君を追ってのその先へ2
「もう……生きていたくないんだけど……」
今年で50歳になる私は、俯きながらにそう口にした。今の想いを正直に打ち明けた。相手は艶の無い真っ白な髪の80歳を超えている母。罵声でも浴びせられるかと思ったが、母は目に薄らと涙を浮かべつつ、笑みを以って私を見つめ、黙って頷くだけであった。母のその態度を今思えば、私のその言葉を案の定と、ある程度予想していたのかも知れない。
それから3日後、母は自殺した。
古い木造2階建て。1階にある6畳2間の居間の中、麻縄で以って宙に浮く母。昼過ぎに起きた私は見た事も無いその光景を前に、パジャマ姿のままで呆然と立ちつくしていた。そして力が抜けたかのようしてその場にペタンと座り込むと、ふと我に帰り救急車を呼んだ。
5分程して遠くにサイレンが聞こえた。徐々に近づくサイレンが住宅街に木霊する。その音が最大に聞こえたと思った瞬間ピタッと止むと、続いてバタンバタンと車のドアが閉まる音がした。
それらの音が耳に届いてはいたが、私は何ら反応せず呆然と母を見ていた。乱暴に玄関の扉を叩く音でふと我に返ると、直ぐに玄関へと向かった。
「病人はどちらですかっ!」
玄関前には2人の救急隊員が立っていた。その内の1人から言われたきつめのその言葉に、私はあたふたしながらも居間へと案内した。2人の救急隊員は居間で以って宙に浮く母の姿を前に、俯きながらに深い溜息をついた。そして「じゃあ、下ろしますのであなたも手伝ってください」と、3人掛かりで以ってそっと床へと下ろした。床に寝そべる母の脈と瞳孔を確認するも、死後数時間経過しているであろう母の体は既に冷たく、「残念ですが……」と、救急隊員は携帯電話を取り出し何処かへと電話する。
手持無沙汰なままに5分程が経過した頃、遠くからサイレンが聞こえ始め、その音が家の前で止んだ。直後、バタンバタンと車のドアが閉まる音がして、玄関からは「失礼しまーす」という大声と共にドタドタという足音が響いてきた。居間へとやってきた2人の警察官は母の姿を一瞥した後、その場にいた救急隊員に話しかけた。救急隊員は警察官と小声気味に二言三言の言葉を交わした後、母をその場に残したまま家の外へと出て行った。救急車からはストレッチャーが降ろされていたが、無人のままにそれを車内へと戻し、来る時にはけたたましいサイレンを響かせてきた救急車は、静かに家の前から去って行った。その後数台の警察車両と共に10人近くの警察関係者がやってきた。そして現場検証と検死の結果、母は自殺であると断定された。
『先に逝きます。こんなお母さんでごめんね』
踏み台にしたであろう居間のちゃぶ台の上には、そう書かれた紙切れが置いてあった。
10年前に父が病死して以来、母はこの家で一人で暮らしていた。私は20代の終わりに家を出て、半年程前までは実家から少し離れた古めのアパートで以って一人暮らしをしていた。だがその1年程前に仕事を失い、次の仕事が見つからぬままに時間が過ぎ、少ないながらも貰えた退職金すらも尽きる事が予想された為、全てを失う前にとアパートを引き払って実家に帰省……いや、寄生していた。
実家に戻った後、家賃と言う程ではないが毎月数万円を母に渡していた。同時に仕事探しもしていたが、見つからないままに時間だけが過ぎ、無駄遣いをしていた訳では無い金もいよいよ尽きようとしていた。母は年金で以って慎ましく生活している。いくら実家に寄生しているとはいっても、そんな母に対して返すあての無い金を借りる事は出来ない。いや、したくない。貸してくれるかどうかは別として、金融機関からも借りたくはない。
既に半世紀を生き、無職のままに高齢の母親と借家暮らし。今の状況と残りの人生の長さを考えると悲観するしかなく、悩んだ挙句に口にしたあの言葉。結果を省みれば何も言わずに死ねばよかったと、今更ながらに思う。余計な事を言ってしまったと。
私が口にしたあの言葉は、自分の人生を母に依存した格好になってしまったのかもしれない。母はそれを自分のせいだと思ってしまったのかも知れない。そんなつもりは更々無かったが、母に対して自分の出自に愚痴を言ったように思われたのかも知れない。私の弱さ故か、母に助けを求めたと言えるのかも知れない。そしてそれは母を死に追いやった。
悲観していたが為に情緒が不安定だったのかもしれない。母に告げる直前までは「先の無い私が自ら死を選択する事を喜んでくれるのではないか」と、そんな風に思ってすらもいた。
仕事を失った。いや、自ら辞めた。その環境についていけなくなり自ら辞めた。そして前職のスキルを捨てるかのようして仕事を探した。いや、探していない。全てに於いてやる気を失くした。そして一人で勝手に未来を悲観した。いや、未来を想像したくなかった、考える事を拒否した。そして何もせずに怠惰に過ごし金が尽きようとしていた。その結果が今あるだけ。
雇うかどうかは別として、50歳という年齢であっても警備等の仕事の募集は存外無くは無い。ただただやる気が無いだけ。やりたい仕事と生きていく為の仕事。前職はやりたくて始めた仕事ではあったが、その仕事で心が折れた。そして次に探すは自分が出来る仕事、雇ってくれる仕事、生きる為にする仕事。それに対してただただやる気がないだけ。
40歳を過ぎた頃から感じていた加齢と共に閉ざされる可能性。それに比例して失われていく挑戦への気持ち。それは当然ながら人にもよる。常にアグレッシブなまでにポジティブな人もいるし、私の様にネガティブな人もいる。いずれ今の怠惰な生活が破綻する事は分かっていたのに、何もせず無駄に無意味に過ごしていただけ。生きるという現実感を喪失した事で働く事の意味が分からなくなっただけ。今こうして生きている現実感が無いだけ。何かをしたいという欲求が無いだけ。全ての物が無価値に思えるだけ。全ての事が無意味に思えるだけ。
だが何をせずとも時間は流れ続ける。そんな中で出した答えが母に言ったあの言葉。
『自宅に火を点けた』『妻子を巻き込んでの無理心中を図った』
時折目にするそんなニュース。働いていた時には「何でそんな真似を」と訝しんでいた。だが今なら理解出来る気がする。その人達は結婚もせず大した努力すらもしていない私と違い、足掻き続けた結果でそういった行動に出たのだろう。怠惰な私と違って、死に物狂いで何とかしようとしたがどうにも出来なかったのだろう。そしてその答えに辿り付いたのだろう。思い付く道がそれしかなかったのだろう。ニュース等でそれらが報道された後に「誰かに相談したのか」「死ぬ必要は無かっただろう」「何とか出来ただろう」「他に選択肢があっただろう」といった言葉が並ぶが、その人からすれば必死で足掻いた上で辿り付いた道だったのだろうと。その選択は決して賞賛される事では無いが、理解は出来る気がする。
働いている時には努力していたつもりだった。だがそれは単に目の前の事をこなしていただけだった。何と無くそれに気付いたのに気付かぬ振りをしていた。そして仕事を辞める直前は激務が続いた事もあり、目の前の事以外、何も考えない様にしていた。それは思考停止だった。考える事と言えば「ただただ逃げたい」という事だけ。そして逃げ道として思い付くのは退職か自死のみ。
その時の私は退職を選択した。選択肢としては自死が浮かんだ物の、その選択は無いだろうと退職を選んだ。そこからでも社会から必要とされるような人間になる為の努力をすれば良かったのかも知れないが、退職した時点で全てに対するモチベーションを失っていた。そして自分を騙すかのようにして仕事を探す振りをしながらに無駄に時を過ごした。
1人で塞ぎ込む様にして考え込んでいると「自分は不要な存在で無いのか」という言葉が脳裏を過った。一度その言葉が浮かんでしまっては、これからの全てが無意味なのだという考えしか思い浮かばなかった。
精一杯努力したかと問われればそんな事も無い。人生を舐めている、甘えてるだけだと詰られ罵られても全て受け入れる。いや、受け入れるというよりは、反論する言葉も思いつかないしその気も無いという方が正解だろう。
アパート代も乏しくなった事で実家へと戻った。それからもただただ息を吸って吐いているだけ。意味無く食べ物を口にしているだけ。それがループしているだけ。とはいえそのループは無料では無い。そのループを維持する為には金が要る。その金を得る為に仕事を探し働き続けていく。その必要があるのだろうか、何故に今自分は息を吸い吐いているのだろうか、何故生きているのだろうか、他に選択肢は無いのだろうかと。そして自ずと選択肢は1つに絞られた。退職時に排除したその選択肢。
その選択しか無いと思うと1つの憂いが見えた。それは母だった。50歳の息子とはいえ、高齢の母に子供の無残な最期を見せていいのだろうかと言う憂いがあった。そんな事を考えている内に金が底を尽く。そして母に言ったあの言葉。
「どうぞ死んでください」と、母からそんな返事を期待していた訳では無い。だが自分の気持ちを打ち明けた事で、少しは子供の死への嘆きが少なくなるのではと考えての事だった。何も言わず、若しくは遺書を残して死ぬよりはと。少しでもそういう可能性を予感させておけば、私が死んだ場合の心労が軽くなるのではないかという判断であった。
だがそれは浅はかな考えであった。心労を軽くする事無く、母は先に逝くという選択を取ってしまった。その事に考えが及ばない訳でも無かったが、50歳の息子の事をそこまで思ってはいないだろうと言う浅はかな考えであった。
母の人生は何だったのだろう。当然私の知らない時期もあり、思い出と呼べる程に楽しい事も沢山あった事だろう。私から見ての祖父母から愛され育てられ、そして出逢った父と結婚し、私が生まれた時には喜んでくれたのだろう。私の成長を喜び、成人した時も喜んでくれたのだろう。
だがその息子が50歳にして無職となり、実家に戻って来た時には悲しんだのだろう。嘆いたのだろう。こんな息子に育つとは夢にも思わなかった事だろう。そして「生きていたくない」と打ち明けられた時には……。
母が亡くなってから数日が経過していたが、母の遺体は今も警察の遺体安置室に置かれている。既に葬儀を出す金も無く、もはや私に出来る事は何も無い。母の遺体を引き取る余裕すらない。いよいよ何もかもを失った。だが同時に、全ての憂いも無くなった。私には未来と呼べるべきものは何も無い。あるとすれば母に対する懺悔を繰り返す未来のみ。母より先に逝かなかったという悔いが残るだけ。であればもういいだろう。何も考える必要はないだろう。
暖かな陽も射すある日の午後。簡単に家の中を掃除し終えた私は、居間のちゃぶ台を前に胡坐をかき寛いでいた。母が亡くなってからまだ日も浅いが、不思議と心は穏やかだった。体中の力が抜けた。いや、肩の力が抜けたと言った方が正解だろうか。母に謝る為に、あの世へと向かう口実が出来たからなのかもしれない。そして私はちゃぶ台の上に置かれた不用品引取り案内のチラシの裏へと、ボールペンで以って書き記す。
『ご迷惑をおかけします』
車の様な密閉空間を確保できれば練炭もありだが、そんな大層な物は持っていない。文字通り全てを捨てるという意味で家に火をつけると言うのはナンセンスだろう。他者への迷惑を考えての事ではないが、その最期は苦しすぎる事が想像に容易い。包丁で以ってというのも上手くいかなそうな気がする。
チラシを見ながらそんな最期の方法を考えていた。私は嗤った。この期に及んで痛みや苦しみを気にする自分を嗤った。小心者である私を嗤った。結果、私は母同様の方法にて、この世に別れを告げた。
目を瞑っていても眩しさを感じた。そんな眩しさから顔を背けながらに私は目を覚ました。私の目に入るのは雲一つない真っ青な空。私は何処かに横になっていた。上半身をおもむろに起こすと、その不思議な光景が目に入る。
そこには何も無い世界が広がっていた。いや、真っ青な空には燦々と輝く太陽があった。眩しいだけの太陽は一切の熱さも暖かさも感じない。そして大地と呼べる地面は大理石と見紛う程に、艶のある白く硬い地面が果てしなく続いていた。遠くまで目を凝らすも建物等は一切見当たらず、ただただ果てしなく白い地面が地平線が見える程に広がっていた。
私は死んだはずであった。それも自らの手で終えたはずだった。であれば此処は「あの世」と呼ばれる場所であろうかと、地平線に目を奪われながらに思った。
「孝之」
誰かが私の名を呼んだ。背後からのその声に、体を捻る様にして後ろへと振り返る。
「……お母さん?」
「孝之。やっぱりあなたも死んじゃったのね……」
最期に言葉を交わしたのは母が亡くなる前の日の晩。夕ご飯時の「ごちそうさま」という私の言葉に、「美味しかった?」というその言葉。私は「ああ」と、背中越しに返した。次に会った時、母は物言わぬ人になっていた。まさかそんな会話が最期になるとは夢にも思わなかった。そして今、母と再会し言葉を交わした。何日かぶりに見た深い皺が刻まれたその顔。いや、生前は負い目もあってかまともに見れなかった母の顔。瞬間、得も言われぬ感情が湧きあがると共に目には涙が溢れ始めた。
「お、お母さん……ご……ごめんなさい……」
私は座ったままに地面に両手を突き、顔を伏せながらに言った。50歳を迎えたいい大人が嗚咽を漏らしながらに涙し、声を震わせながら高齢の母に謝る。それは何とも滑稽に映る事だろう。とはいえ、それを見る者は誰もいない。
「もういいから、ね? でもお母さんね、孝之の死んだ姿なんて見たくなかったから先に死んじゃったけど、本当は孝之に生きていて欲しかったのよ?」
母は優しい笑みを浮かべて私の傍で両膝を付き、下を向く私の顔を覗きこむ様にして言った。私はその母の顔を見れなかった。涙を流すまいと目を強く瞑っても止め処なく涙が溢れる。私はそんな状態で5分程の間、嗚咽を交えて謝りながらに泣き続けた。
涙が止まる事は無かったが、ずっと下を向いている訳にも行かないと、おもむろに顔を上げると不思議な光景が目に入った。
「お母さん……手が……」
「え?」
母は自分の掌に目をやった。その掌は透けていた。
「あ……そう言う事……」
「何? どういう事?」
「どうやらお母さん、お迎えが来たみたいね」
「お迎え? それってどういう――――」
「そうそう、紹介するわね」
母はそう言って後ろを振り返り「ほら、こっち来て」と、後ろに向かって言った。
「オジサンこんにちは」
少し照れた様子で以って、母の背中から小さな男の子が現れた。どこかのチームの野球帽をかぶり、半袖半ズボンという姿の小学校低学年と思しき男の子。私からは母の影になっていた為に見えなかった。
「この子は琢磨君って言ってね、実はお母さんの小学校時代のクラスメートなの。でも琢磨君は小学4年生の時に突然交通事故で亡くなっちゃってね……。そしたら此処で偶然会ったの。でも最初は全然気付かなかったんだけどね」
「僕だって気付かなかったよ。まさか孝子ちゃんがこんなお婆ちゃんになってるなんて思わないもん」
「そうよね、こんなお婆ちゃんだから仕方ないわね。でも気付けてほんと良かったわ……。でね、孝之。これは琢磨君に教えて貰ったんだけどね、ここは『死後の世界』って言ってね、寿命よりも早く亡くなった人が来る世界らしいの。そして本当の寿命が来たらここから消えていくんだって。消える時にはこうして段々と透けて行って消えるらしいの。お母さんも初めて見たんだけどね」
母は消えていく自分の掌を、諦めの笑顔で以って見つめていた。
「じゃあ、お母さんは……」
「そうね……。今、お母さんの本当の寿命が来たという事ね。だから自殺なんてしなくても、近いうちにお母さんは死んじゃってたって事ね……。ごめんね孝之、余計な心配させちゃって」
「……」
「あ、そうそう、これも琢磨君から聞いたんだけどね、この世界では人は空を飛べるらしいの」
「……」
「まあ、飛べたとしても、この世界には何も無いから、何処へ行けるって訳でもないらしいんだけどね」
「おかあ――――」
「孝之も気晴らしに飛んで見たら? お母さんは怖くてまだ飛んだ事は無いけどね」
私の言葉を遮る様にして母は話し続ける。その間も優しい笑みを絶やさない。だがその笑みは徐々に薄れて透けていく。
「それじゃあ孝子ちゃん、バイバイ」
「さようなら、琢磨君。最期に会えて本当に良かったわ」
「僕もだよ」
「ちょっと、お母さん――――」
「孝之、こんなお母さんでごめんね、許してね」
「おかあ――――」
「おかしな言い方だけど元気でね。ほんとこんなお母さんでごめんね、許してね……本当にごめんね……本当にご……」
雲散霧消。遺書に残したその言葉を何度何度も口にしながら、母は霧の如く消え去った。笑みを浮かべつつも一滴の涙を零し、消える最期の瞬間までその言葉を口にしながら消え去った。瞬間的に母を掴もうとしたが、その手は宙を泳いだだけだった。
母が何を謝る事があるというのだろう。謝るべきは私の方であろう。こんな不出来な息子を持った母が不憫でならない。こんな息子でも大事に思っていてくれた母を死に追いやった。
「お母さん、ごめんなさい……お母さん、ごめんさない……お母さん……」
涙があふれて止まらない。私は地面に顔を伏せ、消えた母に向かって何度何度も同じ言葉を口にした。今更消えた母に言ったとて、それは無意味だと分かっていても何度も口にし続けた。
自ら終わりを迎えずとも母の寿命が直ぐに尽きていたというのなら、結果としては大して変わらないと言えるのかもしれないが、母を自殺に追いやった事実が私の中から消える事は無い。「死後の世界」と呼ばれるこの世界から母が消えようとも、母を死に追いやった私の悔いが消える事はない。
仕事を辞めてから何をするでも無い日々を過ごした。そして此処に来る前の1ヶ月程の間、布団に入って目を瞑れば常に「どうやって死のうか」と考えてばかりだった。痛みを伴わず苦しくない方法は何だろうと。そして念願叶って現世から解放はされたが、今度は懺悔に縛られた。かといって生きていれば良かったとは思わない。甘いと言われようともそれしか思い付かなかった。
私が何も言わずに母より先に死んでいたとしても同じ結果になったのかもしれない。私がほんの少しだけ先にこの世界に来て、後から母が来る事になっただけかもしれない。いや、もしかしたら母は現世で以って寿命を迎える事が出来たかも知れない。都合よく考えれば、母が先に来た事で、文字通り最期に会えたと言えるのかもしれない。直接謝罪の言葉を言えたと言えるのかもしれない。とはいえ、母を死に追いやった悔いが消える事は無く、「ごめんなさい」と言える機会がほんの一瞬あっただけ。
「死後の世界」と呼ばれるこの場所に於いて本当の寿命が尽きた後、自分自身がどうなるのかは分からない。若しかしたら更に別の「死後の世界」が存在し、再び母に会う事が出来るのかも知れない。今分かっているのは、私がこの世界から消えるその日まで懺悔の日々が続くと言う事だけ。何も無いこの世界で、寿命が尽きるその日まで、悔いるだけの日々を繰り返すという事だけ。
「オジさん、大丈夫?」
小さな男の子が私を慰めるように言う。私はそんな小さな子に掛けられた言葉すら何ら反応できず、地面に顔をうずめるようにして泣き続けた。
「……じゃあ、オジサン。僕行くね。バイバイ」
小さい男の子が所在無さげにそう言って、私の元から去っていった。私は男の子が去った事にすら気付かず泣き続けた。目からは止め処なく涙が溢れ続け、大理石のような地面へと零れ続ける。だがその地面に私の涙は染み込まず、霧のようにして消えていく。
例え地面に涙という水が染み込んだとしても、この何も無い世界では決して花が咲く事は無いのだろう。仮に咲いたとて、それは醜い花だろう。いや、花とは呼べない程に醜くおぞましく、名前すらも無く誰もが忌避するような、きっとそんな何かだろう。
2020年03月02日 初版




