彼岸の住人 壱
仄暗い闇が恐ろしい。
蜩が物憂げに唄う夕刻、私はそこはかとない不安感に囚われるのである。
朱に染まる天穹が、ありもしない焦燥を掻き立てるようなのだ。
車を走らせること二時間、陽子と敏彦は登高ホテルに到着した。山間の県境ということで、辺り一面には草木が生い茂り、視界を遮っている。
下車すると、夏場だというのに湿った空気──それも冷気を伴い、漂っていた。田舎の朝と晩は冷え込むものだが、彼らには判然としない。陽子は霊が居ると、その場の気温が下がること──もっとも、これは著名な霊能者の受け売りでしか無かったが──を伝え聞いた事があった。いずれにせよ、季節に見合わない肌寒さである。彼女は思わず震えた。
「敏君、何だか寒くない?」
「上着でも持ってくれば良かったか。失敗したな」
一度何処かで防寒対策を整えるよう進言する敏彦だが、陽子に反発される。ホームセンターに行くにしても、片道三〇分はくだらないからだ。周辺の民家までも距離がある。出直すには遅すぎた。なにぶん、夜中の一一時を回っている。余計な時間をとりたくはないからだろう。
不気味な雰囲気も手伝ってか、彼女も早々に片を付けたいらしい。実に珍しい事である。
敏彦としても、長居はしたくなかった。それは何故かと問われれば要領を得ないが、じっとこちらを見られているような居心地の悪さを感じていたからだ。這い回るような寒気にさしもの彼も、試合で見せる雄々しさは鳴りを潜めている。
見上げれば、風化しかけた外壁は亀裂が走っていた。そこには蔦植物が、我が物顔でのたくる。更に、得も言われぬ静寂が、まるでそこはかとない不安を植え付けて来るかのようだ。
陽子は暗がりを怖がっているようではあるが、どちらかと言えばいつも通りであった。
(気にしすぎ、か?)
力みが高じて試合で惨敗した記憶が蘇る。思えばそれは、今と同じような感覚だ。余分な力が技の冴えを奪い、手も足も出なかった。トラウマが顔を覗かせるが、此処は道場ではないと自身に言い聞かせる。
「さて、行くとするか。怪我、するなよな?」
「敏君たら、相変わらず心配性なんだから~」
「──置いてくぞ」
入り口となる正面玄関へ、敏彦が手を掛ける。
しかし、彼は顔をしかめた。ドアノブの金具は白く粉をふくように腐食しているし、板材も不快な音を立てて軋むからだ。
人気が無い場所が纏う、一種の雰囲気とでもいうものは、誰しもが苦手だからだろう。二人は僅かに怖気づく。懐中電灯はLEDで非常に明るいのだが、却って闇を引き立ててしまっている感さえある。
不気味な暗がりを湛える扉を後にすれば、眼前にはエントランスホールが広がっていた。壁には作者も知れぬ静物画が掛けられ、無人の受付が佇む。リノリウムの床材も傷みの為か、所々めくれあがっている。その光景は心なしか、今までのどんな場所よりも異様に映った。陽子に促され、敏彦は思い出したかのようにビデオカメラを起動。撮影を開始した。
(こんな所、さっさと出ていきたいんだがな……。陽の奴も、此処もどうかしてる)
そこで彼は異変に気付く。構えたカメラが突如砂嵐になってしまったのだ。故障なのか、陽子に尋ねる。
「あぁ、それ? パパから貰った物だし、十年くらい前の型だからガタが来たのかも。この間修理したから、まだ使えると思ってたのに……」
「まあ、これだけ年季が入ってれば、な。それに、扱いがあんまりがさつだと、こいつもヘソを曲げるってものさ。こういうのは高いんだろ、いい機会じゃないか。廃墟探索を止めるのも頃合いだ」
「あーあー! 聞こえない聞こえなーい」
陽子が持っているのは、遠赤外線機能のあるカメラだ。父親がカメラ好きな所為で、撮影機材には事欠かない。敏彦としては頭が痛いところだが、危なっかしい趣味を止めさせる口実になると内心喜んでいた。
「さっさと用事を済ませて帰るぞ。探索と実況は諦めて、肝だめしといこう」
「むー……」
不平を漏らしつつも、彼女は敏彦に寄り添って歩く。
いつものやり取りで落ち着いたのか、彼らは軽口を叩きながら回る。間取りは分からないが、曰く付きの場所は知っていた。ホテル北側の断崖である。
中へ入っていく陽子が敏彦の方を見て、声をあげた。
「……待って、カメラ動いてない?」
「仮病だったんだろ」
「何しょぼくれてるのよ、これで実況が出来るわ!」
「俺は頭痛がしてきた」
動き出したそれに、陽子は騒ぎ立てる。余程嬉しいのだろうが、敏彦としては喜ばしくない事態だ。渋々ついていく彼の足取りは重い。
彼らが前方を照らす灯りとカメラの放つ僅かな燐光が、闇に呑まれまいと抗っているようですらあった。
訳:夕方って怖くね?
台無し感半端ない(笑)




