ゼロ・フェイス 第三話 生き物?の記録
「あああああああ!!!やっぱり、全然うまくいかねえ!!!」
昨日と同じく、一二三の研究は上手くいかず、思わず研究室の中で絶叫して部屋の床に倒れ込んだ。
木造建築の実家に建設された板敷きの床は、思ったよりも冷えてはおらず、その板越しに伝わる温い温度がますます一二三の苛立ちを募らせる。
今日は、今朝から何だか集中できない。
異常にイラついたり、不意にぼんやりとしたり、何度も同じミスを繰り返すわ、物を良く落とすわ、何だか、何だか原因不明の精神病にかかった様に動きに精彩がない。
否、原因など解っている。
昨日、色葉と変な別れ方をしたせいだ。
戦地に行ってから三年間も待ってくれていたのに、それから五年間もこんなそっけない態度の男に付き合い続けてくれたのだ。
それなのに、肝腎の男の方は、実家の片隅でせせこましく暮らしながら、何の得になるのかもわからない研究に罅を費やして、自分のことに構懸けて毎日を暮らしているのだ。
多少の日数くらい、彼女のために割いてやればいい。
理解はしている。
自分が悪いことは、分っている。
けれども一二三には、それができないでいた。
「…………何だか、空しいなあ」
板敷きの床に寝っ転がって天井を見上げながら、一二三は思わず呟いた。
ここまで何かもうまくいかないと、自分は何でこんなことをしているのだろうか。とか、もう無理だ、全部諦めちまえ。と、脳裏には悪魔の囁きの様な言葉ばかりが浮かんでくる。
もういいじゃないか。と、思う。
流れに任せて生きて行けば、きっと楽だ。
今までの全てを忘れて、色葉の全てを受け入れて、そうして、適当に暮らしていけば、きっと幸せになれる。
しかし、そんな頭の中の囁きを咎めるのは、もっともらしい自分の正当化した理論ではなく、数年前の夜のジャングルの中の記憶だ。
それは、夜の帳の降りたジャングルで、むさ苦しい男どもが肩を寄せ合って、ぱちぱちと小さく鳴る焚火を囲む姿。
朝が来れば、弾丸が飛び交い、昼になれば、惨殺死体の破片が飛び散り、夜になっても、ゲリラが暗闇から襲い掛かる中に在って、夕食時に囲む焚火は、ごくわずかな憩いの時間だった。
そこで語り合うのは、様々ではあったが、話題は全て、取るに足らないことばかりだった。
どんな女が好みなのか、とか、女は尻か胸かとか、胸は大きい方が良いか小さい方が良いかとか、下世話な話が殆どで、後は、食い物の話が多かった。
日本に帰ったら寿司が喰いたい。ドジョウが喰いたい。焼きおにぎりが良い。田舎の味噌汁を飲みたい。
あとは、故郷の家族と、将来の夢。
それこそとりとめがない話だった。
自分は学生で、将来は天文学者になって宇宙を研究したい。と言えば、俺の実家は農家で、将来は牛を飼いたい。という奴もいる。
親父と喧嘩して田舎を飛び出して来たから、帰って御袋の顔を見たい。という奴もいれば、帰ったら、家族を連れて東京に出ます。という奴もいる。
皆が皆将来に展望を持っている訳でも、家族との仲がうまくいっている訳でもなかったが、それでも、自分達の口から出てきた言葉には、そうしなければ。という、強い義務感にも似た思いが噴き出して来たもので、それが何だか生きる力になってくれているような気がした。
そうして、焚火を囲んで話し込んでいると、殺し合いの為に森の中に潜っているという、人間らしさとは程遠い生活の中なのに、その時間だけ自分が人間に戻れたような気がして、何だか、救われたような気がした。
そんな中、自分が語ったのは、実家の繊維工場を大きくするための研究がしたい。という、ささやかな夢と、その繊維でここにいる皆の服を作る。という、小さな約束だった。
そんな記憶が脳裏を掠めると、不意に夏の熱でやられた脳髄が起動するような気配と、あの頃に経験した地獄のような経験がどろりと胸の奥から立ち上がる様な気がして、頭の中の甘い言葉が散り散りになって消えて行く。
出来れば、もう二度と思い出したくはない。しかし、忘れるわけには絶対にいかない、あの記憶。
あの時の記憶が蘇ると共に、此処で終るわけにはいかない。こんなところで終るわけにはいかない。と、自分の中の何かが、否。あの島の仲間が、発破をかける。
(…………大伴大佐。まだ、やれます)
脳裏に、上司であり、恩人であり、そして戦友であった男の顔を思い浮かべながら、一二三は立ち上がり、そこでふと思い出す。
「そう言えば、あれも糸を引いていたな」
一二三は誰に言うでもなくそう呟くと、蒸し暑い研究室から出て、四畳半の自分の部屋に戻ると、畳間に置かれた文机の引きだしにしまってあるシャーレを取り出した。
シャーレの蓋の上には、『アポリア』と書かれた色褪せた古紙が貼り付けられており、蓋を外したシャーレの中には、黒い粘液状の姿でシャーレの底にへばりつきながらも、まるで一匹のアメーバのように不定形な律動を繰り返している謎の物体が存在しており、『これ』が、今迄発見されたことの無い生物である事は、明らかであった。
一二三は、シャーレを納めていた引き出しの下の段から粉末状にした米をを取り出すと、それを文机の上に置いてあった水で小さく固めて一、二ミリほどの小さな団子を作ると、シャーレの中のその黒い何かの上に落としてみた。
すると、『それ』は、まるで与えられたご飯に喜んだかのように全身の黒い物質を震わせると、瞬く間の内に小さな団子を飲み込んで消化していく。
その様子を見た一二三は、ふーむ。と、小さく唸って見せると、米粉を取り出した抽斗から縫い針を取り出して、その何かに向けて突き刺して引っ張ってみる。
「……やはり、糸を引くな。しかも、納豆の糸のような簡単に千切れる物では無く、蜘蛛糸のようなしっかりとした生物性の糸だ。本当に謎だ……。一体、何なんだろうこの生物は。と言うか、本当に生物なのか?この一年間で増殖する様子もないし、植物でも動物でもない。最初は粘菌かも共思ったが、粘菌としての性質は持ち合わせていないし……。本当に、何なんだこれは?」
シャーレの中の生物を見て、一二三は思わず考え込んだ。
食料を与えると消化・分解し、刺激を与えると動物の様に動くのに、刺激の無い暗闇に置くと、粘菌の様に小さなキノコの様な形をとる。
その癖、胞子を放出することも無く、刺激を与えるとすぐにまたこのような粘液状の形態に戻る。
一応、蜘蛛や蚕の糸を研究したこともあって、生物学にはそこそこに通じた一二三ではあったが、そこそこ程度の生半可な知識だけでどうにかなるほど、目の前の生物は分りやすい生き物ではなく、ここ数年は糸の研究を行いながらも、この生物の研究もこなしていたのだ。
しかし、どれほど生物学の研究書を読み漁っても、調査や実験を繰り返しても、この目の前の存在を説明する的確な研究結果は得られず、むしろ、研究を重ねる程に『これ』の正体が分からないどころか、謎が深まるばかりである。
ひとまず、余りにも既存の枠組みから抜け出したこの謎の存在に、ギリシャ語で“困惑”と言う意味の、『アポリア』と一二三は命名し、この一年間、暇を作って観察日記をつける事くらいしか、まともに出来る事は無かった。
暫くの間一二三は、シャーレの中のこの黒い物体に対して、考えを張り巡らしていたが、ややあって、結局のところ、考えても分からないという結論に達して、ため息を吐いた。
「……この一年で、ある程度はこの生物らしきものの飼育データはとれたし、折を見て専門機関に出してみるか。どの程度、研究に役立つかは分からないが、何かしらの学問や研究には役立つだろう」
戦争から五年経っても、一年分のデータしか取れなかったのは、終戦直後の混乱は流石にひどく、物資も時間も禄に取れなかったからである。
何しろ、開戦前はアメリカからの経済制裁の煽りを受けて、木炭で動く車を開発するほど、この国は困窮していたのだ。戦争のダメージを最小限に抑えたとはいえ、日本本土には空襲を受け、シベリアやアジアなどの地域に出兵を繰り返したことのツケは、未だに国民一人一人にのしかかる問題となっていた。
「…………本当に、あんな戦争さえ無ければな」
じっとりと引く黒い糸を眺めながら一二三はそう呟くが、そうなっていれば、一二三が『これ』を見つけることはまず無かっただろう。
けれども、仮に戦前の状況で『これ』が見つかったとして、どれほど研究が進んだのだろうか?
研究設備や実験施設こそ整いこそすれ、今の様に潤沢な資金や物資は存在しなかった。
そのような状況のなかで、こいつの研究がどれだけ進んだか疑問だ。それ以前に、こいつを研究しようとする者がいるのかも、疑問だ。
何度も繰り返すが、戦前は貧乏だった。あの戦争に参加した者にも、貧困から抜け出すために志願した者は多かった。
貧乏で死ぬか、戦争で死ぬか。そんな究極の二択から、戦争を選んだ者も多い。
彼らは今も生きているだろうか?生きているのならば、今をどう思うのだろう?
あれほど命がけで手に入れようとした豊かさが、今では誰の手にも手に入る。
そして、現状、日本が豊かなのは良くも悪くも、あの戦争を経験したからだ。
シャーレの中で蠢く黒い物体を見ながら、一二三は思わず考えに耽る。
あの戦争に意味などあったのだろうか?
その意味にどれほどの価値があるのだろうか?
その価値は代償に見合うだけのものだったのか?
ある者は言う。彼らの犠牲は尊い犠牲だと、平和への礎だと。
本当に彼らが尊かったのならば、何故犠牲にならなければならなかったのだろう?
尊くないから、犠牲にされたのではないのか?
こんなことを言うと、或いはこう言い返す者もいる。
それでも、起こってしまった事は変えられない。悲しみを乗り越えて、今を生きろ。と。
けれども、そうではないのだ。
戦争では、戦場では、悲しみなど無かった。
怒りなど無かった。憎しみなど無かった。怨みなど無かった。
いや、或いはすべてがあった様にも思う。だが、根本はそれでは無かった。
ただ、死にたくなかった。ただただ、死にたくなかった。
今、死にたくなかった。明日まで生きたかった。
その果てにようやく、生きていて、今、思う。
――――本当に、これで良いのか?と。
この五年間、ふとした瞬間に考える。
自分がどうしたいのか?自分はどうするべきなのか?
何のために生きているのか?何をするべきなのか?
彼らはなぜ死んだのか?彼らの為にできることはあるのか?
答えは、出ない。
ただ、今一二三が生きているのは、少なくとも、彼らとの約束は、それだけは果たさねばならない。
その義務感だけが、強く胸の内で燻り続けているだけだ。
「…………止めよう。とりあえず今日の所は研究は切り上げて、父ちゃんの手伝いでもしよう」
一二三は、頭の中で反響する疑問を振り払うように頭を振ると、そう呟いて糸を針から外そうとするが、針の先に絡まった糸は、粘ついてうまく取り外すことができない。
そうして、一二三が謎生物の出す糸と格闘する事五分。
「痛ッ!」
イラつきで指先を刺してしまった一二三は、シャーレの中に縫い針を取り落とすと、慌てて針を取り出そうとするが、どういう訳か針に付着する粘着きがひどく、中々シャーレの中から針を取り出せない。
仕方なく一二三は、針を取り出すことを諦めるとシャーレに再び蓋をして抽斗を閉めた。
こうして置けば、明日にでもキノコの形になって、針を取り出せる。
そうして、一二三は未だに血がにじむ指先を押さえて、消毒液でも塗ろうと立ち上がる。
「そう言えば、色葉から絆創膏とか言う物を貰ったけなあ。ちょっと使ってみるか」
そんなことを呟きながら一二三は、自分の部屋を出て行った。
だが、この時一二三は気付いていなかった。
指先から流れ出た血が、ほんのわずかに縫い針の先端に付着していたことを。
そして、その針の先の血が、シャーレの中にいる生物らしき粘着体に触れたことを。
清宮家に怪現象が起こることになったのは、その日以降からの事であった。