01:Prologue-A
手を伸ばしても、何も掴めなかった。
当たり障りの無い日常生活を送ること。
人々が“普通”や“当たり前”と口を揃える酷く曖昧で歪な価値基準に馴染み、組織に溶け込もうと努力し続けた結果は散々だった。
己が彼等の価値基準に対する適応が叶わない――――その事実を深層まで受け入れてしまった事態を自覚した時、自分自身は何の為に生きているのか、何の為に生かされているのかは判らなくなった。
それは、熟慮するしないと言った簡単な問い掛けでは無かった。
何を成し、何を得るか。
己が願望を具現する為の道程を定める単純な始点に辿り着く事も叶わず、それを思い至る為に立ち止まり、振り返ろうとした頃には既に手遅れだった。
答えの無い泥沼は思考を深みに誘おうとも、新たな泥沼を呼ぶだけに成り下がり、結論として己が時を刻み、営みに参加する行為が既に苦痛以外を感じ取ることが出来ない落伍者と成り果てていた。
行動を起こし踏み出すべき一歩は、自己の見えない傷を深めるのみに終始する。
“生きる”と言う事はその傷を噛み締め続けなければならず、碌に息の抜き方を知らずに歳を刻んだ自分にとっての生活は地獄の様なものだった。
“すべきこと”や“望むこと”。
掲げた灯火は、恐らく自分自身にも在ったんだろう。
でも、今では思い出せない。
何に憧れ、何を抱いたのか―――――この霞んで濃霧を纏った思考回路は、如何なる問いを投げても回答不能を示すのみだった。
故に自己に見切りをつけて外へ答えを求めたが、結果は自己に対する問い掛け同様に散々だった。
元々、事態に対してジックリと腹を割って話せる相手は居なかった。
肉親からの言葉は其々異なるが大抵「貴方が決める事には賛同する」と言う回答に帰結する為、相談には成り得なかった。
だから、あまり親しくは無かった第三者に相談出来そうだと見込み、対話に踏み込んだ結果は、相手は鼻で笑った挙句に単なる“甘え”と結論付けられただけの唯の徒労に終わってしまった。
嗚呼―――結局、摩耗の末に辿り着いた先は、何もかも無駄だと言う事なんだろうか。
これなら、俺が無理を通してしがみ付く必要は何処にも存在しなかったんだ。
―――――有りもしない“何か”を他者に期待をしてしまったこと。それが一番の間違いかもしれない。
今眼下には、何処か人々の営みの希薄さと冷酷さを感じさせる人工物の群れが広がっている。
一歩踏み出せば簡単に滑落出来る位置だが、不思議と恐怖は感じなかった。
心残りに至っては特に何かを思う事も無かった。
―――――俺と言う存在に特段の意味は無い。居なくなれば、寧ろ世の歯車は正常に回るんだから。
守るべき者も無いし、戻るべき場所も無い。
苦楽を分かち合うべき仲間も居ない。
悲嘆する存在が居ない訳ではないが――――このまま、あの人達に迷惑を掛け続ける訳にもいかないと思う。
何もないと思えばこそ、この破滅への一歩を躊躇いなく踏み出す事が出来た。
自己を現世に辛うじて踏み留めていた脆弱な鎖が綻び途切れた今、俺を縛る楔は既に何も無かった。
誰が悪い訳でも無い。
“自分自身が悪い”――――社会が弾き出した答えは、俺も正しいと思う。
恨み辛みや後悔ですら欠片ほども抱く事無い。
頭が勝手に映す走馬灯には何も感じることも無く、刺激的な転機もなく平坦な道を辿った平凡な我が道に対して、特に無念を抱くことも無い。
何処か感情を欠落させた様な自分自身は只々、何処までも堕ちていく。
そんな最中、ふと人々が崇め奉る存在に対する祈りが唐突に浮かんだことは、少しだけ意外で、少しだけ可笑しかった。
―――――カミサマは自販機じゃないって言うのに。
都合の良い時だけ信仰し、奇跡を願う行為には皮肉を覚えたが――――同時に、最後の戯言なので寛大な御心でせめて小耳に挟んで欲しいとも思った。
願わくば、――――……来世は、何もかも正反対である事を。
何気無い不変の日常でも良い。大切な存在に寄り添い、大切な日々と心に感じられる人生を。
表現を修正しました。