恋1
誰かが足音を忍ばせて近付いてくる。
瞬時に覚醒した藤堂は、そのまま寝たふりを続けながら、全身の神経を近づいてくる人の気配に集中させた。
(刺客につけられていたのだろうか)
背中を冷たい予感が駆け抜ける。
新選組であれば、一人で襲ってくることは、ありえない。
最低でも五・六人は物陰に潜んでいるはずだ。
(右を下にするのがいいか、左を下にするのがいいか、試しそこなってしまったな)
三樹との会話が脳裏をよぎり、そんなことをちらりと考えた。
仰向けに寝転がっているというのは、この上なく不利な状況だが、最初の一人を倒せば何とかなるかも知れない。
間合いが二間までつまった所で、藤堂は身体を反転させ、着ていた羽織を剥ぎ取った。
黒縮緬の羽織がふわりと広がって宙を舞い、相手の視界を瞬時に奪う。
「うわっ!」という叫び声を合図に、すばやく起き上がり、地面を蹴って跳躍した。
その手には、立ち上がりざまに抜刀した、藤原長次が握られている。
瞬きするほどの間にこれだけのことをやってのけたのもさすがだが、振り下ろした刀の切先を、相手の頭上わずか一寸というきわどい所でとめたのは、もはや神業に近いだろう。
「……原田さん」
気抜けしたまま名を呼ぶと、原田は刀を突きつけられたまま、ひきつった笑みを浮かべてみせた。
「だから言ったろ、ばかな真似はよせってさ、魁先生を相手にそんな冗談をやっていたら、命がいくつあっても足りないぜ」
背後の土手の上から永倉新八の大声が聞こえてきた。
「確かに八っつあんの言う通りだ。危うく真っ二つになる所だった」
ぶつぶつ言っている相手に手を貸してやりながら、藤堂は相手の顔を覗き込んだ。
「俺をからかうために、わざわざここまで来たんですか。それとも二人して俺を斬りに来たんですか」
「何だと!」
切れ長の目が剣呑に細められ、不機嫌な声とともに、いきなり伸びてきた原田の腕が、藤堂の肩をがっしと掴んで引き寄せた。
「本気で斬るなら、こんなヘマをやらかすもんか!新八とぶらぶらしてたら、お前がのんきに寝ているのを見かけたんで、刺客に気をつけろと教えに来てやったんじゃねえか!」
「左之、気をつけるのはお前の方だぜ」
耳元で大声を出されて目を白黒していると、笑いながら近づいてきた永倉が、原田を藤堂から引き離してくれた。
「平助が俺を斬るわけない。刀を直前で止めることは計算の上だ」
「ふっ、死ぬまで言ってろ」
「そんなことより、男二人でこんな所をぶらぶらしていて、一体、何が楽しいんですか?」
たわいないかけあいを始めた二人の顔を見比べながら訊ねると、原田はにやりと笑ってみせた。
「そりゃあ楽しいさ。お前も来いよ」
「いや、俺は……」
断ろうとしたが無駄だった。
藤堂の羽織を奪い取ったまま、原田は早くも歩き出している。
「ちょ、ちょっと、原田さん、待って下さい!こんな所を新選組の誰かに見られたら大変なことに……」
「男三人で歩いてえても、切腹にはならんよ」
すまして応えた永倉に、「さ、行こうぜ」と促され、藤堂は唇をかみしめた。
殺るか、殺られるか。
目の前の二人に、この二者択一を当てはめることなど、とてもできない。
「わかりました。こうなったら、地獄にだって付き合いますよ」
「誰が地獄なんて言った?ほらっ、あれさ」
原田はおどけたように前方を指さした。
指差す先に、祇園の花街を彩る燈火が、点々と浮かんでいる。
いつのまにかあたりは暮色に染まっていた。
三人は「島村屋」の屋号を掲げた茶屋の前で足をとめた。
通されたのは二階の座敷。
永倉は芸妓を呼ぶことはせず、一通り酒肴が運ばれた所で人払いをした。
「祇園で遊ぶつもりだったなんて、嘘ですね」
盃を置きながら訊ねると、永倉は眉間にシワを刻み込んだ。
「局長の指図ですか」
「違う、そんなんじゃないんだ」
いつもは冷静な永倉の瞳に、必死の色が浮かんでいた。
「今日は新選組の組長としてではなく、苦楽を共にしてきた仲間として、お前に忠告させてもらう。もう一刻の猶予もならねえ、今すぐ高台寺党を抜けて身を隠せ!」
伊東ともに新撰組を離れた斉藤一は、土方が放った間者であった。
伊東たちの動きは斉藤を通じて逐一新選組に報告されており、高台寺党が薩摩藩と結びついていることは、すでに新選組幹部の間に知れ渡っている。
土方は、月真院の裏山に大砲を据えて砲撃し、さらには小銃隊を率いて夜襲をかけ、高台寺党を一気に抹殺すべしと主張している。
土方に反対しているのは、永倉、原田、そして局長の三人。
近藤は、隊を公然と抜けた高台寺党を許すことはできないが、藤堂だけは何とか助けたいと考えていた。
高台寺党が分離した直後に、新撰組は幕府の直参になった。
不動堂村に新しい屯所を建てて移ってからも、隊士は増える一方で、今では二百五十名を超えている。
どう考えても、十五名対二百五十名では勝負にならない。
「詳しいことは言えないが、鬼副長がそろそろ本気を出してきたって言えば、わかるだろう?」
永倉の言葉に藤堂は静かにうなずいた。
「でも俺は、新選組を脱退して御陵衛士になったことは少しも後悔してないし、鬼副長がどう動こうが、仲間を見捨てて逃げる気はありません」
「何を言っている?お前は生きるために新選組を抜けたんじゃなかったのか?」
「俺は武士です。死を恐れることは……」
「いい加減にしろ!」
それまで黙っていた原田が腹に据えかねたように立ち上がった。
「さんざん心配させやがって!お前は何を考えてるいいだ!それほど死にたいなら、俺が今すぐたたっ斬ってやる!」
啖呵は切ったものの、刀は店に預けたままだ。
仁王立ちしたまま拳を強く握り締め、強い眼差しで藤堂をにらみつけた。
「俺達がどんな思いでお前が出て行くのを見送ったと思う? お前は剣の腕も立つし、学もある。人望だって……。それなのに、山南さんがいなくなってからは、死に場所を求めるように、危険な場所に身を投じるようになった。そんなお前を見ていられなかったから、違う人生を生きて欲しかったから……だから……」
「左之助、もういい」
いたわるように伸びてきた同僚の腕を、原田は弱々しく払いのけた。
「新八、俺はもう、どうしたらいいかわからない。俺達はこいつを助けようと必死なのに、こいつは自分の足元なんか気にもしない。おい、平助、お前がいくら剣の達人でも、何十人もの相手を敵に回して戦うことはできないんだぞ。目を開けて足元を見ろ。自分が崖っぷちにいるのがわからないのか!?」
「ね、原田さん」
原田の話をじっと聴いていた藤堂は、ふわりと相手の名を口にした。
繊細な美貌に浮かぶ微笑みに、原田は気勢をそがれて目を伏せた。
「永倉さんの休息所へ行った時のことは覚えていますよね?あの時も永倉さんと原田さんは危険をおかして俺に忠告してくれたのに、俺は聞こうともしなかった」
「もちろん覚えているさ。何を他人事みたいに?お前にとっては笑い事なのか?」
原田の皮肉な笑みを受け止めたまま、藤堂はなおも言葉を紡ぐ。
笑ったのは嬉しかったからだ。
新選組を脱退したことで、かつての仲間を敵に回してしまった。
永倉と原田がこんな風に自分を心配してくれることが、今はただ、嬉しくてならない。
藤堂の予想外の反応に、原田も永倉も戸惑いを隠せない。
「二人とも、本当にありがとう」
心底嬉しそうな笑みを向けられては、怒りを持続させることは不可能だった。
藤堂の笑顔には男も女も魅了される。
もっとも藤堂自身は、そんなことには全く気付いていないのだが。
「今日のことは誰にも言わない。どうすればいいかをちゃんと考える。俺は逃げも隠れもしないけど、もちろん死にたいわけじゃない。そして、永倉さん、原田さんにも生きていて欲しい。何か方法があるはずだ。敵対する立場にありながら、こんなこというのはおかしいけど、俺はこの先何があっても、永倉さんと原田さんには、変わらないでいて欲しい」
「新選組と高台寺党が敵対しようが俺達には関係ない。何と言っても、長いつきあいだからな。新選組も大変な時だから、表立って波風を立てるわけにはいかないが、俺達もできるだけのことはしてみるさ」
永倉と藤堂は同時に立ち上がり、原田も合わせて三人で手を握り合い、互いの顔を見つめ合った。
だが、三人の男たちが目を潤ませて見つめ合っていたのは、ほんのわずかな時間にすぎない。
すぐに芝居じみた行為が恥ずかしくなり、誰からともなく大声で笑い出した。