朱に染まりて2
冬の日はあっという間に暮れていく。
日中は、物見高い見物人で黒山の人だかりだった七条油小路も、日没と共にひっそりと静まりかえっていた。
人気のない夜の道を、綾野は夢中で走っていた。
昨夜とはうって変わって、雪雲が厚く垂れ込めた空には月も星もない。
真っ暗な道を、ただただ必死で走り続けながら、藤堂のことだけを考えていた。
耳に届くのは、自分の荒い息遣いと小さな足音だけ。
身を切るような寒さも感じなかった。
「!」
七条油小路にたどり着いた綾野は、息をのんでその場に立ちすくんだ。
四つ辻の北には伊東甲子太郎の、北東の角には服部と毛内の、そして七条通りを西へ少し行った所には藤堂の死体がうち捨てられていた。
「藤堂様、藤堂様……」
綾野は何度も相手の名を呼びながら、その傍らに歩みよったが、応える声は聞こえない。
「何て……何てひどい、一体、誰が……」
そっと両手に包み込んだ左の冷たさは、藤堂が既にこの世の者ではないことを如実に物語っていた。
綾野の両頬を涙が伝う。
「全てはこの日のためだったのですか?」
額に乱れかかった髪をそっと整えてやりながら、愛しい人に問いかけた。
藤堂が自分のために玄斎に渡していた金のことも、藤堂の自分に対する思いも、そして自分を愛しく思っていたからこそ、自分との間に距離をおこうとしていたことも、本当は何もかも知っていた。
「でも、それでも綾野は、藤堂様を好きになってしまいました」
悲しい告白を口にした時、背後に人の気配がした。
いつからそこにいたのだろう。
黒装束姿の男が立っていた。
夜目にも老人とわかるその男は、いったん屯所に引き上げた後、再び七条油小路の見張りに狩り出されていた三浦常次郎だった。
「藤堂さんを殺したのは私です」
絞り出すような弱々しい声。
一日で十年も年老いたような三浦の姿を、綾野は悲しみに濡れた目で静かに見上げた。
「あなたは誰ですか?」
「三浦……常次郎と申します。藤堂さんが新選組にいらした頃、その部下だった者です」
「本当にあなたが……藤堂様を……」
目の前のいかにも気弱そうな老人が藤堂を殺したとは信じられない。
けれども三浦は何度もうなずいて、その場によろよろとひざまずいた。
「藤堂さんには本当にお世話になりました。私は自分の命が惜しくて恩人を殺してしまったのです。藤堂さんは若くて、強くて、優しくて、そして、あなたのような方もいらっしゃったのに……こんなことなら、あの時、私が死ねばよかった」
周囲の闇の中には十数人の新選組隊士が潜んでいた。
いくつもの目がじっと見守る中、綾野は三浦を見つめ続けた。
真実を語っていることはわかるが、それでもやっぱり信じられない。
藤堂を殺した相手が憎くないと言えば嘘になるが、藤堂を死に追いやったことを心底悔いて打ちひしがれている三浦の姿はあまりに哀れだった。
「私は誰も恨んではおりません」
綾野は三浦に向かって微笑んだ。
「ただ、ほんの少しだけ、藤堂様と二人きりにして頂けませんか?」
三浦は、屯所に戻ったままの永倉と原田に代わって現場の指揮を執っている島田魁の方を振り返った。
島田は無言でうなずいた。
島田もまた藤堂の死を悼む一人だった。
白い花のような雪が、ひらり、ひらりと降り始めた。
けれどもその雪に気付くこともなく、綾野は藤堂の傍らに座っていた。
「藤堂様、お忘れですか?綾野はおてんばですから、藤堂様がどこへ行っても、きっと追いついて、つかまえて差し上げます」
静かに語りかける声は、わずかに笑みを含んでいた。
「今度こそ、綾野を妻にして下さいね」
ささやくように告げてから、冷たい唇に優しく口付け、藤堂が差している脇差しに、そっと白い手を伸ばした。
慶応四年の夏が足早に去っていく。
川上玄斎はぼんやりと縁側に座っていた。
庭の撫子は今年も美しい花を咲かせてくれたのに、どんなに耳を澄ましても、菓子を手にひょっこり裏口から現れる青年の声も、それを迎える小さな足音も聞こえてはこなかった。
失われたものを心の中で追い求めるうちに、心に深く刻み込まれた和歌がふと口をついて出た。
「撫子の……」
撫子の 咲くも見やらで 武士の
朱に染まりて 散るぞ悲しき
それは玄斎の手の中にある、小さな手帳の末尾に書き付けられたものだった。
「藤堂君、武士道などというものは、私にはよくわからない。 だが、この歌に込められた君の心情を思うとたまらないよ」
手帳に点々とついている茶色いしみをいたわるように撫でながら、玄斎は小さなため息をついた。
鳥羽・伏見で幕府軍と薩長軍が真っ向から衝突し、世に言う「戊辰の役」が始まったのは、七条油小路の惨劇から一月半後の慶応四年正月三日のことだった。
慶応三年の十二月中旬に、新選組は伏見方面の警備を強化するために伏見奉行所に屯所を移したが、それからわずか二日後に局長の近藤は高台寺党の生き残りに狙撃されて深手を負った。
そのために、鳥羽・伏見の闘いでは、土方が指揮をとっている。
幕府軍一万、薩長軍三千。
数の上では圧倒的に優勢だったにも関わらず、幕府軍は総崩れとなって敗退した。
この戦い以後、薩長軍は自分たちのことを官軍と名乗るようになり、錦の御旗を押し立てて、幕府と幕府にくみする佐幕派諸藩を圧倒しながら進軍し始めた。
新選組二番組長、永倉新八と名乗る男が川上診療所を訪れたのは、新選組が伏見へ移動する前々日のことだった。