悪役令嬢の兄
レオン様との恒例のお茶会も終了し、帰宅した私は現在机に向かっている。
理由は1つ。テンプレ通り、乙女ゲームのシナリオの書き起こしである。人間の記憶には限界があるので、思い出した日に残しておくのは大切なことだ。令嬢のノートを盗み見するなどといった無粋な真似をする人間など屋敷にはいないだろうが、万が一誰かに見られたとしても内容が理解できないよう、前世の言語であるニホンゴで書いている。…のだが。
「ダメだ。全然ストーリーを思い出せない…」
私は机に突っ伏した。
一度死んだ身だろうか。困ったことに、乙女ゲームの内容は大まかなストーリーしか思い出せないのだ。主人公がどこでどのようなイベントを起こすのか、肝心の詳細が全く思い出せないのである。これでは悪役令嬢としての役割を充分に発揮することができない。誤算である。
「…あの、お嬢様?」
声のする方をハッと振り向けば、侍女のアンが紅茶を淹れていた。彼女は侯爵家に長らく仕える使用人の家系で、幼い頃から私によくしてくれている。私のただならぬ気配に声をかけずにはいられなかったのだろう。
「突然お声がけして申し訳ありません。…しかし、一度休憩されてはどうでしょうか?勉強も休息がなくては効率も落ちますよ」
「今どうしてもしなければならないことがあるの。放っておくのも落ち着かないし、休憩はあとでするわ」
「かしこまりました。王宮で勉学に励まれているのに、自宅でもお勉強されるとは、勤勉ですね」
「あぁ、そうね…」
尊敬の眼差しをおくるアンに、私は曖昧に笑うしかない。全く勉強とは関係ないので、罪悪感が凄い。
―そんなに大層なことではないから、そんな目で見ないで
なんて今の私は言えない。「実は前世の記憶が突然甦り、この世界は乙女ゲームであることを思い出した」こんな非現実な話を信じる人などいるのだろうか。
アンとはそれなりに良好な関係を築いていると自負している。しかし、いくらアンといえど仕える主人に言われても、私が乱心したとしか思えないだろう。
「熱心にお勉強しているところ中断して申し訳ないのですが、ただいまエリオット様がいらっしゃっています」
「お兄様が?」
「はい」
現在王都に置かれた我が侯爵家、グレイ家の屋敷には、兄と私が滞在している。王妃教育のある私と違って、兄は社交シーズンではない今は王都にいる必要はないが、私を1人にしておけないとかで、一緒に住んでいる。当初は王宮に寝泊まりし、両親と兄は領地にいる予定だったが、兄の反対で私は宮殿と屋敷を行き来する生活を送っている。
ちなみに両親は子供を放って、揃って領地にいる。領地の仕事もあるから遊んでいるだけでもないだろうが、仲良くシッポリしていることは間違いない。
「何かお嬢様に話したいことがあるとか…」
「そう。それならお通しして」
「エミリー、朝食ぶりだな。息災か?」
私が許可するや否や、扉を開けて入ってきたのは兄のエリオットである。優しげな印象を受けるレオン様とは違って、兄はクールな性格である。ただ1人の例外を除いて。
「お兄様、突然入ってこないでください!驚くではありませんか!」
「俺のエミリーが許可したのなら、入っても良いだろ」
兄は憮然と反論する。一見スラッとした印象を受けるが、騎士の家系である我が家では剣術を幼い頃から修めているため、剣は技巧派とはいえ、それなりに筋肉質である。
「お兄様、聞き捨てならないですね…」
「なんだ?」
「また私とアンの会話を聞いていらしたのですか?」
「人聞きの悪いことを言うな。俺の"耳"は少し特殊だから、どうしても聞こえるんだよ」
私の兄は"耳"の聞こえが異常に良い。剣才がある兄は、剣術をする際に相手の気配や動きを読むために、自然と耳が良くなったらしい。
半径10メートルの範囲内であれば、発生する音が全て拾える。ちなみに半径10メートルは兄の間合いなので、間合いを広げることが出来れば同時に音が拾える範囲は広がるらしい。要するにチートである。
将来王妃になることが決定的されている私は護身術程度にしか剣は知らないので、理屈は理解できても完全に宇宙猫である。
「それでも、乙女の部屋の音を聞き取るなんて紳士としてどうかと思います。少なくとも私は落ち着きません」
いかに家族と言えどプライバシーは守られるべきだ。範囲は限られているとはいえ、話し声や独り言がいつ聞かれるのか分からないという状況は心地よいとは言えないだろう。
「悪かった。エミリーの部屋は出来るだけ聞き取らないようにしてるんだ…」
私と同じアンバーの瞳が申し訳なさそうに揺らぐ。妹大好きな兄は、どうも私に責められたままでは耐えられないようだ。それでも部屋の音がいつ聞かれるか分からないという状況は、私だって良い気はしないのだ。
「お兄様、いつ自分の声が誰かに聞かれるか分からない。想像したら嫌ですよね?」
「それがお前なら気にしないが、それ以外の人間なら良い気がしない」
―私なら良いのか
そんな趣味は私にはないのでスルーをする。我が兄のことながら、ちょっと気持ち悪い。
「今回だけですからね、お兄様」
「エミリーに嫌われては堪らないからな。もうしない」
「約束ですよ」
真顔で頷く兄はどう考えてもシスコンである。兄は私との約束は絶対に破らない。社交界では剣術の才で誉れ高く言われているのに、家庭内では完全に三歳年下の妹のご機嫌伺いをしているのは、少し滑稽である。
「なんだ、突然笑って」
「いえ、少し可笑しかっただけです。お兄様は私に異常に甘いから」
「生まれたときから王族に嫁にいくことが決まってる妹だ。今のうちに可愛がるのは当然だろ」
「そうなんでしょうか…」
「それにエミリーに甘いのは俺だけじゃない」
兄が小さく呟いたが、兄みたいに"耳"が良くない私でもしっかり拾えた。どうやら私はずいぶん家族に愛されているようだ。ちょっとどころではなく嬉しい。
こんなに家族に愛されていたのに、どうしてゲームの悪役令嬢は悪の道に染まる選択をしたのだろうか。そう思うのは私が前世を思い出したことと関係があるのだろうか。
「ありがとうございます。でも、お兄様もいつかは結婚するんですから、私だけにも構っていられませんよ」
妹ばかりを気にかける夫なんて、妻からしたら最悪だろう。でもこの兄は平気でそんなことをしそうで怖い。このままでは未来の義姉が可哀想である。
「俺の相手は父上が適当に見繕う」
兄いわく、「妹が政略結婚なのに、兄だけ恋愛結婚するわけにはいかない」らしい。別に今さら私は気にしないが、兄は罪悪感を抱いているらしい。妹以外の女性に全く興味を持たない未来の侯爵には、父も頭を抱えている事だろう。
「そういう問題ではありません。学園ではとても腕がたつのに婚約者もいないと評判だとか。素敵なご令嬢もお兄様の話をしているかもしれませんよ」
「学園に通ってもいないエミリーがどこからそんな情報仕入れてくるんだ」
「女性には独自の情報網があるんです」
お茶会という名の情報戦で、既にそういった話はあちらこちらで聞いている。子ども故の無礼講のものだが、将来参加することになる社交界の予行練習も兼ねてあるのだろう。
社交界ほど殺伐とはしていないだろうが、それでも話してよい噂かどうかの分別はある。貴族に恋愛結婚など存在しない。だが、結婚できるならそれなりの相手を望むのは当然だ。私くらいの年齢でも、同世代の男性の噂話は熱心に情報収集している。
そのなかで兄の話題はそこそこにある。剣の才能は百年の逸材と言われ、眉目秀麗。妹と剣に関する事柄以外の感情表現は乏しいが、そのクールな性格がまた良いのだとか。その上婚約者も恋人もいない。将来有望であわよくばと思う人はたくさんいるだろう。
「あとは、アンからもそれなりに」
侍女は侍女で他家からの情報網があるらしい。アンはたまにコソッと噂話を教えてくれる。
予想外の情報の出所だったのだろう。エリオットは、静かに部屋の端に控えていたアンに目を向けた。
「お前、そんな話をエミリーにしてるのか」
「未来の侯爵であるエリオット様の噂を把握しておくことも、使用人の大切な仕事です。負の噂は今のところ社交界にはございません」
「お兄様は女性に大人気です。たまには女性に目を向けてみたらどうでしょうか?」
察しのよい読者はここでお気付きだろう。兄のエリオットもまた、乙女ゲームの攻略対象の1人である。
剣の才能を極めた兄は、自分の剣と同等の実力をもつ人間がいないことに満たされないものを感じていた。そこに現れたのが魔王である。圧倒的な力を目の当たりにし、悪の道に魅了されるが、そこで出会うのが主人公である。主人公と出会うことで、兄は守る強さを知るのである。
兄妹揃って悪の道に魅了されるとは、とんでもない一家である。グレイ家は騎士の家系であることもあって、戦術に関しては他家には及ぶべく毛内英才教育だ。本人の戦闘能力もバケモノ級で、指揮力も高い。兄のルートのバトルシーンは凄絶を極め、本人含む他の攻略対象が亡くなるエンドもあったはすだ。
「社交界の情報収集はありがたいが…」
「恐れ入ります」
「妹に結婚の心配されるのは兄としてどうなんだ」
恋愛のれの字に欠片も興味のない本人としては面倒なことこの上ないのだろうが、周囲に関心を持つことは大切だ。原作のように、誰にも相談せずに闇落ちなんてしてほしくはない。
―まあ、それだけじゃないけど
私は主人公にはレオン様が確実に幸せになれるレオンルートを選んでほしいと思っている。そうなると必然的に他の攻略対象は失恋する。兄には叶わない恋に苦しんでほしくはないので、出来れば主人公以外で素敵な人を見つけてほしい。
なんだかんだで優先順位はレオン様>エリオットである。これは推しなので、是非とも許してほしい。だって魔王を倒したあとに全てを吹っ切ったレオン様の屈託のない笑顔を生で見たい。
ーちゃんとお兄様の幸せも願ってるから!
家族ももちろん大切には思っているのだ。優先順位があるだけで。はい。
「お兄さん、話はそれだけですか?まさかそのためだけに私の部屋に急に来たのではないでしょう?」
「あぁ。エミリーに話すことを俺が忘れるはずかない」
「そうでしょうね」
堂々と話す兄を私は呆れた目で見つめる。前世の私ならば好きなゲームの登場人物に冷たく接することなど到底出来なかっただろう。しかし今の私はエミリーとしての意識が思考の基盤となっているので、シスコンの兄に対しては雑に扱ってしまう。
「エミリー」
その一言で、部屋の空気が一気に静まった。私を見つめる兄の瞳は、妹を見つめるシスコンのそれではない。未来の侯爵が未来の王妃に語る、領地を憂う表情である。
「あまり良い話ではない。グレイ家の領地の北の山脈から、魔鉱石が発見された」
なるほど。確かに良い話ではない。どころか最悪である。