6 英雄色を好む?
「わたくしが本物で、処刑されて、あなたが困る事なんてないじゃない」
泳いでいた青い瞳が、意を決したようにひたと鈴乃に据えられる。
「我が国では真実と公平であることが重要視されている。刑の執行前に事実確認をするのは決まり事だ。君の評判と実像の間に差異があるなら、なぜそうなったのか明らかにしなくてはならない。それに」
じっと鈴乃を見る目は、照れたようにそらされた。
「……一目惚れしたんだ」
「ひとめぼれ?」
「王の間で、君を見た。その瞬間に心が吸い寄せられるように惹かれてしまった」
顔をほんのり薔薇色に染めて、ちらりと視線をやってくる。
凍り付いているはずの鈴乃の心が、かわいいな、と乙女みたいなことを考えた。
「最初は自分の女を見る目のなさに絶望したが、捕らえられてからの君は噂とは別人のようだった。だから影武者なのではないかと。そうであってほしいと思ったんだ」
くっと鈴乃はのどで笑う。
「自分の命令でこれから殺す相手に一目惚れね」
不遇なことだ、と思って笑っていると、はぁ、とまた彼は深い息をつく。今はその息の理由が分かる。
「あなたもなかなかの悲劇体質ね」
鈴乃はおもむろに、茶色いくせっ毛の頭に手を乗せてわしわしと撫でてみた。
王子はびくりと体を震わせる。
思ったよりも柔らかく、触り心地のいい髪だった。なんだか心がほっとする。
彼は最初は青い目を丸々とさせていたが、すっと細めて大人しくされるがままになった。
「僕のために影武者ってことにしてくれないかな」
ちょっとくだけた口調でそんなことを言ってくる。
「嫌よ。わたくしはあなたのこと好きではないもの。それに嘘をつくのはもう嫌だわ」
鈴乃を見下ろしてくる目が、哀しげにゆがんだ。
何に対する哀しみなのか。今言った自分の言葉のせいなのは分かるけれど、事実なのだから仕方がない。
頭をわしわししていた手を外すと、彼は物悲しげにその手を見ていた。
「せいぜいがんばって諦めなさい」
哀しげだった青い目が、穏やかに細められる。
「君は優しいな」
「どうしてそうなるのかしら」
「冷たくあしらわれた方が、諦めもつきやすいだろう。本当に、どうしてあんな噂が広がっているんだ」
「言っておくけど、泣き叫んでいる者達を見下ろして笑っていたのは事実よ」
「……というと?」
「考えるのはあなたの役目でしょう。わたくしは教えない」
上手いこと誘導尋問されかけた気がする。あぶないあぶない。
「わたくしの処刑日は決まっていて?」
話題を変えると、真面目な気配をまとった青い瞳がまっすぐに鈴乃を見る。
「……三日後だ」
「そう」
あとおにぎり五食か。朝食抜きだとしたら四食……おにぎりに飽きないまま死ねそうだ。
せめて最終日くらいは具を入れてほしいと頼もうかな、だめかな? などと考えていたら、長い指の男らしい右手が鈴乃の頬を包むように触れてきた。
急になんだ、と王子様を見ると、鈴乃の暗い人生では見たことのないやわらかな顔をした人がいた。
「こんなに美しい人が二人もいるというほうがおかしいか」
顔に触れている親指が、鈴乃の下まぶたをそっとなでる。
触れられている場所から体がびりびりするような妙な感じがして身を引くと、手は素直に離れた。なんだかほっとするのに、安らぎが離れたような真逆の感覚にもなる。
「ひとつ、教えてくれ」
「なに?」
「毎夜部屋に男を連れ込んで、何をしていた?」
真実を明らかにしなくてはならない、という役目ゆえの問いにしては、私情がこもっているような声音。
でも込められているらしいそれは感じ慣れた醜いものとは違うように感じる。
この人は今まで感じたことのない物ばかり鈴乃に与えてくる。
だんだん落ち着かない気持ちになりつつ、ふぅと息を吐いて平常心を取り戻した。
「教えてあげないわ」
「噂では淫らなことをしていたとなっているが」
「そうね」
「なら僕がキスするくらい、かまわないよね?」
キスってケルン語だ。律京語だと何になるのだっけ。
いきなりの異国語に一瞬頭が混乱している間に、また頬に手が当てられて、もう片方の手が鈴乃の背中にまわって抱くように体を抑えつけられた。頬に当てていた手の親指があごの下に置かれて、その指でくいっと鈴乃の顔が上向きにされる。ざわりと心を騒がされる。
王子の彫りの深い端正な顔が近づいてきた。
――なに?
そうだ、キスって口づけのことだ。と言葉の記憶が蘇った。
火黄国では夜の交わりのときにしかしない淫靡な行為。だけれどケルンでは挨拶代わりにも頬や手にするし、恋人たちは人前で口同士を合わせたりもする。
うっわ、異文化いやらしい、おそろしい、なんてこと。
と日頃冷静な鈴乃が動揺した留学先での思い出。
「ちょっ……」
逃げようとした頭に覆いかぶさるようにして間を詰められた。
唇と唇が触れる。ぞっとする異様な感覚が体にわき上がる。気持ち悪くての寒気とは違う、どちらかと言えば熱さをともなう、これもまた感じたことのないものだ。
諦めずに逃げようと反らされた体が長椅子に倒れていく。背に当てられた手に支えられて、ゆっくりと背から落ちた。
見えるはずの天井は見えず、男の整った顔が間近にあったが、近すぎて逆に見えない。空より濃く藍より鮮やかな青の瞳は瞼に隠されている。くせのある茶髪の髪が、端正な顔のまわりに垂れている。
わずかに唇が離れた。王子がふっと笑った息が顔にかかる。
「男遊びの激しい女の反応とは思えないな?」
頬に触れていた親指が、唇をそっとなぞるとまたぞわりと妙な感覚が襲ってきた。
なにこれ、と目を白黒させながら青い瞳を見上げていると、彼は今までの彼らしくない意地悪な顔で笑った。
「やっぱりよく分からない。もう一回しよう」
は? と言おうとした息は彼の口に飲み込まれて消えた。
再び唇がふさがれる。
上唇をふにふにと彼の唇にはさまれ、湿気を帯びたやわらかいものに下唇をなでられる。何が触れたのか分からなかったが、その濡れた感触に舌だと察して愕然とする。
ここで一戦交えるつもりなのか? それともこれがケルンでは当たり前なのか。留学中には手や頬に触れる程度しかなかったのだが。
いやそもそも、無理矢理こんなことされたら気持ち悪くて怖気がはしるべきなのではないのか。例えばさっき襲ってきた男たちが相手だとしたら想像しただけで殺意が噴き出てくる。
――美形だからなのかしら。美形だと嫌と感じない物なの? そうなのかしら? 美形って得なのね。
だからといってこのままやられっぱなしは気に入らない。
いかに悪評にまみれた姫であろうとも、いかに淫蕩に励んでいたと誤解されていようとも、鈴乃は色事には平和だった父王の影響と、読書のおかげで火黄国の恋の価値観は染み着いている。
いかに他国の者で、他国の文化であろうとも、手の甲と頬に口づけるのは受け入れても、恋人でもない相手と唇で口づけあうなど、ありえない。ありえない。
王子の首に手を当て、爪をぎりっとたてた。
さすがに生命の危機を感じたのか唇が離れ、端正な顔の輪郭がまた見えるようになる。
「引きなさい無礼者」
低く色のない冷たい声が出た。
王子は唇が唾液で塗れ、色気がたれ流されている。青い眼差しが鋭くも熱く、面白がっている気配をはらんで笑む。
「男に慣れているのではなかったのかな?」
「慣れてないわよ……」
こんなことになるとは。
やはり、鈴乃に尊敬以上の好意を持ってくれていた配下の男とでも、一度くらい本当に夜の関係を持っておくべきだったろうか。そうすればもっと冷静に対応できたのだろうか。
だがしかし、だがしかし、好意を返さない相手に体だけ返すというのは不誠実ではないのか。そういう場面のある物語はなかったから普通はどう考えるのか分からない。
火黄国は淫らな行為に対して厳しい締め付けはない。
強く秘すべきことという考えはあるが、秘されているところを開けてみれば奔放な国だ。人前で詳しく話すことはよしとされないから、鈴乃が未経験でも耳年増の知識と生来の攻め気質でごまかせていた。
むしろそれを匂わせる言葉を人前で言う鈴乃は、奔放すぎて節度を忘れたのだと侮蔑の眼差しを受けるほどだった。
そんなだから逆にこうして明確に攻められたのは初めてで、そうされるとここまで動揺するとは鈴乃自身でも意外に思う。
「ずっと嘘をついてきたんだね?」
鈴乃を組み敷いたまま、美貌の青年がやさしく問う。
「答えてくれないとまたキスするよ」
情けなくも鈴乃は眉や口をきゅっとしてしまった。泣きそうな気配を自分で感じつつ、くやしさが追ってやってくる。
尋問か。これは尋問だったのか。いや体に聞くというものだから拷問の類なのか?
はぁ、とため息をついた。
どちらでもいい。こういう情報収集方法をとられるとは想定外だったが、彼の力で聞き出したことになるから今の状況で出た言葉なら信じてくれるかも知れない。
「……ええ、そう。嘘ばかりついてきたの。だからもう嘘はつきたくないのよ」
「どうして嘘をついていたんだ?」
鈴乃は一度まぶたを伏せて。深く息を吸った。
手が早いのは難点だが、熱心に鈴乃を助けようとしてのものだろう。
火黄国の建国王も美女と見れば盛るような猿……じゃなく色男であったそうだし、この国では国を発展させた名君に限って女好きが多かったという残念すぎる歴史がある。
逆にというか鈴乃が思う最低の王である父王は色への関心も少なく、鈴乃しか子がなかった。英雄色を好むともいう。そこは目をつぶっておくことにしよう。
赤紫色の瞳を外気にさらす。
眼前に迫ってくる綺麗な顔を、真剣な心を込めて見つめた。綺麗な顔だ、と場違いに思う。
「父は悪人を愛する人なのよ」
「悪人を愛する?」
のしかかってきていた体を押して起きあがろうとすると、彼は素直に退いてくれた。
互いに向き合ったまま、長椅子に座る。
「わたくしには父の感覚が分かるわ。生まれてからずっと悪意と憎しみの中で育ったから、正しい人の、正しい行動も、優しい人の優しさも、その心の温かさも、冷えすぎた心にとっては触れればしもやけになるような苦痛をともなうもので、関わりたくない物になっていたのだと思うわ」
王子の表情に渋みが走る。
心を痛めてくれているのだ。と鈴乃は『普通の人』が書いた物語の読書と、晴先などの配下の者達や善人を観察してきた経験で理解した。
「わたくしが想像するよりも父の心の状態はひどかったはずよ。元々の性格もあるのかもしれないけれど、残忍なことを平気でなさるし、それで恨まれて殺されても面白いと思ってもいたと思うわ。
だからわたくしにも父にも影武者はいないのよ。でも抵抗しないわけではないの。父にとっては、反逆者とのやりとりは楽しい遊びだからね」
「……遊び」
強い怒りと嫌悪が王子の身の内から噴き出してきた。
穏やかそうな青年だと思っていたが、こんな激しいところもあるのかと、鈴乃は彼から感じる気配におびえることもなく涼しい顔で思った。
「そういう父だから、あのとき『私に殺されたかった』なんて言えたのよ」
あのとき、というのはもちろん王の間を去っていくときの父王である。
――俺はお前に殺されたかったぞ。
彼は笑って言った。その言葉は本心からのものだったろう。そういう人だ。
「私が幼い頃、裁かれる罪人のことを『かわいそう』と言ったら、父は私のことを気持ち悪い物を見る目で見て、しばらく面会もしてくださらなくなったわ。
かわいそうという言葉を本で読んで覚えたばかりで使い方を間違ったのだと言い訳して、なんとか元に戻ったけれど、それで理解したのよ。父は正しい心が嫌いで、ささいな罪を犯した者を異様に咎めて痛めつけて喜ぶような悪人が大好きなのだとね」
鈴乃はいびつに笑う。
あれ以来、素直な言葉を封じた。そうと思われないため演技もした。幼い、何才だったかも覚えていない昔。
幼子というものは敏感に親の心を察し、虐げられようとも涙ぐましい努力で好かれようとするものだ。
幼い鈴乃が自然ととった、一見賢そうな行動は、実際のところはそういう本能的なものだったのだろう。
飢えて泥棒をした子供を逃がそうとして捕らえられ、父の面前に連れてこられたとき心のままに糾弾してきた時平のような人間が、まぶしくもうらやましく、憎らしくもあった。
まっとうな心をしていた彼は、心からの言葉を言えば伝わるだなんて本気で思っていたのだろうか。善人が主役の物語ではそういうことは多いようであったが。
言えば言うだけかたくなになる父に叫ぶその無意味に、鈴乃は珍しく心が粟立った。
――そんな言葉程度で解決できていたらこんなに苦労はしていない。
「父に邪魔者扱いされて、そのせいで官たちからも邪険にされるようになったら私は何もできないし、生きるのも大変になるでしょう。だから私は悪人のふりをしてきたの。
心はすでにないようなものだったから痛むことはなかったけれど、かわいそうなものはかわいそうだったから、隠れて人を助けることにしたわ」
王子は真剣に聞いてくれている。理解できないと拒否するでもなく。
その落ち着いた態度はとても好感を持てた。
「あなたにさっき言った詩。あれは私が助けた人たちが、無事に逃げ延びたという言葉の代わりに送ってきたものよ。直接声をかけて助けた人だけだから、あれが助けたすべてではないけれど」
青い目が見開かれる。
何かを思い出すように少し視線を上にそらした。
「……はっきりとは覚えていないが、かなりの枚数だったと記憶している」
「そうね」
目線がもどってきて、まっすぐ綺麗な汚れのないそれと鈴乃の視線がからみあった。
「それが本当なら、君の過去の罪は帳消しにされてあまりある」
「そう。別に処刑してくれていいのだけれど」
王子は鈴乃の手を強く握る。
「鈴乃姫。そんなことを言ってはいけない。君はこれから幸せになる資格が十分ある」
助けてあげられなかった人たちの絶望に満ちた姿が脳裏に浮かぶ。
あれを放置していたことを理解して言っているのだろうか。
綺麗なところだけを見て許されるべきだなんて言っているなら、その言葉に重みなどない。
「そんなことはどうでもいいのよ。ねぇ、あなたヴィンツェン王子でいいのかしら?」
おや、と形のいい眉をあげて、推定ヴィンツェン王子は微笑んだ。
「そういえばまだ名乗っていなかったね。名前、誰かに聞いた?」
「ケルンのことは少し知っているの。先陣を切って戦に出る発音の難しい名前の第二王子がいると聞いていたから、殿下と呼ばれているあなたがそうかと思ったのよ」
王子はうれしそうに目を細めた。
「知っていてくれたのか。なんだろうな、いやにうれしいな」
王子は握っていた手を離して姿勢を正すと、握った右手を胸の前にそえた。
「ケルン大帝国第二王子および帝国軍総帥を務めておりますヴィンツェン・ディル・クラークと申します。お嬢さんのお名前をお伺いしてもよろしいかな」
にっこりと微笑んで見つめられ、ふっと鈴乃は息を吐くとそれに続いた。
「……定寧王、早納執 定親が娘、鈴乃よ」
「末永くよろしく、鈴乃。僕のことはヴィーと呼んでくれ」
「ヴィーね。呼びやすくて良いわね」
彼はまた手を握ってきた。
長椅子の上で向かい合いながら手を握りあう……火黄国では秘された恋人たちの行いのようで違和感があるが、触れ合いを重視するケルンの文化では普通なのだろうと気にしないことにした。
「そんなことよりお願いがあるのよ」
「なんだい。処刑のことなら心配いらないよ。僕の名誉にかけて君の優しい所行をあばきだして助けてみせるさ」
「それは、ありがとう」
晴先もなにかしようとしていたようだったが、王子が接触して協力し合うことにでもなるだろうか。
「でもそれじゃないのよ、ヴィー。あなたに伝えたいことがあるの」
「愛の告白かな?」
おどけて言う彼を、鈴乃はじっとりと冷えた目で見た。
握られた手から伝わる温かさが、嫌に心にまとわりついて安らぎを与えようとしてくる。冷めた気持ちとの落差が奇妙に感じられた。
「あなたを善人と見込んで伝えようと思っているのよ。ふざけたこと言わないでくださる?」
ヴィンツェンは苦笑した。