雪に眠る
作品の詳細にも記載しましたが流血、カニバリズム表現、非倫理的表現を含みます。
一
吹雪の中、花嫁行列が行く。
花嫁を乗せた籠が前を通ると、村人たちは雪に埋もれるようにして頭を垂れた。今日、花嫁は鬼の下へ嫁入りする。
鬼の屋敷は、村から少し外れた山裾に位置する。この日のために作られたその御殿には、四階建ての立派な楼があり、最上階を天守と呼んでいた──その日の天守は雪に煙り、はるか高みから人々を見下ろしている様を想像させた。籠を降りた花嫁は、屋敷の広間に面する庭に伏して待つ。
花嫁の白無垢にしんしんと雪が降り積もる。
鈴の音が響き渡る中、屋敷の奥から一人の女が現れた。黒い打掛を翻し、縁側に立つ。
「顔を上げられませ、花嫁殿。」
花嫁は顔を上げ、声をかけた女をまじまじと見つめた。冴えた眼が花嫁を見下ろしている。そしてその眼の上、ぬばたまの髪の間からは、一本の角が聳えていた。
この女こそが、御殿の主、嫁取りをした鬼そのものである。
御殿は、大広間や炊事場のある平屋敷と、楼からなっていた。楼は鬼の私室で構成されている。一階につき四部屋あり、鬼は週ごとに部屋を変えていく。それが三階まで連なり、四階の天守は『角絶ち』のための儀式の間となる。
鬼は元々、村の地主である隠家の娘であった。その昔、隠家の当主が山を下りてきた鬼を退治した折に呪いを受け、代々鬼子が産まれるようになったという。歳を重ねる毎に角が伸び、癇癪が酷くなり、動物の血肉を欲するようになる。呪いが最も激しくなる数えで十七の年の冬に、村から嫁を出して鬼の霊を慰める『隠籠り』を行う。隠籠りは三月かけて行われ、最後に角を切り落とす『角絶ち』をすることで、ようやく呪いが解かれるのだ。
当代の鬼、淡月は特に癇癪の酷い、気難しい女であった。祝言の時、「男のくせに花嫁にされて、恥ずかしくは無いのですか」と花嫁に言い放ったきりすぐに部屋に籠り、花嫁を一切近寄らせず、部屋で暴れるか泣くかのいずれかで日々を過ごしていた。祝言から初めての部屋替えの日、その部屋の荒れように花嫁はたいそう驚いた。絢爛な装飾は見る影無く、襖は裂かれ、花器は割れ、至るところが血濡れで黒く変色していた。琴と三絃のみが被害を免れていて、淡月はそれだけを大事そうに抱えて次の部屋へ移った。
そうして四つ目の部屋に入った頃、しびれを切らしたのは花嫁の方であった。鬼の花嫁に選ばれるのは大変名誉なことであり、この身を捧げることだけを願って嫁入りした花嫁にとって、務めを果たせぬことは非常に所在なく、恐ろしいことであった。また、しびれを切らしたのは花嫁だけでは無かった。隠の本家から、定期的に届く食材と共に小刀と血の入った小瓶がいくつか届けられた。
その日の夜、花嫁は淡月の部屋を訪れた。部屋に入っても良いか花嫁は訪ねたが、淡月は変わらず「近寄るな」と叫んで戸を固く閉ざした。それきり花嫁が何も言わなくなったので、大人しく平屋敷に戻ったのだと油断していた。
──何かが飛び散る音がした。
格子窓から、血の匂いが流れ込んでくる。
淡月が戸を開けると、そこでは花嫁が首から血を流して座り込んでいた。吹き出す血を見て、淡月は生唾を呑み込む。花嫁は血でしとど濡れた両手を椀の形にして、零れ落ちるのもそのままに差し出した。
「お召し上がりください、旦那様」
夢を見た。
夏の日差しで温くなった水に足をつけていた。
母が呼んでいる。手を伸ばすと優しく抱きしめてくれた。角が伸びてから、触れることも厭われた。きっと全部大丈夫になったんだ、そう思って涙が出た。温かかった。温かい水の中にいた。
月明かりが部屋の中を照らす。
水気を含んだ布が音を立て、そこから冬の冷気によって温もりが消えていく。淡月は暫くの間、血濡れの花嫁に跨ったまま呆然と眺めていた。ふと視界の端に花嫁が持っていた小刀を捉え、弾かれた様にそれを掴み取って手のひらを裂いた。流れ出る血を花嫁の口に押し付ける。
「…なさ、…めんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…」
血は花嫁の口から溢れ出るばかりなのに、淡月の傷はみるみる塞がっていく。今度は手のひらを刺し貫いて血を吸い出し、花嫁に口付けた。何度も繰り返し、花嫁の上で獣の様な呻き声を上げて泣き、血濡れの手を何度も畳に叩きつけた。ふと、頭に何かが触れる。
「旦那様、」
ごぼごぼと咽せながら花嫁は淡月の頭を撫でる。
「これまで、よくお一人で堪えて……」
頬を撫でる。淡月は今度こそ大声を上げて泣いた。
二
本家から送られてきた小瓶──アンプルの中身は、まさしく淡月の血液であった。本来であれば祝言の日に血の盃を交わす習わしだが、隠籠りに対して頑なであった淡月を見越して用意していたものだった。事実、淡月は血を花嫁に与えなかったため、花嫁は予め血を飲んで淡月の下へ赴いたのだ。
格子窓から差し込む、雪に反射した日の光にアンプルを掲げる。夜伽を行ったことで状態の安定した淡月は珍しく自室を出て炊事場まで降りていた。淡月は静かに話を聞いていたが、徐に予備のアンプルを全て手に取ると土間に叩きつけて割ってしまった。驚く花嫁を他所に、近くにあった包丁を手に取って手のひらを切りつけた。溜まった血を差し出して花嫁に言う。
「こんないつ取られたか分からない血ではなくて、これからは私から直接飲んで頂戴」
花嫁は少し動揺してから、緊張した面持ちで、恭しくその手を取って口付けた。
「それと、」
花嫁が飲み干すのを待って、淡月が声をかけた。気まずそうに祝言の時の素っ気ない態度を謝罪して、「私、貴方の名前も、聞いてなかったわ。だから、」と、もごもごと口にした。
「……雪人、と申します、旦那様。」
雪人、と淡月は繰り返した。容姿に似合った良い名前だと思った。淡月はその名を数回口で転がして、向き合った。
「雪人。」
「はい、旦那様。」
「私は旦那様と呼ばれるの、好きではありません。」
雪人はきょとりとして、少し考える様子を見せた。
「では……淡月お嬢様、とお呼びしても?」
淡月は満足そうに息を吐いて、「…良いでしょう。」と不遜に言うので、雪人は思わず破顔した。
初夜以降、二人はよく言葉を交わす様になった。淡月が己の好物の話をすると、雪人は喜んでそれを作った。また、肌を切り裂く様な冬の寒さの中、雪人が平気な顔をして粗末な着物を尻っ端折りして歩き回るので、見かねて半纏を渡してやるとたいそう喜んで、大事そうに着るのを見て淡月は口をもごもごとさせ落ち着かない様子を見せた。
弦楽を聴かせてやることもあった。人に弾いて聴かせるのは初めてで、いくつか要らぬところを弾いてしまったことを恥ずかしく思っていると、雪人はにこやかに微笑んでこう言った。
「私は芸事に明るくありませんので、演奏の良し悪しをお答えすることは出来ませんが、私はお嬢様が私のために弾いて下さったことが何より嬉しいのです」
雪人は良く気の回る、物腰の柔らかな男だった。そして、非常に美しい男でもあった。髪は色が無く緩やかにうねっていて、雪柳の様なたおやかさを持つ男だった。鬼である淡月よりも余程浮世離れしたその容姿に、村の男など似たり寄ったりだと思っていた淡月も驚いたほどだった。祝言の一月前、御殿を建てるため呼ばれた大工達が花嫁のことで大変下世話な噂をしているのを耳にして、──淡月はその場でその大工を締め上げ壁に投げ飛ばしたが──その様にうわつくのも些か納得してしまう程の美しさだった。
淡月はその美しい男を、週の終わり毎に血みどろにして喰い尽くした。夜が明ける度に自分のしたことの醜さと恐ろしさで布団に籠って泣いているのを、雪人は構わず抱きしめた。
「その様に悲しむことは無いではありませんか。もうすぐ二月が経ちます、きっと角も無事落とせます、貴女の苦しみ全ては鬼の呪いの所為なのですから……」
雪人の言うことは正しいと思えたが、なんだか無性に腹立たしくも思えて、それも全て鬼の呪いの所為なのだと無理やり思い込んで雪人の胸に顔を埋めた。角が当たらないように顔を横に向けているので心臓の音が良く聞こえて、淡月はその音が泣きたくなるほど好きだった。
そんな葛藤を他所に、儀式は確実に成されていった。雪人は、血に沈みながらもまるでこの世で最も幸せな人間であるかのように微笑んで淡月に手を伸ばした。
気づけば三月目の半ばを過ぎようとしていた。
三
儀式の終わりを目前にし、淡月は一転して落ち着きを無くしていた。己の手を噛んで血を啜ることで喉の渇きを癒して、夜伽を矢鱈と拒むようになった。隠籠りの初めの頃に戻ってしまったかの様子に、雪人は困惑した。
「恐ろしいのです、」
自分の身体を抱きしめるようにして縮こまりながら淡月は呟いた。
「鬼で無くなった後の私は、一体何になるのでしょうか。」
雪人は背をさすって、「元の淡月様に戻られるのですよ。」と声をかけた。淡月の涙に濡れた顔は常より年相応に見えた。
「今の私は何処に行くのでしょうか。貴方を傷つけて悦に浸っていた私は?」
「それは貴女の裡に居る鬼の所為ではありませんか。貴女は私を傷つけた後いつも苦しんでいらっしゃった……お嬢様は優しいお方です、貴女はその苦しみから救われるべきなのです。」
淡月は「いいえ、」と首を振った。その後に言葉を紡ごうとしていたが、口を戦慄かせるばかりで、結局何も言えず口を閉ざしてしまった。雪人はそっと淡月を抱きしめる。
「山の向こうに何があるかご存知ですか?」
雪人の胸で淡月は小さく首を振って、「本で読んだ知識しか知らないわ。出たことないもの。」と投げやりに呟いた。
「本を読むことも、琴を奏でることもお好きでしょう?きっとそれ以外の沢山の喜びが、山の先にはあると思います。貴女は勤勉で、聡明なお方であることを私は知っています。角が無ければ、貴女は何処までだって行ける。……ですから、どうか、恐れないで。」
淡月は何も応えなかった。夜は容赦無く明けていく。
角絶ちの日、淡月は先に天守に登っていた。泣き腫らした目で、凛と背筋を伸ばして、気丈に座っていた。
「──失礼いたします。」
角は、祝言の日の輝かしい姿と打って変わって、古い木の幹のようにひび割れ、脆くなっていることが見てとれた。正面に座った雪人は、淡月の前髪を丁寧に払って角を清め、この日のためにあつらえた白木の持ち手の鑿を手に取った。
その手に、淡月の手がそっと添えられる。
「──貴方の言うことが尤もであることは、良くわかっています。」
淡月はぽつりと言葉を紡いだ。重ねられた手に力が籠る。
「血を飲まないと喉が渇いて仕方が無いのは、確かに鬼の呪いであったように思います。……年を重ねる毎に、私の感覚は鋭敏に、鮮明になっていきました。瓦に止まる鳥の爪音も煩わしく、雪に跳ねる日の光は眩しくて堪らなかった。全てが煩わしく、暴れ回る心の裡を鎮められなくて毎夜泣いていた。それでも、
……それでも、その私も、確かに私だったのです。未来への想像から目を背けることは愚かなことかもしれません。でも、苦しんだ私も、貴方を傷つけた罪も、無かったことにしたく無い。全て過去に追いやって、何も知らぬ顔で過ごすのは、もう私には出来ないのです」
涙は出ていなかった。重ねた手に角を押し付けるように、伏して声を絞り出した。
「貴方には、……貴方にだけは赦されてはいけないこともわかっているの、でも。……どうか角を落とさないで。私を鬼のまま死なせて下さい」
雪人は何も応えないまま、そっと鑿を床に置き淡月の頬に両手で触れた。その力に逆らわず、ゆっくりと顔を上げていると、急に顔を引き寄せられて、気づけば口付けられていた。
何かが流し込まれて、喉を滑り落ちていく。
雪人の身体を突き飛ばして、吐き出そうとするが力が入らず崩れ落ちていく。頭が、身体が、意識が乖離していく中、雪人が「申し訳ありません、」と言う声が聞こえたのを最後に、淡月は失心した。
目を覚ますと、板張りの天井が見えた。見知った生家の天井だった。跳ねるように飛び起きる。
辺りには、親族や村の者が淡月を取り囲むように所狭しと座っていた。「おめでとうございます」と一斉に声を上げたかと思えば、皆一様に手を合わせて淡月を拝んでいた。
「淡月、」
枕元には両親が座っていた。母親は涙を浮かべて淡月の手を握る。その手を払って額に触れるとぼこぼこと歪んでいて、全てが夢では無いことを思い知らされた。床の間には切り落とされた角が飾ってあり、その断面が黄金に輝いているのが見えた。村人達は淡月ではなくその角を拝んでいるのだと淡月は理解した。
そんなことはどうでも良かった。何処を見回しても雪人が居ない。
何かを次々に話している母親の言葉を遮って、雪人は何処かと訪ねると母親は「もう返しましたよ」と事もなげに言い放った。
「な、……なぜですか、私達は、……夫婦ではありませんか、かっ、……母様と父様も、隠籠りで夫婦になったのでしょう?」
母親は表情の無い顔で淡月の言葉を聞いていた。淡月が何も言えなくなると、口角だけを上げて言った。
「あのような家の男と大事な娘を一緒にする訳が無いでしょう?
──そもそもあれはもう世継ぎを望める身体では無いですから。……その様子だと、本当に間違いの一つも起こらなかったようで、母は安心いたしました」
酷い耳鳴りがして、胃液が喉を焼く。
──何故、こんな、むごいことができるのか。
気づけば、淡月は庭先に降りていた。風は奇妙に温く、春が近い事を知る。
雪の上には血が落ちていて、その血が己の伸びた爪から滴っている事に気づいた。顔を傷つけられた母親の呻き声が聞こえる。振り返ると、どうやら何人か跳ね飛ばしたらしく襖も障子も無くなっていて、風通しの良くなったものだと思った。空を見上げる。良い天気で月もなく、緑に光る西の空には宵の明星が鮮明に見えた。額に慣れ親しんだ重さを感じ安堵する。
鬼の呪いは確かにあった。けれど、父に、母に、この村に。怒りと憎しみを抱いていたのは私だった。
怒りも、罪も。今はもう全て私のものだ。
「雪人、」
裸足のまま、唯一自分を見ていてくれた男の名を呟いて、淡月は門の先の夜闇に消えていった。
四
母はいつも蔵の中に居た。家の者は皆母を居ないものとして扱うので、僕が世話をしていた。気分がいい時の母は、僕を抱きしめて頭を撫でた。
「隠の旦那様はね、お可哀想な人なのよ。」
母はいつもこの話をした。母は元々隠家に嫁入りする予定だったが、事情があり叶わなかったらしい。隠家のお嬢様は僕と年が近いため、僕が隠籠りのために嫁入りすることは生まれた時から決まっていた。
「母の分も、お前がお慰めしなくてはならないのよ」
それが私達にとっての幸福なの、と母は細く美しい手で僕の頬をしっかりと抱えて何度も繰り返した。母の無念は僕が晴らさなければならないと、その事だけを考えて生きていた。
風が奇妙に温く、春が近い事を知る。
雪人は一人帰路についていた。あまりの暖かさに、足元の雪が泥濘んでいる。
この婚姻が隠籠りの間だけの仮初のものである事を、母には伝えていなかった。母の無念は晴らせたのだろうか、何故帰ってきたと叱られるのだろうかと、雪人は凪いだ心で考えていた。母が何と言うかどころか、明日の事だって想像できないことに気がついた。これまで嫁入りをすることしか考えていなかったし、隠籠りで死んでも構わないと思っていたから、その先のことなど何も考えてはいなかった。自分にはもう何も無いことに気づいた。
旦那様は、──淡月お嬢様は、美しく、かしこい方だった。最後まで己の呪いを真っ直ぐに見つめていた。あの方の血肉となり嫁役を全うできたことは、とても素晴らしいことだと思えた。けれど。
お嬢様は、母の言うような可哀想な人だったろうか。
お嬢様が可哀想な人だと言うのであれば、僕は一体、何なのだろうか。
──幸福とは一体、何だったのか。僕にはもうわからないのです。
家の明かりが見えてきて、雪人は歩みを早めた。近づくにつれて、家の前に人が立っていることに気づいた。家の者達が皆で出迎えてくれていた。何人もの人影が見える。
人影がこちらを見ている。
気づけば、雪人は来た道を駆け戻っていた。言いようのない恐ろしさが胃で渦巻いている。後ろからは家の人間の追いかける声がする。何もかも全てが恐ろしくて堪らなくて、雪に足を縺れさせながら、森へと走った。
獣道すらわからぬ雪の斜面を滑りながら逃げる。日暮れ時の暗闇の中、足元の雪だけがぼんやりと青かった。喉が引き攣って喘ぐように息を吸う。すぐ後ろで声がしている。どうどうと心臓の音が煩くて、山の上の方から静かに響く音に、雪人は気づかなかった。
「雪人、」
息継ぎの間に聞き取った声は母のものだった。雪人は思わず振り返る。
母の影を捉えたその刹那、どう、と大きな音が轟いて、視界の全てが白く染まった。
どのぐらい目を閉じていたのか、被さった雪を振るい落として立ち上がる。辺りは白くなだらかになっていて、木々を薙ぎ倒すほどの大きな雪崩が起こったのだと遅れて理解した。雪人の他に人影は見えず、しんとしている。
「母さん、」
声が上擦る。雪人は弾かれたように目の前の雪を掻き始めた。雪は人を引き摺り込むように沈んでいく。
ふと何かが指先に当たって、雪人は無我夢中で辺りを掻いた。人の手だった。母さん、と叫んでその手を引いた。雪人は息を呑んだ。指先の黒子から、まさしくその手は母のものであるとわかった。しかし、──母の手は、こんなに醜い老婆のようなものだったろうか。
雪人は手を離して雪から這い出た。その場から離れるように、よろよろと斜面を歩く。
「 、」
切り裂く様な悲鳴が響いてそれきり、静かに夜は更けていった。
終幕
雪解け水がどうどうと川を流れる。
淡月は村の外の病院まで来ていた。心が凪いでいる間は額の角も前髪で隠れる程度に小さくなるのは素直に有難かった。
あの夜、雪人を拐かしてやろうと家に乗り込んだ所もぬけの殻で、呆然と立ち尽くしていると山の方から雪崩の音が響いた。胸騒ぎがして山の方へ向かうと、道にはいくつもの足跡があって山に続いていた。全身から血の気が引くのがわかった。淡月を探しに来た村の者も巻き込んで、夜通し雪人を探した。見つかったのは夜が明けてからだった。雪崩の位置から遠く離れた所で雪に埋もれて眠っていた。淡月の血が体内に残っていたお陰か、雪人の身体は温かいままだった。
病室の扉を軽く叩く。返事は無く、そっと開けると雪人は外を眺めていた。
「こんにちは。具合はどうですか?」
雪人は困った顔をして俯いた。淡月が椅子に腰掛ける間じっと自分の手を見つめて、あの、と口を開いた。
「あなたはどうして毎日会いに来てくれるんですか?」
目を覚ました雪人は、隠籠りで共に過ごした日々はおろか、十年ほどの記憶を心ごと失っていた。今の彼は、十にも満たぬ子供だった。
淡月は微笑んで、「貴方が私にとってこの上なく大切な人だからですよ」と返すと、雪人はより眉を下げて、所在なさげに窓の外を見た。
「……ぼくはいつお家に帰れるんでしょうか。母さんが、待ってるとおもうんです。母さんはぼくがいないとなにもできないから……」
起きて間もない頃に、皆雪の下に眠ってしまったのだと伝えたが、理解することはまだ難しいらしい。
淡月は名前を呼んで、雪人の手をしっかりと握った。
「ここを出たらね、貴方には私の所に来てほしいと思っているんです。他の誰にも傷つけさせない、あらゆるものから貴方を守ると誓うわ。……そうしてね、いつか貴方が私を許してくれるなら、」
窓から風が吹き込む。春はもうすぐそこまで来ていた。
「その時は、貴方に私の旦那様になってもらいたいと思っているの。」
終




