恋2
「よし、とにかく今夜は飲もう!」
原田が明るい声をあげ、永倉が勢いよく手を叩くと、華やかに着飾った芸妓たちが流れ込んできて、座敷はたちまちにぎやかな手拍子と三味線の音に満たされた。
その、宴もたけなわの頃。
藤堂はふいに立ち上がり、通りに面した障子戸を開けてみた。
昼間とは打って変わった冷たい空気が、ほてった頬に心地よい。
狭い通りを隔てた真向かいに、よく似た造りの茶屋の窓が見えた。
座敷の明かりが、宴会に興じる人々の姿を、影絵のように映し出している。
向こうの窓から見れば、こちらも同じように見えるのだろう。
人の一生は、一夜の夢のようなもの。
夢はいつ果てるのか。
その後に何が残るのか。
生と死、そして愛する人との狭間にあって、藤堂の気持ちは激しく揺れ動いていた。
慶応三年十一月。
藤堂は川上診療所の座敷から、ぼんやりと庭を眺めていた。
外にはうっすらと雪が積もっている。
薬をもらいに来る者もなく、空から落ちてくる雪の音さえ聞こえてきそうな静謐な午後だ。
「先生はいつ帰ってくるのだろう」
「少し遠方に往診に行ってらっしゃるから、夕方頃になると思いますけど」
独り言のように呟くと、すぐに答えが返ってきた。
何気なく振り返った藤堂は、そのままの姿勢で固まった。
いつからそこにいたのだろう?
大きな瞳。可憐な唇。白い肌……。
至近距離から穴の開くほど見つめられ、無意識にわずかにのけぞったが、ためらいもなく小さな手が伸びてきた。
ありえない展開に、理性がぐらぐらと揺れ始めた。
頬に触れた柔らかな手の感触に、びくりと身体が震えた時、間近に迫った唇が思いも寄らぬことを口にした。
「唇の色が真っ青。早く戸をお閉めにならないと、風邪をひいてしまいます」
えっ?と思って相手の顔を見た。
よく見れば、患者を診る医者の顔になっている。
熱いお茶を満たした大ぶりの湯飲みを手渡され、藤堂は脱力したまま苦笑った。
「すぐに閉めるよ。ただ、撫子が……」
「撫子?」
「枯れてしまって、淋しくなったなって、思っていたんだ」
撫子は亡くなった母が好きな花だった。
花は藤堂が幼い頃に死んでしまったし、一緒に暮らしていた頃のこともあまり覚えてはいないけど、一緒に撫子の花を植えたことだけは、今でもぼんやりと覚えている。
「おかしいよな。この年になって母親だなんて」
「いいえ、そんなこと……。私も撫子の花は大好き。可憐で、優しげで、それでいてどこか凛とした所があって……。きっと、藤堂様のお母様も撫子のような方だったんですね」
まるでそこに誰かが立っているかのように、綾野は何もない庭を見つめたまま、遠い目をして微笑んだ。
その横顔を見つめたまま記憶の糸をたどったが、どんなに思い出そうとしても、母の顔は浮かんでこない。
小さく吐息をついてから、藤堂はぽつりとつぶやいた。
「撫子みたいな人なら、もう一人知っているぞ」
「それは誰ですか?」
綾野は目を輝かせたが、藤堂は笑って答えない。
本人の前でその名を口にできるはずがない。
それなのに、綾野はだんだんムキになり、たわいない押し問答を繰り返した末、藤堂に向かって手を振り上げた。
「意地悪!どうして教えてくれないんですか?」
こらえきれなくなって、藤堂はぷっと吹き出した。
こういう所は、まだまだ子供だ。
すぐに手が出るあたりは、ひょっとすると自分の悪い影響かも知れない。
「相変わらずおてんばだな。そんなことじゃあ、嫁のもらい手がなくなるぞ」
笑いながら腕をつかむと、綾野は急におとなしくなり、悲しそうに俯いた。
「そんなことないわ……藤堂様なんて……」
長い沈黙の後、ようやく聞こえてきた声が涙に濡れている。
驚いて相手の顔を覗きこむと、潤んだ瞳とぶつかってしまった。
笑ったり、すねたり、怒ったりと、次々に変化する表情は、見ていて飽きない。
けれども泣き顔だけは困りものだ。
「汁粉でも食いに行こうか」
すぐに機嫌をなおすと思ったのに、綾野は無言で首を横に振り、しがみつくように抱きついてきた。
「好きです」
思わず口を開いたが、言葉は何も出てこない。
軽いめまいを感じながら、腕の中の人を見下ろした。
「四条大橋の上で助けて頂いた時から、ずっと、ずっと、好きでした」
背中に回した腕に思わず力がこもりそうになるのをこらえながら、そっと肩を両手でつかみ、静かに自分から引き離した。
「じょ、冗談だろ? ほらっ、もう、子供じゃないんだから……そんな風にしがみつかれたら……」
「そうです。綾野はもう子供じゃありません」
きらきらと輝く瞳に、自分の顔が映っていた。
化粧もしていないのに綾野の肌は透けるように白い。
花びらのように可憐な唇。
やさしい稜線を描いた眉。
美しい鼻梁……。
その全てが愛しくて、触れたいと思うより先に身体が動いていた。
(俺はどうかしている)
柔らかな頬に触れた手が、初めて女性に触れた時のように緊張している。
気がつくと、長いまつげに誘われるまま、吸い込まれるように目を閉じていた。
「どうして……」
長い口付けの後、頬を伝う涙の意味を訊ねられ、ただ無言で微笑んだ。
自分は今、崖っぷちに立っている。
落ちる時は一人で落ちなくてはならない。
頭の中ではずっと警鐘が鳴り続けているというのに、心が勝手に暴走して、もうどうすることもできない。
「綾野、ごめん」
罪の重さに震えながら、藤堂はほっそりとした身体を抱きしめた。