈夜と……会った頃の……」


「おねえちゃんなんていうのー? ゆり?」



 私の目の前で純粋に瞳を輝かせ、首を傾げる幼児。

……それは、間違いなく私が初めて会った頃の桐生燈夜、その人だった。







「ゆりあそぼー!!」


「こら燈夜! 夕里お姉ちゃんでしょ!」



 私が何故か6歳の頃に戻っていると発覚してから3日。学校から帰って玄関を開けようとしていると、燈夜が私と遊ぼうと隣の家から飛び出して来た。


 この光景にはうっすらと見覚えがあった。私は懐かしく思いながら幼い燈夜に笑いかける。



「ごめんね燈夜。お勉強しないといけないから……」


「えーつまんないー!! ぼくとあそぼーよー」



 頬を膨らませる燈夜は、最後に見た燈夜と何も変わらない。

 その事実に何故か鼻の奥が溺れた時のようにツンと沁みた。



「夕里ちゃんは頑張り屋さんねー。燈夜も夕里ちゃんみたいに小学校行ったらお勉強頑張ろうね」


「ゆりはべんきょーとくいなの?」



純粋な瞳が私を仰ぎ見た。問うような視線に私はたじろぎ慌てて視線を逸らす。



『夕里お姉ちゃんは勉強が得意なの。だからもっと頑張るのよ』



 見栄を張って嘘を吐いた過去の自分を思い出す。


 燈夜のこの綺麗な目に……眩しいものとして映りたいと思った頃を、恥のように思う。


 バカみたいだ。その結果、何も出来ない事もバレて死ぬなんて……なんて、恥ずかしいのだろう。



「……苦手なの。だから……頑張ってるの」



だから、もう嘘は止めた。


どう足掻いても苦手なのだ。今だって、溺れた記憶はあるのに……それが夢であったかのように、勉強がまるで出来ない。

 高校時代なんて無かったのかと思う程、今の小学1年生のテストですら苦戦している。


 恥ずかしいかぎりだ。これで昔の私は逆によく見栄を張れたな、と感動すらする。


 私の苦笑いに、燈夜はキョトンと首を傾げた。


……これで良かったはずなのに……どうして昔の私は変な見栄を張ったのだろうか。今となっては、とても愚かだと思う。



「にがてなの?……じゃーとーやがおしえてあげる!! おへやいこ!!」



 そう言って、燈夜の小さな手が私の手を掴んだ。


……温かい。優しい……小さな温もりが、私を自分の家へと引っ張る。



『夕里姉ぇ、ここ教えてくれない? 俺全然分からなくて……』



 もう二度と戻らない……いつか来るかも知れない彼の姿が……不意に重なる。


 言葉は真逆なそれは、この小さな彼がいつかはあの時の彼になる事を確かに暗示していた。

……私は、それに泣きそうになる顔を必死に押し留めて……笑顔で、頷いた。







「夕里ちゃん。迎えに来たよ」



 朝、玄関のドアを開けるといつものように燈夜が立っていた。

 燈夜は私の手を掴んで優しく引っ張る。



「燈夜、迎えに来なくても大丈夫だよ。クラスの子からまたバカにされるよ?」



 先日、いつも通り私と登校していた燈夜はクラスの男子と激しい喧嘩を繰り広げたらしい。

 原因は言わずもがな……私だ。


 燈夜は入学式からずっと私と登下校をしている。それを幼稚園児のようだとからかわれたのだ。思春期ならば当たり前の指摘だろう。



「別に良いよ。それより俺は夕里ちゃんの方が心配だし!……夕里ちゃん、知ってる道でもたまに迷子になるんだから」


「……み、道とか聞かれなかったら……間違えない、よ……」



 ため息まじりに咎められ、小さな声で反論する。……最近は燈夜によくため息を吐かれるようになった。悲しい事だ。


 前と違って、私は燈夜に嘘を吐かなくなった。……もう、吐けない。


 それによって燈夜は年上の癖に、と幻滅するかと思ったけれど……ありがたい事に、特にそれを気にするような事は無かった。


 しいて言えば……昔は「教えて」と無邪気に慕ってくれていたのが、「夕里ちゃんは危ない」と全てにおいて非常に心配されるようになってしまったのは、何だか居たたまれない。


 夕里姉ぇ、という呼び方も……何だか格下げされたのか夕里ちゃんになっている。


 能力的に見ても私は燈夜に負けているので、もうお姉ちゃんだとは思われておらず……どうやら妹のように思われているようだ。



「……道聞いて来る奴なんて放っとけばいいよ。夕里ちゃんが気にする事じゃない」



 驚く程ドライな言い方をする燈夜に軽く目を瞠る。前の時は困っている人を助けると語っていた燈夜が……一体どうしたのだろうか?



「えっ、でも燈夜は溺れてる人とか居たらどうするの? 助けないの?」


「俺は助ける。……けど、夕里ちゃんはやめて」



 一瞬だけ責めるように睨まれ理解する。

……そうか、燈夜は私が助けるのは危ないから止めろと言っているのか。


 前の時は随分と見栄を張った。泳げもしない癖に溺れている人を助けるだの、火事の時は全身に水を被ってから炎の中に飛び込むだの言ったものだ。


 しかしそれは私が出来るならばしたいと思っていた事だ。……悲しいかな、そんな超人のような事は凡人以下の私では無理だった。


 己の能力の低さに苦笑いすると、燈夜は自分の言葉が私を傷つけたのだと思い私に謝った。


 その頭を下げてもあまり目線が下がらなくなった燈夜の背の高さに、あの時が近い事を悟り体が少し震えた。



「ごめん……でも、俺……夕里ちゃんが中学に行ったら暫く一緒に登校出来ないし……」


「分かってる。だから気をつけろって事だよね? いつも心配してくれてありがとうね、燈夜」



 もうすぐ私は中学生になる。2歳離れた燈夜とは、暫しのお別れだ。

……と、言っても学校では、だが。


 元気出して、と燈夜の頭を撫でると払い落された。年頃の子の扱いは難しい。


 慣れた足取りで燈夜と横に並んで学校を目指す。……前は、確か死ぬ前まで一緒に登校してたと思う。


 理由は変わってしまっているけれど、あの時の燈夜は子犬のように……今の燈夜は保護者のように、こんな私を見捨てずに一緒に居てくれるのだな……と、何だか胸の奥がじんわりと熱を持った気がした。







「東雲……お前は本当に泳げないな……」


「ご、ごめんなさい……」



 体育の先生に呆れられ思わず頭を下げる。


 中学に上がっても私は未だにプールで浮く以上の事は出来なかった。もはや自分でさえため息が出る。



「そんなだと溺れた時、誰も助けてくれなかったら終わりだぞ?」


「…………」



 危機感を持たせようと先生が厳しめに言うけれど、そんな事は私が1番よく分かっている。分かっているのに……泳げないのだ。


 助けてくれなかったら、じゃない。助けてもらえなくて一度死んだのだ。


 それが分かっているから頑張って練習している。お風呂でだって練習した。


 何よりも1番力を入れているのに……なのに……私は、あの頃と何も変わらない。足がつかなくなると一瞬で溺れる。



 とうとう先生も何も言わなくなり、気まずくなって職員室から逃げるように立ち去る。

……今回は、嫌がって体育をズル休みしたりもしていないのに……これはもう、完全に才能が無いとしか言いようがない。


 結局あの時私は死ぬ運命だったんだな……と半ば諦めたような気持ちで帰途につく。


 もう私は14歳だ。……今から4年でバタ足ぐらいは出来るようになるのだろうか?


 無理だろうな。と自己完結し、いそいそと玄関の鍵を取り出していると、後ろから肩を指先で払うように叩かれた。



「夕里ちゃんお帰り……って……髪濡れてるけど……プールだったの?」



 振り返ると、眉間に皴を寄せた燈夜が私の髪を見て苦い表情で私に問うた。



「ただいま。うん、ちょっと残って練習して……」


「……夕里ちゃん、泳げないじゃんか。何でそんなに泳ごうとするの?」



 不満げに曲げられた口に思わず苦笑いが浮かんだ。燈夜は私が泳ぐ練習をするのを酷く嫌がる。


 燈夜に私が泳げないという事を話したのはかなり初期の頃だ。

 あんな事になるのなら早く言っておくべきだったと後悔した私は、プールに行こうと私を誘う燈夜に何の恥も無く「泳げない」と告白した。


 それ以来燈夜は私をプールには誘わないし、水場に近づけようともしなくなった。


……泳げない私を心配してくれているのだろうけれど……やはりそれでも泳げないから、とそれから逃げるのは良くない事だ。



「だって、私泳げるようになりたいの。泳げたら、…………」



 泳げたら、もし燈夜が助けてくれなくても大丈夫だから。



 そう言おうとして、止めた。……それは、私を心配する燈夜にあまりにも失礼な発言だ。


 だけど、私の動機はそれだ。結局、あの時泳げなかった私が何よりも悪い。私が浮き輪まで泳げていれば済んだ話だったのだ。


 しかしそんな誰も知らない話を言う訳にもいかず……長い無言が、閑静な住宅街のアスファルトに立ち尽くした。



「――もう、いいよ」



 低い声に、ギクリと体を揺らす。


 怒っているのかとオロオロと燈夜の顔色を窺い慌てていると、燈夜の黒い夜のような目が一気に私に近づいた。


 下から覗き込むようなそれに驚き、私は咄嗟に口を真一文字に結ぶ。



「泳ぎたいならそれでもいい。でも、俺の前から居なくならないで。俺が守るから…………消えないで」



 悲願するような声と顔に、驚き張りつめていた私の表情はどんどん力を失った。


 消えないで、と言ったその声色に……溺れていた時に見た燈夜の表情を思い出した。


 あの時の燈夜は、泣きそうな恐ろしそうな顔をしていた。きっと、当たり前だけれど、人が死ぬかも知れないという事を現実に突き付けられて怖くなっていたのだと思う。


 その表情と、今の燈夜の表情がどこか似ているような気がした。……そしてふと、思う。


……もし燈夜の言った事が燈夜の本心ならば……あの日の私が死んだ後……燈夜は、どうしたのだろうか?


 目の前の、私の死に怯えて縋るような視線を送る燈夜を見つめる。


 子犬のようだった顔が、今では狼のような鋭さを見せ……あの日が近くなってゆくのを私に知らせている。


 その表情に、次は私が溺れる前、最後に見た船の上での燈夜の笑みを思い出す。

……彼は、あの後も笑ってくれているのだろうか?



「……居なくならないよ。その為に、泳げるように頑張ってるんだから」


「……俺の為?」


「うーん……大まかに言うと、そうかな?」



 自分の為でもあるけれど、燈夜の為だ。もう、燈夜にあんな選択をさせない為に。



 私に憧れて正義感が強く育った燈夜だ。あの時どちらかが死んでも燈夜はずっと後悔しただろう。


 私が少しでも泳げていれば良かったのだ。そうすれば……。



 ギュッ


――と、私が色々と考えている間に、私は気づけば燈夜に抱きつかれていた。



「……? 燈夜? 何してるの?」


「いいよ。夕里ちゃん。夕里ちゃんはそのままで。俺が、頑張るから」



 少年とは思えない大人びた燈夜の声色に、思わずドクンと心臓が跳ねた。


 私の鎖骨の辺りまで背が伸びた燈夜にそれを聞かれるのではないかと考え、少しそのまま後ろに下がる。



「い、いや燈夜? それでも限度があるし……私の為に燈夜が頑張らなくても……」



そこまで年下に迷惑はかけられない、と軽く肩を押すと、燈夜から不機嫌な声が下に向けて放たれた。



「俺がしたいから良いの! 夕里ちゃんが俺の為に泳げるようになろうとしてるのと同じで、俺は夕里ちゃんの為に勉強も運動も頑張ってるんだから!」



 絶対離れない! とでも言うようにお腹に回された腕の圧を強められ、羞恥が募る。

 流石に小学生と中学生とはいえ、男女が道端で抱き合っているのはどうなのだろうか?



……それでも、燈夜がそう言ってくれた事は……嬉しかった。



 前の時も……燈夜は、私に憧れて勉強も運動も頑張っていると言ってくれた。



『夕里姉ぇは凄いよな! 何でも出来て……俺の憧れなんだ。だから、俺も夕里姉ぇみたく人を助けたり出来る優しい人になりたいんだ』



 穏やかな笑みを思い出す。この憧れを壊せないと、当時の私は冷や汗をかいたものだ。


 私と違って燈夜は元々才能の塊みたいな子だった。スポーツをさせても勉強をさせても上位に食い込み、困っている人を助ける優しさも持っている。


 そんな燈夜に幻滅されないように、私も頑張った。燈夜に勉強を教える約束をした日は、前日まで熱が出る程勉強した。



『夕里姉ぇの教え方って上手いよな。俺、夕里姉ぇに教えてもらうの好きだ』



 そう言ってくれるのが嬉しかった。燈夜に必要とされてるみたいで嬉しかった。


 今では逆に教えられる方になってしまったが、それでも今の燈夜も変わらない。


 動機は違えど、私の為にと運動も勉強も頑張り、人助けも進んでする良い子に育った。



 私は自身の目が潤むのを感じた。

 私がどんなに出来ない子でも、燈夜は何も変わらず私を慕ってくれているのだ。それだけで……私は……。



「……ありがとう、燈夜。嬉しい。……いつも、ありがとう」



 燈夜に微笑むと、グシャグシャとかき回すように頭を撫でられた。照れているのだろう。



……守らなければならない。この優しい子を。



 悲しませてはいけない。この愛おしい子を。



 絶対に今度は燈夜の前で死ぬものか、と心に決め……私は小一時間燈夜に頭を犬のように撫で回された。







 バシャバシャと子供が暴れているような水しぶきがプールから上がる。


 そんな私を見かねたクラスメイトが慌てて私を救出した。



「ちょっと東雲さん死んじゃうよ!! もう止めなよー!!」



 クラスの委員長に怒られ小さくなる。バタ足の練習をして怒られるとは……我ながら情けない。


 周りは当たり前のようにタイムアタックを行うそのプールの端で、私は1人ビート板を使って浮く練習をしている。とても恥ずかしい。



「でも……泳げるようにならないと……」


「もう先生もいいって言うよ! ビート板に殺されかけてたじゃん! 死人が出るよ!!」


「ご、ごめん……」



 先程ビート板がひっくり返って死にかけたのを見られていたのか、本気で怒られた。

 流石に私もビート板に裏切られるとは思わなかったのであれは怖かった。


 結局審議の結果、私はプールサイドから足を突っ込んでバタ足の練習をするという、何ともカッコの悪い練習しかさせて貰えない事となった。



「……あと、2年しか……ないのに……」



 ポツリ。と1人零す声に返す人は居ない。キャーキャーと楽し気な声だけが、私の声を掻き消して木霊する。



 もう16になってしまった。あの忌々しい日まで残りあと少しだ。



……と言っても、私が海に行かなければ済む話なので今回は起きないかも知れない。


 しかしそれでも、何があるか分からない。何か対策はしておくべきだろう。



 結局10年かけて頑張った水泳は、最終的に浮き時間を増やす事しか出来なかった。……まぁ、前よりはマシなのだが。


 燈夜はというと、今年は中学の水泳大会に出るらしい。

 どうやらクラスどころか学年トップの成績を燈夜は叩き出したそうだ。


 その理由が2歳年上のお隣さんが泳げないから溺れた時の為に、なんて誰も思わないだろう。


 ありがたいけれど、年上として年下にフォローされるというのは情けない。


 それ故に今年も私は勉強にスポーツにと頑張っているが、結局何も上手くいかない。もはや呪いだ。


 それを考えてため息が零れる。このまま成人してもろくな大人になれない気がする。



……そう言えば、と不意に昨日の燈夜の話を思い出した。



『転校生が来たんだ。何か金持ちの子らしいけど、夕里ちゃんのが美人だった』



 取って付けたような私ヨイショに苦笑いすると、燈夜はそのまま怒って家に帰ってしまった。


 私を美人のように言ってくれるのは燈夜だけなので、確実にお世辞だと思うけれど……あれは知らぬふりでありがとうと言うべきだったのだろうか?


 今となってはどうしようもない会話を思い出し、少し笑って首を振った。今大事なのはそこではない。



「燈夜の中学2年の時の転校生…………あの子、だよね」



 思い出される、私と一緒に溺れたイギリスとのハーフだというお金持ちの女の子。



 確か私は前、この子のクルーズから落ちて溺れたのだ。そう考えると少し産毛が逆立つような感覚がした。


 あの子が確か私に会ってみたいと言い出したと燈夜が言っていた。それで私はあの日、クルーズに乗る事になったのだ。



『燈夜君から聞いてます。何でも出来るお姉さんみたいな人だって! 私も夕里お姉ちゃんって呼んでもいいですか?』



 可愛い子だった。チョコレートのような髪色で、瞳が青い人形のような子だった。


 燈夜と並ぶとお姫様と騎士のような羨ましい限りの並びになっていたのを今でも覚えている。


……だから、そんな儚いお姫様のような彼女の方を助けるのも……当然だろうと、思った。


 泳げる云々の話ではなく、普通に私を助けたいと思わせる程のものが私には無かったのだろうと思うと、悲しくはなかった。


 そう思うのに……どうしてかその時の事を思い出すと、じわじわと何かが胸に広がるような感覚に襲われた。


 私はそれを今日も知らないフリをして……それをごまかそうとビート板片手にプールに飛び込んで、先生に怒られるのであった。







「東雲って何で泳げないのにそんな泳ごうとすんの?」



 帰り道に不思議そうにしながら私に話しかけて来たクラスメイトに苦笑いを返す。はたから見れば私の行動は狂気そのものだろう。



「泳げないと死んじゃうかも知れないじゃない。だから泳げるようにならないと」


「へー、頑張り屋だよな東雲って。そうそう溺れる事も無いだろ」


「分からないよ? クルーズから落ちて溺れるかも」


「何でそんな具体的なんだよ! 東雲って意味分かんねーな」



 隣で笑う男子につられて私も笑う。確かに意味が分からない。何故クルーズオンリーなのかという話だ。


 私の隣を歩く彼を見ていると、高校生になった燈夜と初めて帰り道を一緒に歩いた時の事を思い出す。


 あの時の燈夜は、私の背を軽々と追い抜いてぐんぐんと大きくなっていた。

 今の私と同じぐらいの背になった燈夜と比べてしまうと……もう、子供扱い出来ないのかと少し寂しくなる。


 勉強も、私にわざわざ教える為に家に来てくれる。この間は確か轢かれかけていた子供を助けたと聞いた。



 段々と置いて行かれるような気がして怖くなる。

 燈夜は、前に居なくならないでと私に言っていたが……逆に、私の方が本当は燈夜に居なくならないで欲しい。



「……何でそんな見てんの? 東雲……」


「っ!……あっ、ご、ごめん……ちょっと思い出してて……」



 急に目が合った彼から慌てて視線を逸らす。良く知らないクラスメイトから見つめられたらそれは引くだろう。



「じゃ、じゃあ私こっちだから……」



 何だか気まずくなり、彼と距離を取って別れを告げる。私と変な噂が立っても彼も迷惑だろう。


 しかし、私の予想に反し……どうしてか彼は、手を振る私に背を向けようとはしなかった。



「……? えっと……どうかした?」


「……東雲……ってさ……」



 もの言いたげに彼は私を一心に見つめた。その視線にたじろぐ。



――どこかで見た事がある視線な気がする。同じ視線を……見た、気がする。



 どこだっただろうかと思考を巡らせている間にも、彼はその視線を私から外さない。



「え、あの……ど、どうし「夕里ちゃん」



 とりあえず私が何かしてしまったのかと声をかけようとすると、後ろから肩を掴まれそのまま引っ張られた。


 態勢を崩した私はそのまま温かくて硬い何かに包まれるように背をぶつけた。



「――燈夜?」


「何してるの? 誰この人」



 よく知った声に呼びかけると、燈夜は唸るようにクラスメイトを指差した。


 どうやら珍しく下校時間が被ったようだ。



「えっとクラスメイトで……」


「東雲の弟? そういえば何か似てるな、雰囲気とかも」


「っ……! 弟じゃない!! 俺は……っ、弟じゃない!!」



 クラスメイトの指摘に、燈夜は突然大声を上げた。

 その事に私もクラスメイトも驚いて黙り込む。



 彼の言うように、私と燈夜はよく似ている。

 どっちも日本人だから髪色や肌の色は当たり前として、丸みのある目や、燈夜の気だるげな雰囲気が私の陰気臭い雰囲気に似ているというのは、何度か周りにも言われた。


 長く一緒に居ると顔つきも似るのだろうかと気にしてはいなかったが……どうやら燈夜は私と似ているのが嫌だったようだ。



「俺は桐生燈夜だ! 年下、だけど……弟じゃ……っ……!!」


「どうしたの? 燈夜……あ、あの、ごめんね……」


「え、あぁいや別に良いけど……あの、じゃあそいつって……」



 そいつ、と言って燈夜を指差すクラスメイト。私は未だに何か言いたげな燈夜の頭を宥めるように撫でた。



「隣に昔から住んでる……幼馴染みたいな? すごくお世話になってるの」


「えっ? 東雲が世話になってんの? ははっ! 確かに東雲は世話される側だわ!」



 お腹を抱えて笑い、悪かったな。と彼は燈夜の頭を撫でて叩き落とされていた。どうやら相当嫌われたようだ。


 それに嫌な顔もせず、彼はそのまま「東雲すぐ溺れるからちゃんと見とけよ」と笑い、背を向けて私達と別方向へと帰って行った。



「……俺は、弟じゃ……ない」


「分かってるよ、燈夜。燈夜はかっこいい男の子だよ」



 こんなにもコンプレックスに思っているのかと胸が痛くなる。

もうすぐ背も高くなるとはいえ、今は耐えがたいのだろう。こんな能無しの弟に見られるというのは。



「思ってない。夕里ちゃんは泳ぐ事しか考えてない」


「それ酷いよ。私だってもっと色々考えてるよ」



 あまりな言い草に怒ると燈夜は吹き出した。揶揄われていたようだ。


 こうやってすぐに私で遊ぶあたり、年下という気はあまりしていない。

 そもそも中学生が高校生に勉強を教えている時点で私の方が明らかに年下だ。



 燈夜はひとしきり笑うと、怒る私を目を細めて見た。

……何だか同じような育ち方をしているのに燈夜だけ色気があるような気がする。……悔しい。



「ね、夕里ちゃん。明日は俺と帰ろう? 俺もまた夕里ちゃんと帰りたい」


「燈夜と帰るのは時間とかの関係で大変だから……高校生になったらね」


「……やっぱり2歳ってデカい」



 拗ねる燈夜にクスクスと笑う。


 その横顔はいつもよく見ているはずなのに……どうしてかこの日は、その顔に泣きたくて仕方がなかった。







 とある高校2年の夏の朝。私の頭の中を蝉しぐれも弾く程の警鐘が激しく鳴り響く。


 私はガタガタと足を震わせながら、目の前のお人形のような可愛らしい少女を見つめた。



「初めまして夕里さん。燈夜君と仲良くさせて頂いてます、本橋クレアです」



 にっこりと青い瞳が弧を描いた。


 私はそれに暫し固まり、燈夜に肩を叩かれて慌てて頭を下げる。



「あっああ、初めまして……! 東雲夕里です。燈夜の、お隣さんで……」


「ふふ……知ってます! 私、何度も夕里さんの事……燈夜君から聞いてますから!」


「ちょ、本橋! 夕里ちゃんに変な事言うなよ!!」



 本橋さんから私を隠すように立つ燈夜。何か私に聞かれたら嫌な事があるようだ。



 朝、玄関を開けると燈夜が本橋さんとうちの玄関に立っていた。


 私は驚きすぎて玄関のドアに背を引っ付け2人を飛び出た目で見つめた。心臓が止まってまた死ぬのかと思った。


 どうやら本橋さんが私に会いたがり、燈夜がそれを聞き入れて今日やって来たらしい。

……燈夜、私への許可は無いの?


 若干蔑ろにされているようで不満はあるが、今で少し安心した。これがいきなりクルーズの上でだったら、もう死の運命からは逃れられないのでは、と思っていた所だ。


 私は人知れず安堵の息を吐く。

 予定よりも1年早いが、これで海の上での自己紹介は起きなさそうだ。



「あ、あの、ですね……それで……わ、私も夕里ちゃんって、呼んでも良いですかっ?」


「ゆ、夕里ちゃん?」



 思わず目を瞬かせる。燈夜に続いて本橋さんまで私を年下認定してしまったのだろうか? 泣ける。



 結局本橋さんのキラキラした目に耐え切れず、東雲先輩で良いだろ。と止めに入る燈夜を宥め、夕里ちゃん呼びを許可した。


 すると本橋さんはお人形のような白い頬をほんのりと色付かせ、命が吹き込まれた瞬間のように顔が眩しく輝いた。



「やったぁ嬉しい! 夕里ちゃんとお友達になれました!!」


「馴れ馴れしいぞ本橋。……じゃ、朝からゴメン夕里ちゃん。……行って、来ます」


「いいよ、燈夜。本橋さんも燈夜も気をつけて。行ってらっしゃい」


「行って来ます夕里ちゃん!!……やりました燈夜君っ! 夕里ちゃんに行ってらっしゃいしてもらいましたー!!」



 私にブンブンと手を振って、本橋さんは燈夜と楽しそうに横に並んで、私に背を向けて去っていった。



「……可愛い、子……だったな」



 ポツリと、言葉が落ちる。



 相変わらず、可愛い子だった。羨ましくなる程に。



 1人歩く通学路。その私の横に、誰も並ばない。


 それは燈夜が高校生になれば解消される問題だ。高校生になれば、また――……



「……いや、無理かも」



 呟きと共に、足が諦めるように止まる。



 そんな日は来ないかも知れない。

 今日の燈夜を見て……あの日、本橋さんを助けた燈夜を思い出して、そんな風に思った。



……泳げるように、ならないと。



 波が胸までつかるような寒気のする感覚に襲われながらも、私は胸のそれを忘れるように頭を振って再び歩き出した。







――そして、本橋さんと出会って1年後……その日は、私が3年生になる前に訪れた。



「夕里ちゃんこっちです!!」


「待って本橋さんっ!! わ、私泳げなくて……!」


「大丈夫ですよっ、クルーズですから! 泳ぎません!」



 寒さに手を擦る学校からの帰り道、急に黒い服を着た男に囲まれたかと思うと、その間から本橋さんが現れた。


 それにホッとしたのも束の間。本橋さんは突然「遊びに行きましょう!」とにっこり笑ったかと思うと、私を車に放り込んだ。


 そして運ばれてきた先は……なんとあの忌々しい記憶の残る、本橋さんのプライベートビーチだった。


 そしてそこに違和感満載で停留する、本橋さんのクルーズ。嫌な予感が背筋を伝い、私は背を向けて逃走した!



……が、やはり本物のボディガード。私は黒い服を着た本橋さん専属のボディガードにすぐに捕まってしまった。



……そしてあのやり取りに戻る、という訳である。



「待って本橋さんっ! 死んじゃうっ!! 海に落ちてっ、っし……」


「死にませんっ! 今日は夕日が綺麗に見えるはずなんですっ! ロマンティックなんです!! 今日しかないんです!!」



 何やら景色の話をする本橋さんとは全くもって話がかみ合わない。

 そりゃ飛行機に乗って墜落するー! 死ぬー! とか言ってる迷惑な客と大差はないのかも知れないけど!!


 でも本当に死んでしまう。……いや、落ちなかったら良いだけなんだけど!!

 私一度それで落ちてるし警戒するよ!!


 しかし私のそんな気持ちも知らず、ボディガードと共同で私をクルーズに押しやると、本橋さんはそのままクルーズを出港させた。



「やだっ!! 落ちる!! った、助けて……とう……」


「――夕里ちゃん……!!……本橋ッッ!! 本当に連れて来たのかっ!?」



正気を失って壁に張り付き喚いていると、デッキから誰かが降りて来た。


それにさえ怯えて近くの本橋さんに抱きつき叫ぶ。……しかし、その声はよく聞けば聞き馴染みがあり過ぎる声だった事に気づき顔を上げる。



「…………燈夜……な、なんで……」


「夕里ちゃんこそ何で本橋について……っっ!!……それより本橋! 何で夕里ちゃん連れて来た!?  夕里ちゃんは泳げないんだぞっ!!」



 あまりに前回と同じメンバーが揃い過ぎている事に、燈夜の登場で逆に眩暈がした。……これでは、あの時と一緒だ。



 私の代わりに本橋さんに怒ってくれている燈夜を諦めたような目で見る。私は、まだ犬かき程度しか出来ない。


 前に比べればそれでも進歩だが、浮いてられる秒数が長くなっただけに過ぎない。

 海に放り出されてしまえば、私は呆気なくまた沈む。そのレベルだ。


……しかし、だからと言ってまだ生きるのを諦める気は無い。何もせずに……また、燈夜の前で死ぬ訳にはいかない。



「夕里ちゃん。大丈夫。俺が、守るから。絶対、夕里ちゃんだけは……たとえ、このクルーズが波に呑まれても絶対、夕里ちゃんだけは助けるから……!!」



 震える私を宥めるように、燈夜が優しく背を擦り言った。


 その優しい手に、私は次第に落ち着きを取り戻していく。



「……ありがとう、燈夜。……うん。ちょっと過剰になってただけだから……心配しなくても、大丈夫」



 私以上に死にそうな顔色をしている燈夜に、安心させるように笑いかける。

 年下である燈夜にこんな心配をさせるなんて……最低だ。


 私は、私に抱きつかれて申し訳なさそうにしている本橋さんにも安心させるように笑いかけた。

 年上なのだからしっかりしなくては……。



「本橋さんも……せっかく綺麗な景色を見せようとしてくれただけなのに……ごめんね。誘ってくれて、ありがとう」


「拉致されたんだよ、夕里ちゃんは。本橋にお礼言う事無いよ」



 睨むようにそう言う燈夜を咎める。どうやら先に燈夜と一緒にクルーズに乗り込んでいた友人から、本橋さんが私を攫ってくる事を聞いたらしい。



「ごめんなさい、夕里ちゃん……でも、私…………」



 小さな声でボソボソと呟く本橋さん。彼女にも何か理由があるようだ。


 分からないけれど、もう私はクルーズの中心から動かない事にしよう。


 あの時は確か……本橋さんに、イルカが居ると呼ばれて見に行ったが故に起きた事件だ。

 イルカだ。イルカに釣られないようにしなければ。


 そう心に決め、じっと空だけを見つめる。夕日だけ見て帰るのだ。





「夕里ちゃんっ! イルカです! イルカが居ます!! 可愛いですっ!!」


「後で写真見せてね。私はここから動かない」



 必死にイルカを指差す本橋さん。だがそれに釣られたら終わりだ。


 私はその声に石のように動かず、ただただ夕日に徐々に染まり行く空を眺めた。


 それでも本橋さんは、イルカの可愛さを私と分かち合いたかったのか「でも……」と残念そうに肩を落として私の方に行こうかと迷っている。



「本橋さんも危ないよ。もう少し遠くで見よう」


「! はいっ! じゃあ離れるので夕里ちゃんも一緒に見ましょう!」



 前回、本橋さんもクルーズから落ちた事を思い出し、手招きして本橋さんを呼ぶ。


 すると、本橋さんは意外とあっさり嬉しそうに笑って私の許へと走り寄った。


 まるで妹が出来たようだ、と嬉しく思いながらも本橋さんが海に落ちなさそうな事に安堵する。

 こんな2月上旬の冬の海に落下してしまえば流石にただでは済まない。



「もうここから動きませんからね! 夕里ちゃんの隣に居ます!!」



 絶対に動かない宣言を私に真面目な顔で語る本橋さん。誘ってくれて悪いけれど、今日は本当に夕日を見て無事に帰る事だけに集中して欲しい。



「夕里ちゃん! だったら俺が写真撮ってくるよ! ちょっと待ってて」



 私を守るように立っていた燈夜が、本橋さんと入れ替わりで意気揚々とスマホを持ってイルカが見える海の近くに向かう。


 私はそれに若干の焦りを覚え本橋さんをそのままにして、海に近づきすぎない程度に燈夜の後を追った。



「燈夜! 危ないからいいよ!」


「平気だって! 俺は夕里ちゃんと違って泳げ――」



 その瞬間、クルーズが突然大きくぐらりと揺れた。



「燈夜っっ!!!」



 私を見つめたままゆっくりと後ろの海へと吸い込まれていきそうになる燈夜に、私は大声を上げて駆けた。



 落ちていく光景が、私の時と重なる。背筋が氷を当てられたかのように急激に冷えた。



 私は海を怖がりもせずに、クルーズから飛び出しそうになっている燈夜に手を



「――来んな!! 夕里姉ぇっ!!!」



 必死の形相で叫ぶ燈夜に……一瞬、手が強張った。


 しかし、それでも私は燈夜の手を掴み……そして――……。



「――っ……!! 夕里ちゃんっっ!!!」



 私は、入れ替わりで燈夜の代わりに……海の上を舞った。


 クルーズに足を付けた燈夜が、弾けるように私を振り返る。



――何で助けた? そう聞かれてしまえば、燈夜が落ちそうだったからだとしか言えない。


 体が勝手に動いてしまった。燈夜が落ちるのも、嫌だと思った。



 もし、打ちどころが悪くて死んでしまったら? 海の水が冷たすぎて心停止を起こしたら?



 そんな事、確率的には低い。……それでも、私は自分よりも、燈夜を死なせたくないと思った。



 自分が死ぬかも知れないのに燈夜には当然のように伸びた私の腕。

 その感情を、人は何と名づけるのだろうか?



 見開かれた目に、得も言えぬ懐かしさを覚える。


 もう中学3年になってしまった燈夜は、これからもっと高くなって私を優に超えていくのだろう。



……また、私は死ぬのだろうか? 燈夜の、目の前で。



 燈夜の目に映る自身の姿を見てそう思う。今度は、次は無いのかも知れない。


 それでも……やっぱり、燈夜が落ちなくて良かったと思った。



 やっと、あの時私に憧れてくれた燈夜に……最期にお姉さんらしい事が出来て、嬉しいとさえ思えた。


 本橋さんの叫び声が聞こえる。彼女も、落ちなくて本当に良かった。



 ビート板は無いけれど、これでも少しは浮けるようになったのだから少しは生きる可能性が上がっているだろうか、と考えた所で…………手首が、何か物凄い力で締め付けられた。





「いっ……!……と……燈、夜?」


「夕里ちゃんそのまま俺の腕掴んでッッ!!」



 落下するギリギリで、燈夜が私を掴んだ。


 必死の形相の燈夜とは対照的に、間抜けな顔でポカンと燈夜を下から見つめる。



「絶対離さない!! 落とさないっ!! 落ちるなら……っ、俺も……!!」



 涙が燈夜の顔から落ちてくる。それは、私の頬を伝い、まるで私が泣いているかのような錯覚を思わせる。


 慌てて燈夜と一緒にクルーズに乗っていた男子数人と、本橋さんのボディガードが加勢に加わる。

 本橋さんはボディガードに止められ来れないようだが、泣き声だけが耳に入って来た。



「燈夜……あ、危ないからもう……」



 他の人も手伝ってくれてるし、安全な所に……と、燈夜を遠ざけようとすると、燈夜は眉間に皴を寄せた恐ろしい形相で私を視線で射貫いた。その恐ろしさに声にならない悲鳴を上げる。



「煩いっ!! いつまでも子供扱いして……! 俺がっ、守りたいの!! 好きなんだよッッ夕里ちゃんがずっと!!」


「…………え……?」



 いきなりの発言に私の顔から表情が抜ける。


 その間にも燈夜達は私を引き上げ、ついに私はデッキへと倒れ込むように乗船した。


 そして床に体がついて数秒も経たないうちに、燈夜に掻き抱くように激しく体を抱き寄せられた。



「はぁ、はぁ……! よ、良かった……! 良かった夕里ちゃん……!!」


「と、燈夜……」



 今まで聞いた事の無いような不安定な声に、目から涙が滲んだ。


 そんな私達に気を遣ってか、本橋さん達は私に見えるように口の近くで人差し指を立てると、笑ってクルーズの中へと引っ込んでいった。


 その光景を呆然と見送っていると、不意に私の影がスッと長く伸びた。



「……夕日……」



 水平線に沈む太陽に、ため息のような息が零れる。


 その私の一言に、燈夜は反応するかのように顔を夕日に向けた。



……死ななかった。海に、落ちなかった。



 疲労のような脱力感が私を襲う。

 いつの間にか上がっていた肩が、段々と理解するごとに沈んでいくのを感じた。



 良かった。燈夜にも、嫌な選択をさせないで済んだ。



……燈夜も、死ななくて、良かった。



「――夕里ちゃん」



 夕日を眺めていた燈夜が、急に私に顔を向けた。


 そしてそのまま、私の首を擦るように触れる。



「……生きてる」


「うん。生きてるよ、燈夜のおかげで」



 ありがとう、と言うと燈夜はくしゃりと幼子のように顔を顰めまた泣いた。


 そして座り込む私の肩に目を押し当て唸りだす。



……燈夜も、生きてる。良かった。本当に……良かった。



 生きててくれてありがとう。と燈夜の頭を撫でていると、燈夜は急に顔を上げた。


 それに驚いて手を離すと、燈夜はその私の手を両手で掴んで穏やかな表情で微笑んだ。



「好きだよ、夕里ちゃん」



 泣き腫らした赤い目で、燈夜はそう言い、また笑った。



「小さい頃からずっと好きだった。だから、俺夕里ちゃんを守れるように頑張ったんだよ、夕里ちゃん」



 褒めてよ、と燈夜は私に甘えるようにすり寄る。



 好き。……その言葉を考えると、私の心音は激しさを増した。



――燈夜が、私を好き。……私、何も出来ないのに? 良い所なんて、無いのに?



「私、良い所なんて無いよ? 燈夜に好かれるような、素敵な人じゃない」


「それを言ったら俺だって、年下でガキだから良い所なんて無いよ」


「燈夜はガキなんかじゃないよ。頼りになるかっこいい男の子だし」



 燈夜をそんな風に思った事は一度だって無い。燈夜に好かれる人は何て幸せなんだろうかと思っていた程だ。



……だから、燈夜が離れていく事が、あの海に落ちた日……何よりも怖かった。


 こうやって、いつかは私を置いて素敵な誰かの隣に並ぶのだろうと……怖かった。



 燈夜は私の言葉に笑みを深めた。幸福そうなその顔が、何よりも愛おしく私の中で輝く。



「じゃあ俺にしてよ、夕里ちゃん。俺を……好きに、なって」



 悲願するような泣きそうな声に、私は胸が痛むほどの激情を感じた。



 知っている。本当は、私はこの感情を知っている。


 何年も……何十年も……いや、死ぬ前から、私はこれを知っている。



 燈夜に視線を向けられるのが好きだった。だから、燈夜の憧れでありたかった。



 燈夜に勉強を教えるのが好きだった。だから、苦手な勉強だって頑張れた。


 本橋さんを初めて紹介された時は嫉妬した。お似合いなのが、悔しかった。


 あの時、選ばれなかったのが悲しかった。だから、もう選択肢に上がりたくないと思った。



 それは全て、燈夜で出来ていた。燈夜で構成された、私の後悔だった。



「もう、好きだよ。私、ずっと前から。……燈夜、っ……す、好きなのっ……! い、居なく、ならないで……!!」



 初めて言えたその言葉に、体から重みが消えた。


 何年もため込んだそれは、口に出してしまえばあっという間の出来事だ。



 私から抱きつくように、燈夜の背に腕を回す。


 泣きじゃくるように好きを繰り返す私の背を、燈夜は受け入れてくれるかのように……温かな腕で優しく包んだ。



「居なくならないよ、夕里ちゃん。夕里ちゃんが居る所が、俺の帰る場所だから」



 その優しい声色に、顔を上げる。


見上げた燈夜も、私と同じく顔をくしゃくしゃにしていた。



 夕日に照らされ、海は祝福するかのようにキラキラと幻想的に輝く。


 前回は見れなかったその景色を背景に、私と燈夜はどちからともなく惹かれ合い……長く伸びた影が、1つに重なった――。















 俺の好きな人は、年上のお隣さんだ。


 小さい頃に越して来て出会った2歳年上の女の子。俺は、その人の事を夕里姉ぇと呼ぶ。



 夕里姉ぇは何でも出来た。泳ぐのが得意で、勉強もスポーツも何でも出来るらしい。


 それに人を助ける優しい心を持っている。俺はそれが酷く眩しかった。



 俺は夕里姉ぇの後を追うように、勉強も運動も頑張った。勿論、人助けも。


 そうすると夕里姉ぇに近づけたような気がした。2歳の差なんて無いような気がした。


 2歳という差は、他人が思っているよりも大きい。


 俺がやっとの事で高学年になった頃には、夕里姉ぇは中学に上がる。

 そして俺が中学に上がると、手からすり抜けるように高校に行ってしまう。


 もどかしい気持ちはあれど、それでもいつかは夕里姉ぇの身長も追い越して、大人の男になって夕里姉ぇに好きだと言おうと思っていた。



 勉強を教えてと夕里姉ぇに教えを請いに行くと、しょうがなさそうに笑う顔が好きだ。


 教えてくれる時の真剣な顔も、分かりやすいと言った時のホッとした顔も、全てが好きだった。


 人助けをすると、優しい子だと俺を撫でてくれた。


 それが嬉しいだけで人助けをしていると知られたら、俺は夕里姉ぇに嫌われるかも知れない。



「燈夜君はその夕里姉ぇさんの事が好きなんですか?」



 隣の席になった転校生にそう聞かれ、ため息を吐きながら頷く。……完璧な夕里姉ぇに比べると、俺はまだまだ夕里姉ぇの隣には程遠い。


 この転校生は家族に姉や妹は居らず、兄ばかりに可愛がられたからか、俺が姉のように慕う夕里姉ぇの事が気になって仕方が無いらしい。



「私も会ってみたいです! 夕里姉ぇさん!」


「夕里姉ぇは優しいから会ってくれるだろうけど……本橋は夕里姉ぇって呼ぶな」


「何でですか!! 私もお姉ちゃんが欲しいです!!」



 頬を膨らませる本橋にクラスの男子から恨みがましい視線を受ける。


 俺はそれを鬱陶しく思い……その元凶でもある本橋も、夕里姉ぇに興味を持ち始めた事に妙にむかついた事もあり、騒ぐ本橋を無視してふて寝した。





 それから2年。本橋とは違う高校になったが、本橋からメールや手紙や他人を使って、頻繁に夕里姉ぇに会いたいという内容の要望が何度も送られてきた。


 あまりにしつこいので一度合わせれば静かになるだろうと夕里姉ぇに無理を言って頼んでみた所、案の定夕里姉ぇは会ってくれると言ってくれた。



「燈夜のお友達なんでしょ? じゃあ挨拶しないとね」



 その友達が女の子だと知って嫉妬してくれないのか、と妙な寂しさを覚えた。


 まるで自分には関係の無さそうなその笑顔に、やっぱり俺では夕里姉ぇの対象にはなれないのではと酷く心が荒んだ。



 もっと俺が大人になれば……。夕里姉ぇと並んでも、姉弟だと思われないような大人になれば……いつかは夕里姉ぇも、俺を男として見てくれるだろうか?



 何も知らない背中に、俺の熱っぽい視線だけが突き刺さる。


 いつかは夕里姉ぇが同じ視線を返してくれる事を信じ……俺は何事も無かったかのように夕里姉ぇから視線を外し、本橋に夕里姉ぇから許可が下りた旨をメールで送った。





「良いですか燈夜君っ! クルーズはうちのですからねっ! 頑張って下さいね!!」


「何言ってんだよ本橋……」



 着くなりいきなり俺に駆け寄り、自分のクルーズだという事を自慢げに話す本橋。

 俺はそれに呆れながら、はいはい、と御座なりに返事を返す。


 どうしてか、急にクルーズに夕里姉ぇと一緒に乗りたいと言い出した本橋。


 突如集合場所が知らないクルーズになって夕里姉ぇも困惑気味だ。



「燈夜のクラスメイトの……本橋さん? 可愛い子ね」


「別に? 夕里姉ぇの…………あ、いや何でもない」



 夕里姉ぇの方が可愛い。そう言おうとして止めた。



 夕里姉ぇは俺みたいな奴に言われたって嬉しくはないだろう。俺だって何とも思ってない奴に言われたら気持ちが悪い。


 弟とも思われなくなったら死ぬな、と思い途中で言葉を切る。


 自分の名前が出たからか不思議そうに俺を見る夕里姉ぇを無視して、俺は一緒に来ていたクラスメイトの方へと1人向かった。



「おいー……桐生……俺達が気ぃ遣って男子で仲良く集まってんのに……」



 俺が乱入すると途端にクラスメイト2人からブーイングが上がった。


 俺は意味が分からず発端の男子を睨む。



「何の気だよ。今日は本橋と夕里姉ぇの交流だろ」



 今日はわざわざ本橋が夕里姉ぇと遊ぶ為にクルーズを呼んだのだ。

 それにつられて当時のクラスメイト2人が、本橋目当てで引っ付いてきただけに過ぎない。


 結局乗せてくれはしたものの、本橋は夕里姉ぇに夢中なので男子集まって寂しくババ抜きをしている。

……これのどこが気を遣っているのだろうか?


 じっとりと睨むと2人一斉に立ち上がり、揃って海を眺める夕里姉ぇ達の方を指差した。



「お前とあの2人の交流だろ!? 結局どっち選ぶんだよ桐生!! 畜生っっ! こんな事なら来るんじゃなかった……ちきしょー!!」



 雄叫びが木霊する。

 その声に反応するように、遠くの方でイルカが跳ねた。



「……何で本橋と夕里姉ぇなんだよ……俺は……」


「どうせあの大人なお姉さんだろっ!? 本橋さんも言ってたわ!! ちきしょー……本橋さんにまでお膳立てしてもらいやがって……」


「は?」



 お膳立て……とは、何の事だろうか?



 何を言っているのか分からず、ビービーと喚く男子に首を傾げていると、もう1人が俺を指差して夕里姉ぇ達に聞こえないように怒鳴る。



「知ってるか!? ここ、夕日が綺麗なんだってよ!! だからデートスポットに最適らしいんだってよっ!? くっそー! 俺達ただのエキストラかよー!!」


「……デートスポット……」



 そう聞いて、本橋が念押しして来た意味をやっと理解する。本橋はここで告白しろと言っているのだろう。



……いや、無理だろう。弟としか思われていないのに……それに、こんな人が見てる所でなんて御免だ。



……でも……ここが夕里姉ぇと2人きりの場所だったら、と少し考える。



 夕日の中。夕里姉ぇと2人。


……そんなシチュエーションだったら、夕里姉ぇも……騙されてくれるだろうか?



 俺を好きなような気が、してくれるだろうか?


 俺を……大人の男のような気が、してくれるだろうか?



 考えていると顔が熱を持ち始めた。そんな俺を見て目の前の2人がニヤニヤと下品に笑い始めた。

 俺はそれを眼光鋭く睨む。


……でも、そうだ。確かに、俺は今酷く焦っている。


 俺がやっと高校に上がったというのに、夕里姉ぇはもう18になる。焦らないはずがない。


 これ以上先に行かれると、もう夕里姉ぇに辿り着けないような気がした。



……それなら、今日……この、海の上で…………。



 決意が固まりかける。その俺の真面目な表情を見て、前からケラケラと不愉快な笑い声が二重で響き渡った。



――しかし、その瞬間。まるで地震のような激しい振動が、クルーズを襲った。



「ぉわっ!?……な、何だ? 何かにぶつかったのか?」



 トランプが散らばり、尻餅をつくクラスメイトと一緒に辺りを見渡す。どうやら操縦士の不注意でクルーズが大きく揺れたようだ。



……そして、俺はそれにやっと気付く。



「……!!? ゆっ、夕里姉ぇっ!! 本橋!!」



 先程までデッキにあった2人の姿が無くなっていた。


 俺は血の気が失せるような感覚に襲われながらデッキから海を覗き込んだ。



「夕里姉ぇ!! 本橋!!」



 バシャバシャと水面を叩く影が2つ。正反対の場所で水面を揺らしていた。



「助けてっ!! わ、私……泳げ……っ!!」



 激しい声を上げる本橋に視線がいく。本橋は泳げない。


 水泳の時間で本橋は25メートル泳ぐのですらクロールではなくバタ足だった。


 そんな本橋がクルーズにまで自力で辿りつけるはずがない。



……どうする? 早く考えないと……!!



 誰かが重体……もしくは最悪死ぬのではないかと悪い方にばかり考えてしまい、酷く焦った。


 俺は冷や汗が伝う額を素早く拭き取り眼球を震わせて2人を比べ見た。



 本橋と比べると比較的静かに水に浮く夕里姉ぇを見て心に余裕を取り戻す。

 表情も真顔で心配はなさそうだ。


 それに、こういう時に泳げる夕里姉ぇの方を助けようとすると嫌われそうだ。夕里姉ぇは、人に優しい人が好きだから。


 後ろでそれをあわあわと見守っているクラスメイトを振り返る。


 俺は泳ぐのが得意だから怖くは無いが、この高さは普通に怖いだろう。


 俺は覚悟を決めて彼らに指示を送る為、大きく口を開いた。



「――夕里姉ぇに緊急用の浮き輪を投げろ!……夕里姉ぇ! ちょっとだけ頑張って!! 後で絶対助けるから!!」



 視線を投げた夕里姉が、目を見開いているような気がした。



 しかし俺は愚かにもそれに気づかず、夕里姉ぇに背を向けて本橋の方へと飛び込んだ。



……夏で良かった。冬だとどちらも助からなかったかもしれない。これなら2人とも助かりそうだ。



 そう安堵する胸とは対照的に……どうしてか急に頭が冷えてきた。



 何かを間違えた気がした。


 何か、絶対にしてはいけない間違いをしてしまった気がした。



 それが何かも分からず、何故か焦る心を振り払うように俺は本橋の方へと向かって泳ぎ出す。


 頭上から、夕里姉ぇに向かって浮き輪が投げられる掛け声が聞こえた。

夕里姉ぇなら、浮き輪まで泳ぐ事なんて簡単だろう。



――だから、確認なんて……しなかった。



 当たり前だと信じて疑わない事実が、事実ではなかったと知るのは……この後すぐの事だった。





「本橋! 大丈夫か!?」



 ようやっと本橋の所までたどり着くと、本橋は驚いたように俺を振り返った。



「燈夜君!? ま、まさか泳いで来てくれたんですかっ!?」


「当たり前だろ。本橋泳げな――…………」



 そこで、はたと気づいた。本橋が、誰かに掴まっている事に。


 本橋はそれに申し訳なさそうに笑い、ありがとうと言った。



「……でも、すみません……私には、一応ボディガードが付いてるので……」


「あ……あぁ、そ、そうだよな……」



 忘れていた。本橋はそう言えばボディガードがついていたのだ。


 慌てて混乱していた。確かに本橋は俺に助けてとは一言だって言っていない。



 何だか情けなくなり、俺は恥を隠すように本橋から背を向けた。



「じゃ、じゃあ俺は夕里姉ぇを……」


「!? っゆ、夕里お姉ちゃんも溺れているんですかっ!? 何で私の所になんて来たんですか燈夜君っっ!! 私よりも夕里お姉ちゃんが優先でしょう!?」



 本橋に掴みかかられ唖然とする。本橋はどうやら相当夕里姉ぇに懐いたようだ。



 本橋の奇行に唖然としていると、本橋に突然突き飛ばされた。



「早く行って下さい!! 大事ならっ、夕里お姉ちゃんよりも他人を優先なんて……絶対、しちゃダメです!!」



 そう本橋にお嬢様らしからぬ剣幕で叱責され、慌てて夕里姉ぇの方へと引き返す。



……本橋の言う通りだった。何よりも大切ならば、何よりも守らなければならなかった。



 能力の問題じゃない。心の問題だ。この人は出来るから大丈夫、じゃない。大丈夫でも、守らなければいけなかった。



 水を掻く手が重くなる。

 俺は本橋に言われてやっと自分の過ちに気がついた。



「夕里姉えぇ――――っっ!!」



 引き返した先に遠くで見える未だ空の浮き輪に酷く胸が騒いだ。

……何故……今、それを考えている場合ではない。


 水面は悲しい程に静かだった。まるで……自分以外の人間が、そこに居ないような恐怖に、体の動きが鈍った。



 激しい飛沫を上げながらも、夕里姉ぇの声を聞き逃さないように耳を澄ます。

……それでも、俺の呼ぶ声に夕里姉ぇが返してくれる事は、無かった。



 喉が枯れても尚、俺は大好きな人の名を呼んだ。脳が、それ以上考える事を否定するように、叫ぶ以外の事は考えられなかった。



「夕里ッ……! 姉ぇっ……!! どこに、………………」



……その瞬間……俺は()()から瞬きもせず反射的に目を逸らした。





――…………一瞬、嫌な物が見えた。



 何かが服を着ていた気がする。それが何かは、分からない。

……分からない? 本当に?



 妙に胸が凪いだ。


 まるで、来るべくして来た死のように俺の心臓は穏やかに脈を刻む。



 見るな、という謎の声とは裏腹に顔は何故かそれの方を向いた。


 どうして、俺はあれを見ているのだろうか?



 あれは何かという自問に、俺は何度も分からないを繰り返す。


 しかし、その目は決してその何かからは離さない。



 見た事がある気がする。さっきまで、見ていたものの気がする。



 近づきたくない。怖い、見たくない。知りたくない。



 不自然に浮かぶそれに、俺は水音を立てずに近づく。

……それは、波に流されゆらゆらと物のように漂った。



 どこかから悲鳴が上がる。俺はそれに気をやる事も無く、ただ何かを確認するように……それにゆっくりと触れた。



「…………ゆりねえ?」



 白い顔が、水に流され俺の方を向いた。



 その顔は……いつも優しい笑みで俺を見つめてくれていた人だった。



 小さな柔らかい手で、俺を撫でてくれた人だった。



 人助けが大好きで……泳ぐことが得意だったはずの……俺の、大好きな人だった。



――それに気づいた瞬間、俺は人間が出せるのかと思うような慟哭を……夕里姉ぇだったものを抱きかかえて……誰かに助けられるまで叫び続けた。





「あ……ぁ……?…………ああ、あぁ……!! あ゛あ゛あ゛あ゛ああああああ!!! ゆりっ、ああっ!! 待って、まっ……お、俺が……っ!! だいじょうぶ、大丈夫!! だい…………うあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッッ!! ぁぁああああ!!! 夕里姉ええええぇッッ!!!」



夕日に染まった白い顔は、ついさっきまで俺に微笑んでくれていたものだった。



 赤く染まった海が、まるで血のように彼方まで広がる。


 その中で眠るように目を閉じる君は、その日……俺の前から姿を消した。



――――俺が、殺した。







 いつの間にか、俺は病院に居た。


 顔に白い布を掛けられた彼女の亡骸に、大人が集まりしくしくと啜り泣く声や泣き叫ぶ声が耳に入った。



 泣き叫んでいた夕里姉ぇの両親は、俺を責めなかった。

 泳げないのに海に入ったあの子が悪いと泣いた。


 本当は事故で落ちたのだと分かっているけれど、そう言わないと俺を責めてしまいそうでわざとそんな風に言うのだろう。

……でも、泳げなかったのは本当だったらしい。


 俺はそんな事も知らなかった。夕里姉ぇは見栄を張っていたのだと、後から知った。



 殴って欲しかった。お前のせいだと言って欲しかった。



 その優しさが……夕里姉ぇが死ぬ事は仕方のない事だったようで……胸が掻き毟りたくなるほど、じくじくと激しく痛んだ。



 俺はフラフラと覚束ない足取りで海に向かった。


 砂浜に立つと、そこはまるであの日で時間が止まったかのように夕日で赤く彩られていた。



「…………夕里、姉ぇ……」



 ざぶ、と服のまま海を進む。

 服が水を含んで重いはずなのに……どうしてか、とても軽く感じた。



「夕里姉ぇ、待って。まだ……まだ、俺何も……」



 言えてないよ。俺……夕里姉ぇが好きだって事。



 両目から涙がとめどなく溢れた。


 それさえ海に呑み込まれて、まるで最初から無かったかのように消え失せる。



「置いて行かないで夕里姉ぇ。行くなら、俺も……俺も、連れてって」



 1人にしない。夕里姉ぇを、1人で逝かせない。



 波が、まるで俺を夕里姉ぇの所へと導こうとしているかのように引く。


 夕里姉ぇを奪った海が、俺まで呑み込もうと口を開けた。





『燈夜は賢いね。燈夜に追い越されないように頑張らなくちゃ』



 そう言って俺に勉強を教えてくれた夕里姉ぇは、目の隈を濃くした顔で笑った。



『燈夜は中学のマラソン大会10位以内だったの? 凄いね!……私?……は、まぁまぁ……かな? あんまり調子出なかったみたい』



 顔を曇らせて苦笑いを浮かべていた。俺はそれを体調が悪いのだと思った。



『あっ……えっと、プールは……あんまり行きたくないな……ふ、太っちゃって……』



 俺から目を逸らす夕里姉ぇに、そんな事ないのにと的外れな事を思った。



 走馬灯のように思い出される、真実の数々……それは、俺なら気づけたはずの事実。



「バカ……っ! ゆ、夕里……ゆりねぇ……っ、うそつき……嘘つき……っっ!!」



 肩で切るように歩み続ける。

 この先に君は居ないと知っても、俺の足は止まらなかった。



 どうして嘘を吐いてたの? 夕里姉ぇ。


 俺、夕里姉ぇが何も出来なくても良かったのに。居てくれるだけで、良かったのに。



 どうして信じたのだろう。夕里姉ぇが泳いでる所を見てすらいないのに。



 どうして完璧な人だと思ってしまったのだろう。そんな人、居る訳がないのに。



 過去を悔いても仕方がない。終わった事は、戻らない。



 知っていても、俺はあなたにまた会いたい。もう一度、今度は好きだと伝えたい。


 何て勝手な願いだろうか。


 それでも、俺はあなたの居ない世界なら、もう要らない。


 俺の全てはあなただから。俺は、あなたで出来ているから。



「……戻りたいなぁ……最初から……そしたら今度は…………」



 守るんだ。俺が夕里姉ぇを。もう溺れさせないように。



 そしたら次は夕里姉ぇじゃなくて、夕里ちゃんと呼びたい。

 その方が夕里姉ぇに近く感じるから。



 夕里姉ぇと一緒に見れなかった夕日を見たい。

 そして、ずっと好きだったと伝えたい。



 夢と共に波に呑まれる。


 それにすら俺は抵抗もせず……泳げるはずの俺は海に食われるように沈んだ。



 夕日は沈み、夜の闇が海底を闇に染める。



 俺はその景色をただ見つめながら……消えた光に腕を伸ばした。











「寝ちゃったの? 夕里ちゃん?」



 クルーズから落ちかけた疲労か、俺の胸に落ちてきてそのまま夕里ちゃんはすやすやと穏やかな寝息を立て始めた。


 俺はそんな夕里ちゃんを笑いながら抱きしめる。



……夕里ちゃんに、好きだと言ってもらえた。その事実が今更ながらに俺の胸を暴れさせた。



 何故か、とっさに夕里ちゃんだけは守らないとと思った。


 俺が落ちかけているのに、どうしてか夕里ちゃんが死んでしまうと思った。



 咄嗟に出た夕里姉ぇという言葉。

 言った事の無い言葉のはずなのに……どうしてか前から呼んでいたような気がする。



「……夕里姉ぇ……夕里ちゃん……」



 夕里姉ぇと言うと、激しく胸が痛んだ。気づけば俺の頬を理由の分からぬ涙が伝っていた。


 俺はそれを軽く拭き取り、幼げに眠る夕里ちゃんの頬を優しく撫でる。



「……好きだよ、夕里ちゃん。ずっと……ずっと、好きだよ」



 言っても言い足りないと思ってしまう言葉は、何度も俺の口から零れ出た。


 まるで今までの分が溢れ出るように、俺の口からはそれが終わりなく紡がれる。



 言える事すら奇跡だと、何故か思えた。


 だから、言うたびに何かが許されていくような気がしていた。



 まるで地獄のような闇からやっと抜け出せたような感覚に、俺はさらに強く夕里ちゃんを抱きしめた。



「ん……燈夜……痛い……」


「あっ、ごめん夕里ちゃん……起きちゃった?」



 困ったように眉を顰める夕里ちゃんに、腕の力を弱める。


 少ししか眠れなかったせいか、夕里ちゃんはトロンとした眠たそうな目で空を見つめた。



「夕日……終わっちゃったね」


「うん。星が出て来たよ」



 夕日に夜が混じり、紫になった空を2人で見上げる。


 何度も見たはずのその景色は、まるで夢の続きを見ているかのように俺には奇跡的に思えた。



「……燈夜がね、好きって言ってくれる夢見たよ」



 何度も。と夕里ちゃんは頬を赤らめながら海を見つめる。


「言ったから。夕里ちゃんが好きだって、さっきから何度も」


「……燈夜は、見る目無いよ……勿体ない……」


「それを言うなら夕里ちゃんだって見る目ないよ。こんな年下のヘタレ」


「ヘタレじゃない。かっこいいよ」



 むっとして下から振り向くように俺を睨む夕里ちゃん。

 それが、どれほど嬉しくて俺を幸福にしてくれるか……夕里ちゃんは分かってないのだろう。



 そのまま包むように夕里ちゃんを抱き込むと、夕里ちゃんの匂いがした。俺の大好きな安心する香りだ。



「良かった。なら相思相愛だね、夕里ちゃんと俺は」


「……だね……」



 クスクスと2人で笑い合う。それは、いつかの誰かが望んだ景色。


 それは誰だろうか? 知っているようで、知らない人。


 覚えていないのに、覚えている人。



「夕里ちゃん。結婚しよう」


「それは……燈夜が18になったら……?」


「……やっぱり、2歳って大きい……」



 脹れる俺を、あなたはいつものように優しく撫でた。


 そのいつもの出来事が、当たり前の事では無いという事を俺は知らない。


 それでも、俺はそれがかけがえのない物だと知っている。 

 何よりも大事にしなければならないと心が叫んでいる。



 確かめるように、あなたの唇に口付けを落とす。


 伝わる熱に、あなたが今ここに居る事実を知り歓喜に震える。



 恥ずかしそうに頬を染めるあなた。

 その頬を染める赤が夕日でなかった事に……何故か俺は泣き出す程に安堵した。



「……生きててくれて、ありがとう」


「ふふっ……何、燈夜それ……こっちこそ、助けてくれて……ありがとう」



 彼女しか知らない奇跡の夜に…………星は夜空を瞬いた。


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― 新着の感想 ―
[一言] 例え泳げたとしてもいきなり落とされたらパニックになったりで沈む可能性も高そうだし浮き輪確認しなかったのは失敗だよね 着衣水泳とかマジできつい割に体験したことない人のが多そう
[一言] これは……。 燈夜の方は逆行してきたんじゃなくてその思いだけが戻ってきたのかな? 本橋さんの方は告白のシチュエーションを整えるために強引に夕里を船に乗せたと。 最初の時はそれは仇になった…
[良い点] 更新お疲れ様です。新作、楽しみにしておりました。 時系列や情景の描写がとても上手で、感情が揺さぶれました。特に情景描写は頭の中に淡く溶け込むように広がっていくのが心地よくて…何度も読みたく…
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