第3話 あとがき。
光代がなぜ達也を愛せなかったのか。
そこには屈折し、闇のごとく深い、ねじれた愛があった。
かつての夫を愛していたがゆえ生じる憎悪。
愛し方を忘れてしまった者が陥る悲劇、トラジディー。
屈折した光が頭上から2人を常に照らしていた。
愛されたいと願う子供がいて、愛し方を忘れてしまった親がいる。
かつての光代は愛する夫と、平凡だけど幸せな、どこにでもあるありきたりな家庭を築くのが夢だった。
どこかでボタンを掛け違えた夫婦は、いびつに夫婦愛を歪め、すれ違い、最終的に離婚という手段を選んだ。
光代が引き取った息子、達也はお荷物となり、再婚の障害となった。
子供を愛せない母。
母親を憎むルサンチマンな我が子。
親を愛しているのに報われない子供。
この物語を読み、もし自分たちの家族愛を疑い、そして本来あるべき愛の形を取り戻したいと思ったなら、どうだろう。
それだけで私の目的は果たせたのかなと思う。
幸福は空から舞い降りてくるものではない。
愛と涙、育んだ情と怒りでもって、手でこねるようにして真心を込め、粘土細工のように造り出してゆくものなのである。
達也は不幸にして4才でこの世を去ることになった。
達也がどのような思いでこの世を去ったのかはわからないが《ぼくがお母さんを守る》という、その思いは本物だったはずである。
達也の死後、光代は啓介と再婚する道を選ばなかった。
人生は、さよならの連続である。
私たちは別れを言うために生きているのではないか。
時にそう思えてしまう。
達也は少なくとも自分自身、不幸だとは思っていなかった。
愛されていないことを不幸に思ったこともなかった。
ただ母親を愛したかった。
ずっと愛していたかった。
死んでもなお母親を守りたい。
それだけを伝えたかったのではないだろうか。
私にはそう思えてならない。




