隊を脱するを1
八坂神社からほど近い桜小路通りに面した診療所では、狭い庭に咲く撫子の花が行く夏を惜しむかのように風に揺れていた。
「綾野、いい子にしていたか?うまい団子を買って来てやったぞ」
奥の座敷に通された藤堂はそのまままっすぐ縁側に出ると、庭で打ち水をしているほっそりとした後ろ姿に声をかけた。
飛び立つような勢いで振り返り、「藤堂様!」とはずんだ声をあげた綾野だが、にこにこしながら団子の包みを掲げている相手と目が合うと、頬を染めて俯いた。
「私、十五です。もう、子供じゃありません」
「そうだっけ?俺には二年前とちっとも変わっていないように見えるけど」
庭下駄をつっかけた藤堂が、からかうように相手の顔を覗きこむと、初めて会った二年前、藤堂が自分のことを十歳ぐらいの子供だと思い込んでいたことを思い出し、綾野は耳まで赤くなった。
「私をいつまでも子供扱いするのは平助様だけです!」
柄杓を持つ手を振り上げると、藤堂は笑いながらも、あわててよけるふりをした。
柄杓の中に残っていた水が跳ね上がり、陽光をあびて小さな虹を作る。
それを見て、二人同時に歓声をあげる。
「いつまでそんな所で遊んでいるのです?綾野も子供だが、藤堂君、君だってそうやっていると、似たり寄ったりに見えますぞ」
庭先でいつまでも笑い転げている二人に、玄斎があきれ顔で声をかけてきて、騒ぎはようやくお開きになった。
「お前のせいだぞ」
照れ隠しに文句を言うと、「ごめんなさい」と殊勝に謝ってみせてから、綾野は藤堂に向き直り、この上なく優雅に礼をした。
「藤堂様、ようこそおいで下さいました。道具を片づけてまいりますので、座敷に上がっておくつろぎ下さい」
少し気取った口上の後、こぼれるような笑みを向けられて、藤堂は我知らず目を見張る。
努めて子供扱いしてはいるものの、実際には誰の目にも明らかなほど、二年という歳月が少女を変えていた。
納戸の方へ小走りに駆けて行く後姿を、気がつけば目で追っていた。
後れ毛の散ったうなじも、着物からのぞく細い足首も、夏だというのに雪のように白い。
「まいったな」
呟いた言葉の意味にすら気付かない。
縁側に座り込んだ藤堂のかたわらを、爽やかな風が吹き抜けていった。
新撰組は我が世の春を迎えている。
西本願寺の北集会所に屯所を移して以降も隊士は増え続け、今では二百名近くにまでふくれあがっていた。
佐幕派の暗殺に血道をあげていた勤王の志士たちも、揃いの浅黄色の羽織を身に着けて市中を巡回する新選組に恐れをなしたように、洛中から姿を消した。
幕府や京都守護職の覚えも良く、資金もそれなりに潤沢で、八番隊長として幹部に名を連ねる藤堂も月々十五両もの手当てを受け取っている。
急にふところが豊かになった隊士の多くは、祇園や島原などの花街にせっせと通い出し、局長をはじめとする幹部の中には、遊女を身受けして妾宅をかまえる者も出始めた。
藤堂も、永倉や原田に連れられてしばしば遊郭で遊んだが、頭のどこかがいつも覚めていて、酒色にのめり込むことはできなかった。
隊から月々の手当が支給されると、真っ先に出かけていくのは玄斎の所だ。
綾野の顔を見るのが目的だが、藤堂自身はそのことに気付いていない。
拾ってきた少女の養育費を渡しに行くのだと自分に言い聞かせ、実際にそのつもりになっている。
だからこそ、金に困っているわけでもないのに手当が支給される日を心待ちにし、手当てを受け取るやいなや、急いで屯所を飛び出した。
「おや、早速、祇園でお楽しみかい?」
でかけようとする藤堂に、永倉と原田がにやにやしながら声を掛けてくる。
手当てを待ちかねたように祇園方面に出かけていくものだから、祇園の花街になじみの芸妓がいると思っているようだ。
否定するのは簡単だが、事実を口にするのは気恥ずかしい。
仕方なく、片頬だけで笑ってみせた。
「君の気持ちは嬉しいが、いくら何でも二両は多すぎる。あの子をあずかっているのは、金が欲しいからではないのだよ」
綾野が薬を届けるために出かけてしまうと、玄斎はまたいつもの話題を持ち出した。
明らかに迷惑そうな相手から目を逸らし、藤堂は持参した煎餅に手を伸ばす。
もちろん頭の中ではわかっている。
今の藤堂にとってはたいした額ではないのだが、一両あれば四人家族がひと月は楽に暮らせるわけだから、玄斎が困惑するのも無理はない。
「綾野は診療所の仕事もよく手伝ってくれるし、私もおかげで生きる張り合いが出た。妻子を亡くして以来、ずっと一人で暮らしてきたが、綾野さえ良ければこのまま養女にしようと思っている」
藤堂の手から煎餅のかけらがぽとりと落ちる。
綾野にとってはこの上なく良いことだ。
思わず顔を上げて相手の顔を見ると、だめ押しのように金子の入った包みが押し戻された。
「この金は、君が命懸けで得たものなのだから、自分のために使いなさい」
「でも、俺は……」
続く言葉を飲み込んで、藤堂は軽くうなずいてみせた。
「じゃあ、そうさせてもらいます。ただ、自分のためにと言われても、新選組にいる限り、食べるものにも住む所にも困らない。物見遊山をする暇もないし、できることと言えば、祇園か島原の遊女を身受けして妾宅を持つことぐらいですが……」
「お、おい、藤堂君!」
思ってもいないことを口にすると、玄斎の表情が変化した。
本気で言っているのかと訊ねられ、藤堂はにこりと微笑んだ。