二人の出会い編(1)
一年生のころ、僕は高校生活を目立たずにひっそりと過ごした。
運動神経は球技や陸上によって差はあるものの、総合したら平均値の前後を行ったり来たり。
学業成績は古典と英語は苦手だけれど、数学と歴史は得意なためにこれも総合で見たら前後の人数はほぼ変わらない順位。
染めたことのない黒髪に黒い目。強いて言えば少し黒目勝ちということくらいか。
つまり僕は自分で言うのも悲しくなるくらいにどこにでもいるような平凡を絵に描いたような男子高校生なのだ。
それでも友達は普通にいたし、むしろ多いくらいだった。学校行事もほどほどに楽しんで、同じ帰宅部仲間と下校途中に繁華街にぶらりと立ち寄って遊んだこともある。
僕は決して学校内で目立つ存在ではなかったもののそれなりにハイスクールライフを満喫していて、そんな日常に不満などなかった。確かに平和だったのだ。
それなのに――
「おい」
この現状はなんなんだろうか。
久しく学ランに身を包んだ僕は始業式を無事に終え、昇降口に貼り出されたクラス振り分け表を人をかきわけつつ確認し、二年B組へと足を向けた。
B組に着くと一年時のクラスメイトや他クラスにいた友人、他にも話したことは無いが見かけたことのある顔や初めて見る顔などが勢ぞろいしており、各々自分の友人と輪になりつつどこか緊張したあの新鮮な空気に既視感を味わう。僕もその空間に踏み入るため、友人に分類される人たちのところに挨拶に行くことにした。
「おっ、笠原もB組なのか」
「同じクラスだったんだね。これからよろしく」
「久しぶりだな。最近は廊下ですれ違うだけだったよな?」
「うん、久しぶり。そうだね、お互い違うクラスだったし」
「ま、これからは同じクラスメイトになるんだし、よろしくな」
「俺とは春休みも遊んだよなー。またあのクレープ屋行こうぜ」
「お前はどこぞの女子か」
「男の子だってスイーツ大好きなんだぜ?」
「しなつくんな。キメェ」
「あははっ」
友人たちとの他愛もない話。久しぶりにあった面々は最後に会った以来多少髪型や学ランの着方は変わっていたものの態度や立ち位置は相変わらずで、つかの間の会話を楽しむ。
「それで、笠原の席はどこなんだ?」
「えーっと、確か窓際の……ここだね」
黒板に貼ってある座席表を思い起こしながら窓際二列目の一番後ろに移動する。
「おー、結構良い席じゃねぇか」
「お前と違って笠原は睡眠学習なんてしねぇだろ」
「うるせー! 授業は寝るためにあるようなもんだろうが!」
「ねぇよ。馬鹿か」
変わりない友人たちとのやり取りに自然と緊張感は拡散していく。というか僕だって授業中居眠りくらいする。ただそれはシャーペンを握りながらノートに目線を落として一心に書きこんでいるように見えるという姿勢を崩さないスキルを習得しているために一度もバレたことがないというだけだ。そしてそれが僕の特技だったりもする。そんなものが特技かよって鼻で笑われそうだから言わないけれど。
新しく担任になる教師も来ないのでしばらくその場に留まって話をしていると、ふと友人の一人が思い出したように言った。
「そういえばよ、今年はB組なんだろ? あの一匹狼」
「あぁ、運悪くな」
「ゲッ、俺らツイてないなー」
「何の話?」
いまいち話についていけなくて尋ねると、二人は驚いたように僕を見た。
「お前知らねぇの? 俺たちと同じ学年の問題児」
「この界隈にいる不良数人を病院送りにしたって噂とかあるんだよ」
「それだけじゃねぇよ。俺らみたいなひ弱な一般人にも目ぇ合っただけでぼこ殴りだっつー話だぜ?」
「あ、もしかしてA組だった人?」
「そうそう。俺B組だったから見かけたことあるけど、目つきわりぃし近寄りがたいオーラ出してたぜ。噂もあながち間違いじゃないのかもな。ほそっこい体してこの学校にいるどんな屈強な奴よりも強いってのが不思議だけど」
あまり噂話などには詳しくない僕でも聞いたことのある人。A組のとある生徒が実質この学校を牛耳っているというものだ。でもその人に会ったこともないし、話を聞いた時も無感動に相槌を打っていたために記憶の奥の引き出しに埃を被ってしまわれていた。
「まあ関わらなきゃいいんだよ。要は目ぇ合わせなきゃいいわけだ」
「俺目ぇ合っただけでちびりそー」
「お前高校生にもなってお漏らしとかすんなよ? その時点で縁切るから」
「ひでー。ほんっと友達甲斐のねぇ奴だよな。笠原もそう思うだろー?」
結局いつものグダグダなやりとりに戻ったところで話をふられて曖昧に笑ってごまかしていると、担任らしき人が入ってきた。
四十代後半の頭が寂しそうな男は、教室に入るなり偉そうに着席を促した――というよりは命令した(その際友人がとことんツイてないよな俺たち、と肩を落としていた)。教鞭を奮った年数を重ねて教職に自信を持った教育方針を悪い意味で定めたタイプには何回か遭遇したことがあるために雰囲気で分かる。この人は、そういうタイプだ。それもこういう人に限って、上下関係を気にして上には腰が低く下には偉そうに踏ん反りかえる。そんな僕の勘が当たっていたと実感するのはもう少し先の話である。
席に収まった僕たちを見渡すと、僕の左隣に目線を固定し目を眇めた。
「乳臭いガキの分際で俺のクラスで問題起こすんじゃねぇぞ」
僕の左隣にはただその機能をなしていない机といすがひと組あるばかりだった。それを睨むように見る先生は、初日に欠席した生徒にまで難癖をつけるらしい。嫌な教師に当たったものだと嘆息した僕は、先生の意図した本当の意味に気づくことができなかった。
「……今からプリントを回すから目を通せ」
忌々しそうに視線を外してホームルームは始まる。左の空席は結局その日は埋まることはなかった。
――彼女に初めて対面したのは、それから三日後のことだ。
いつものように遅刻ギリギリに教室に滑り込むと、それを目撃したクラスメイト達に笑われた。ここ数日間クラスのほぼ全員と会話を済ませた僕は自分の席に向かうまでに目が合った人たちと挨拶を交わす。既に僕が朝に弱いということが周知の事実であるほどには親交を深めていた。
席に着く前に、いつもの埋まらない席に人が座っているのに気づく。襟足だけを長く伸ばしたシャギーウルフのような髪に、横顔だけとはいえ一目で端整だと分かる顔。
一瞬男の子かと思ったけれど、短いスカートを履いていたためにそうではないと知る。今までいなかった隣人に、嬉しさで自然と頬が緩んでしまった。目的が座ること以外にできたことに足取りも軽くなる。
「おはよう」
皆と同じように声をかければ、今まで騒がしかった教室が水を打ったように静まり返った。視線が一気に教室の一角に集中するのを身を持って体感する。
……え?
戸惑いを感じながらも周囲の様子を窺う前にゆっくりとこちらに振り返った少女の切れ長の瞳と視線が交錯する。
――はっと、息をのんだ。
筋の通った鼻も、すっと朱を引いたような小ぶりの唇も。キリリとした形のいい眉も白磁の肌理細やかな肌も、完璧なまでに計算しつくされた作り物のような顔に思わず息をするのも忘れてしまう。
そして何よりも、全体的に色素の薄いなか強い意志を灯す鋭い双眸。誰も寄せ付けないようで、誰をも惹きつける睫毛にふちどられた印象的な灰色がかった瞳。
綺麗な顔立ちにしばし見惚れていると、少女は興味を無くしたように再び目線を前に戻した。やがて張り詰めていた糸が緩むように皆の視線は解かれ、教室はぽつりぽつりと喧騒を取り戻すのがわかった。どことなくぎこちなさを残しながらも。
十数秒にも満たないその時間が妙に瞳孔に焼き付いてはなれなかった僕は、ショートホームルームが終わった直後にかけられた声にも、なかなか反応することができなかった。
「おい、笠原お前何してんだよ」
咎めるような口調で我に返った僕の目に、信じられないものを見るような友人の表情が飛び込む。いつにないその様相に動揺した僕の声は必然的に掠れた。
「な、にって何が」
「アイツだよアイツ! 学年一の不良! 問題児! 皆いつも通りに振舞ってるっつーのにお前は――っこのエアークラッシャーめ!」
エアークラッシャーは酷い。言いすぎじゃないだろうか。――って、不良?
「え、もしかしてあの人――」
振り返った先にもうあの人はいなかった。きっとSHR後に席を立ったのだろう。僕はそれに気付かないほど意識を地平線の彼方に飛ばしていたらしい。
そんなことよりも、凄く嫌な予感がする。現実逃避のためにまた別なところに意識を飛ばしそうだった僕を強引に引き戻す残酷な言葉が紡がれる。
「あれが、元一年A組学校の裏番長って呼ばれてる岩波千歳だ」
いや、裏番長ってどこの時代の人だよ。というか、女の子だなんて聞いてないよ?
そんなツッコミさえ、入れられなかった。うん、僕終わった気がする。