隊を脱するを3
太鼓堂を横目に見ながら西本願寺の境内に入った時、後ろからいきなり腕が伸びてきた。
避けると同時に身構えた藤堂は、そこに原田左之助が立っているのを見て警戒を解いた。
「どうしたんですか」
「どうしただと!?」
吊り上った眉が、さらにきりりと持ち上がる。
「さんざん待たせた上に、何を脳天気なことを言ってんだ!」
つかみ損ねた腕をあらためてつかんだ原田は、小柄な藤堂を引きずるようにして、怒ったように歩き出した。
「ちょっ、ちょっと待って。俺はこれから巡回が……」
「他の者に代ってもらった。届けは出してある」
「そんな勝手な!」
さらに文句を言おうとすると、ものすごい顔でにらまれた。
原田は気が短く、怒りっぽいが、わけもなくこんなことをするような男ではない。
藤堂は仕方なく、相手に従うことにした。
連れて行かれた先は、釜屋町にある永倉新八の休息所。
休息所とはいわゆる妾宅のことで、永倉はここに小常という芸妓を身受けして囲っていた。
格子戸を開けて中に入ると、藤堂もかつて何度か宴席で見たことのある美しい女が、武家風の地味な着物姿で出迎えてくれた。
「すまねえな。ちょっと、じゃまするぜ」
軽く声をかけた原田は、自分の家でもあるかのような、慣れた様子で上がりこむ。
軽く礼をしてそれに続くと、永倉は奥の間で酒を飲んでいた。
「つけられなかっただろうな?」
押し殺した声で訊ねられ、原田は音もなく襖を閉めた。
「大丈夫だ。伊東一派と違って、こいつはまだ疑われちゃいない」
何やら深刻そうな二人を前に佇んでいると、永倉が座れと目で合図した。
「伊東甲子太郎から離れろ」
伊東甲子太郎とは、新撰組入隊と同時に改名した伊東大蔵のことだ。
「伊東は入隊した当時から尊皇攘夷を盛んに説いてまわっていた。それだけなら、どうということはないが、最近では薩摩や長州といった討幕派の連中と公然と付き合っているようだ。知らないはずはないが念のため言っておく。副長は甘くない。局長が伊東に好意的だから手を下さないでいるが、それもそろそろ限界だ。隊内に血の雨を降らせたくなけりゃあ、伊東一派を何とかしろ。それが無理なら、おまえだけでもあいつらから離れろ」
「なんだ、そんな事ですか」
「そんなことって、お前……」
あっさりと受け流した藤堂は、目の前の銚子に手を伸ばした。
その様子を、永倉も原田もただただ茫然と見つめている。
「俺には伊東さんの気持ちがよくわかる。今や新選組は崖っぷちだ。どうせ死ぬなら自分の信念のもとに死にたいと思うのは当然ではありませんか?」
淡々と話しながらも、手がかすかに震えている。
それに気付かれないように、静かに盃を干した藤堂は、敢えて笑顔を作ってみせた。
「お前、自分の言っていることの意味がわかっているのか?」
「もちろんわかっているつもりです。倒幕派をいくら斬ったところで時代の流れは止められない。馬関を襲った四国連合艦隊の話は聞いたでしょう? わずか半日で長州藩の台場は壊滅したそうじゃないですか。今の体制で攘夷なんてどだい無理なんです。国内で争っているうちにこの国は滅びる。それを防ぐためには、新しい潮流に身を任せるしかない」
永倉と原田は顔を見合わせた。
二人の前でこんな話をするのは初めてだから、とまどっているに違いない。
「いつからそんなことを考えるようになったんだ?山南さんが切腹させられてからも、おまえは新撰組の幹部として、隊務に励んでいたじゃあないか」
永倉の言葉には説得するような響きがあったが、藤堂の決意を翻すことはできなかった。
それが仕事だと思ったから、意に染まぬこともやってきた。
だが、山南が死んだ今、新撰組に留まる理由などどこにもないのだ。
「副長がなぜ山南さんを処断したのか、俺にはどうしてもわからない。山南さんは脱走したんじゃない。書面や口頭で意見しても副長が耳を貸そうとしないから、今のやり方では隊士がついてこなくなることを身をもって示そうとしただけなんだ。それなのに、なぜ……」
こみ上げてくる悲しみを藤堂は無理やり抑え込んだ。
母を亡くし、右も左もわからぬまま道場に引き取られた藤堂のことを、唯一気にかけてくれたのが山南だった。
剣術も学問も山南が手ほどきしてくれた。
入門とは名ばかりの、痩せて小柄な下働きの少年に稽古を付けてくれる大人など、他には一人もいなかった。
試衛館の食客になったのも、浪士組の一員として上洛したのも、新選組として京へ残ったのも、山南敬助がそうすることを望んだからだ。
山南の背中を追いかけていれば、それで良かった。
だが、山南は、もういない。
「隊規違反で切腹させられてもいいから脱走しようと思ったこともあったけど、それでは山南さんの死を無駄にすることになる。局中法度にふれることなく新選組から抜けることができるのなら、俺はいつでも伊東さんに従うつもりです」
「馬鹿野郎!」
原田の怒声がびりりと空気を振るわせた。
「伊東は土方に睨まれている。これまで土方に睨まれて命を長らえた隊士は一人もいない。お前だって知っているはずだ!」
力ずくでも藤堂を翻心させるつもりで振り上げられた腕は、けれども永倉に制された。
「平助、お前が考えていることはよくわかった。確かに俺達は時代を逆行しようとあがいているだけなのかも知れない。だが、脱藩して行き場のなかった俺や原田が、たとえ一時のものであれ、時代の寵児になれたのは新選組のおかげだ。ぐらつく幕府の屋台骨を何が何でも支えてやろうとまでは思わないが、会津公や試衛館時代の近藤局長には恩がある。色々と面白い思いもさせてもらった。だからこの先にあるものが何であっても、俺も原田も最後まで新選組に付き合うつもりだ」
それだけ一気に言ってから、永倉は藤堂に笑いかけた。
さっきまでの厳しい表情は消え、瞳には優しい色が浮かぶ。
「今日の話は聞かなかったことにしてやる。山南さんの代りにはなれないが、俺たちだって、お前のことを弟のように思っているんだぜ。だがもうお前は、誰かの後をついていくだけの子供じゃないんだなあ。自分の生き方を自分で決めることができるようになれば一人前だ」
「新八……おまえ……」
そう言ったきり言葉をつまらせた原田の背を、永倉はいささか乱暴に抱き込んだ。
そんな二人を言葉もなく見つめていると、ちらりとこちらを見た永倉が困ったように微笑んだ。
「平助、お前もか、たった今、一人前だって、ほめてやったばかりなのに……」
空いている方の手が、今度はこちらに伸びてくる。
強引に引き寄せられ、原田の頭に額をぶつけられた弾みに、ぽとりと涙が膝の上に落ちた。
気がつくと、原田と永倉にしがみついたまま、声を殺して泣いていた。
人前で泣くなんて、この上ない恥だと思うのに……。
なだめるように時折背中に触れる手が優しくて、藤堂は、いつまでも顔を上げることができなかった。
それから一月あまりの後、新撰組参謀の伊東甲子太郎は近藤に新選組を分離させて欲しいと願い出た。
伊東の主張は、隊を脱するのではなく、分離という形をとることで薩長両藩との親交を密にし、有力な情報を収集しやすくするという、いささか詭弁じみたものだった。
もめにもめた挙句、翌年の慶応二年三月に、伊東は局長の許可を得ることに成功した。
従う隊士は藤堂平助を含む十五名。
早咲きの桜に見送られながら、一行は新撰組屯所を後にした。