御陵衛士2
「私だってちょっと前までは島原で鳴らした芸妓ですよ。あの子の姉は祇園でも一、二の売れっ子だったから、病であっけなく死んでしまった時は、それはもう大変な騒ぎで……。その妹が診療所へ引取られたっていうので、わざわざ深草太夫と一緒に見に行ったんですから」
永倉は苦笑を浮かべたが、気になることが一つあった。
深草太夫は局長の妾だ。
女たちの口を通じて、このことが局長の耳に入ったら、あの子に危険が及ぶかも知れない。
「今日見たことは誰にも言うんじゃないぞ」
真顔になって告げると、小常はぽんと胸を叩いてみせた。
「まかしておいて下さいな。花街の女は口が軽くちゃ務まらない。誰にも言うものですか」
さらにあれこれ言っているのをうわの空で聞きながら、永倉は藤堂のために自分が何をしてやれるかを考え始めた。
御陵衛士になってからも藤堂たちの忙しさは変わらないどころか、これまで以上に忙しくなったかも知れない。
当面の目標は同士を増やすことであり、御陵衛士たちはそれぞれのつてをたどって諸国を巡り、遊説を行った。
寸暇を惜しんで学問にも打ち込んだ。
幕府がフランスとさかんに交易し、フランス式軍隊の増強に力を入れていたのに対し、薩摩や長州といった西国の雄藩は、英国との結びつきを深めている。
伊東は薩摩藩を通じて英語の教本や火薬の調合などに関する書物を取り寄せ、時には専門家を招聘して勉強会を行うこともあった。
「あの、藤堂さん……」
月真院の庭石の1つに腰掛け、習ったばかりの英単語を暗記していると、三樹三郎が声をかけてきた。
三樹は伊東甲子太郎の弟で、年は藤堂よりも7つ上。
新選組時代は兄の威光で伍長に任命されていたが、剣の腕は平隊士よりも劣っていた。
そのせいか、新選組四天王の一人と言われた藤堂には一目置いており、まるで目上に対するような話し方をするのだが……。
手帳を手にしたまま顔をあげると、大真面目な面持ちで顔を覗きこんできた。
「加納さんたちと口論していたのですが、藤堂さんは右を下にして寝るのと、左を下にして寝るのと、どっちが良いと思われますか?」
「は?」
「寝ていて刺客に襲われた時の話ですよ。刀を抱いて左を下にして寝ていた場合、何かあった時にはすばやく応戦できるものの、最初の一撃で右手をやられたら、もう戦いようがない。その点、右を下にしていれば、左手をやられても、まだまだ右手で応戦できる。とは言え、反撃が遅れるのは避けられない……」
「随分と……物騒な話ですね」
笑い出しそうになるのをこらえて言うと、相手は真剣な面持ちでうなずいた。
新選組を分離して以来、ひとときも刀を離せなくなったのは藤堂も同じである。
深夜の襲撃に備え、布団の中で刀を抱いて寝ているというのも嘘ではない。
(だが、右が下とか左が下とか、これはまた……)
自分以外の御陵衛士たちは、新選組の真の恐ろしさを知らないのだ。
そのことをあらためて確認させられて、藤堂は少し憂鬱になった。
新選組初代局長に芹沢鴨という豪傑がいた。
神道無念流の免許皆伝で、剣術の腕は群を抜いていたが、酒乱の上、女癖が悪く、新選組に在籍していたわずか半年ほどの間に、平隊士を斬殺してその女を我が物にしようとしたり、借金を断ってきた商家の土蔵に大砲をぶち込んで燃やしたり、遊郭で暴れまわった上、勝手に営業停止を申しつけたり、数えあげればきりがないほどの乱暴狼藉を繰り返した末、とうとう近藤派の連中に暗殺されてしまった。
糸を引いたのは土方だった。
まずは、島原の一流料亭「角屋」で総揚げの大宴会を催し、腹心の隊士を総動員して芹沢の機嫌を取らせ、酒をどんどんすすめさせた。
おだてられ、持ち上げられ、すっかり良い気分になった獲物が、酔って前後不覚になるまでに、それほど時間はかからなかった。
酔ってふらふらになった芹沢を、芹沢の腹心である平間と平山に命じて屯所まで送らせた後も、その日の宴会は終わらなかった。
土方は夜遅くに何食わぬ顔で屯所に引き上げ、いったん自室へ落ち着いた後、沖田、山南、原田の三人を伴って前川邸を後にした。
通りを挟んだ斜め向いにある八木邸で、血生臭い暗殺劇が繰り広げられたのはその直後だったが、直接手を下した四名の他に局長の近藤を除くと、誰もこのことを知らなかった。
騒ぎを聞きつけた藤堂たちが八木邸に踏み込んだ時には、天井と言わず、襖と言わず、あたり一面血の海で、その中に、なますのように斬り刻まれた真っ裸の芹沢と、首と胴体が斬り離された平山、芹沢の愛妾お梅の死体が無残に転がっていた。
芹沢の死因は隠され、会津藩には病没と届けられた。
芹沢のために挙行された葬儀の席上で、近藤は長い弔辞を朗々と詠み上げた。
事の真相は山南から聞かされた。
葬儀に参列した山南の顔は真っ青だった。
思えばこの日を境に、山南は土方を毛嫌いするようになったのかも知れない。
「さあ、どうでしょう?」
三樹の生真面目そうな顔から目を逸らし、藤堂は考えるふりをした。
「俺は寝相が悪いので、寝る時にどっちを向いたところで、あまり意味がなさそうだ」
「寝相……ですか」
「ええ、まあ、そういうことです。俺の場合、どちらが下になっているかは寝相次第です」
下らぬ論争に巻き込まれるのはまっぴらだ。
手帳を懐につっこんだ藤堂は、爽やかな笑顔を残してその場を立ち去った。
誰をも魅了する笑顔は門を出ると同時に消えた。
(刀で斬りつけられてはじめて刺客に気付くようじゃ、どのみち助からない)
それが本当の答えである。
斬られた時の対応より、斬られる前にいかにして斬るかを考えなくては意味がない。
(伊東さんは甘すぎる)
自分の弁舌をもってことにあたれば、いかなる相手をも説得できると自負している。
全てを自分の物差しに当てはめて判断してしまうのは、天才、伊東甲子太郎の甘さであり、大きな弱点だ。
はけ口のない苛立ちを抑え込みながらひたすら歩いていくと、河原に出だ。
河原にどかりと腰を降ろした藤堂は、そのまま仰向けに寝転がった。
千切れ雲がゆっくりと流れていく。
「ぐうとないと……こんばんは」
藤堂はその雲に向かって、先ほど手帳に書き込んだ不思議な響きの言葉を、小さくつぶやいてみた。
「ぎふみい……私にくだされ」
「せんきゅう……ありがとう」
「あいらぶゆう……私はあなたが……」
好きですと口にすることができずに青天井を見つめていると、美しい少女の面影がぼんやりと浮かんできた。
「あいらぶゆう」
そっと真顔で告げてから、藤堂はくすりと笑って目を閉じた。