ピアニスト
「あなたより一年早くここに居る水口さんよ。仲良くしてね」
当時十歳だった私に、ピアノの先生がそう誇らしそうに紹介したのは、不愛想な同い年の少女だった。
それでいて、憎たらしい女だった。何が憎たらしいかというと、私よりずっとピアノが上手い。
先生も目を見張るほどの速度で私が上達しても、水口はずっと私の先に居た。一年間の経験の差があるとはいえ、本当に私と同い年なのかと疑ってしまうくらいには卓越した技術だった。ミスが無いのは大前提として、曲に合わせた音色の使い分けが一級品だ。コンクールに出ればほとんど間違いなく最優秀賞を獲得し、演奏会の後には立派な服を着た大人に声を掛けられていた。私は、ずっと彼女の二番目だった。
大人はみんな、『相手が悪い』と口を揃えた。両親も『二位だって立派だ』と励ましてくれた。
しかし、私が思うに――順位を付けるという行為がある以上、最も優れているのは一位だ。二位はその次だ。私は水口の次の女だった。それが耐え難い。
教室では先生を凌ぐほどの技術を持つ水口。私も頑張って先生を追い越しても、水口は越せない。
水口と同じコンクールに嫌がらせのように被せ続けること七年、ただの一度も彼女を上回ることはなかった。
十七歳になる頃には、私と水口は業界でもそこそこ名前の知れた新星として語られるようになった。
私の至上命題は水口の打破ではあったが――正直、悪い気はしなかった。しかし、隣で一緒に写真を撮られていた水口が、相も変わらず不愛想だったので、張り合うように私も不機嫌そうな顔をし続けた。七年間、同じ教室で同じ人にピアノを教わり続けているものの、未だに彼女が何を考えているかはよく分からない。日常会話をしたこともないので、周りの予想とは裏腹に、私たちは明らかに友達などではなかった。
ハッキリと言ってしまえば、水口にとっての私は万年二位の石ころだ。そして私にとって水口は、敵だ。
――十八歳のある日、敵が骨折した。
交通事故だそうだ。命に別状はないが、それは人間としての命の話。
当たり方と倒れ方がピアニストにとって最悪で、演奏家としての命をあっさりと奪った。
怪我は治るが、今までのように繊細な音色の使い分けはできないだろう、と。――この教室に来た時のように、水口を隣に置いて、先生は呼び出されて呆然としている私にそう語った。八年前との違いは、私は明確な実力差を思い知らされて水口を敵だと思っていることと、そんな敵の利き腕の右腕にギプスが付いていること。
それからのことはあまり覚えていない。随分なことを言ったような気がする。治ったらまた弾け、勝ち逃げか、ふざけるな。
半泣きだったような気がする。そして、不鮮明な視界でこう言ったことだけは鮮明に覚えている。
「あんたを目標にしてたのに」
先生も泣いていた。水口は――やっぱり、無表情だった。
それで話は終わって、翌月には本当に水口の姿を見ることはなくなった。
私は繰り上がりによって、このピアノ教室で最も上手なピアニストになった。そして、同年代でも最も上手な演奏家になった。
周囲は好き放題に騒ぎ立てる。私のことを、友の想いを受け継いだピアニストだとか、そんな風に美談に仕立て上げようとする。
水口と並んで新星と騒がれていた頃と違って、最悪な気分だった。
だから私は、気付かされてしまった。結局、あの天才の横に居た事実が嬉しかったのだと。
だが、そんな風に背中を追う相手はもう居なくなった。
何のためにピアノを弾いてきたかをすっかり忘れてしまって、私は自分の中の火が弱まっていくのを感じていた。
水口の骨折から三か月後、私はピアノをやめることを決めた。次のコンクールを最後にすると、そう先生にも相談した。
そうして最後の曲を探した私が行き着いたのは、水口が最後に弾こうとしていた『夜のガスパール』だった。
わざわざ取り寄せるのも手間だったので、私は水口が使っていた楽譜をそのまま借り受ける形で練習を始めようとした。いつものように椅子に座って、譜面台で譜面を広げる。――そして、ぴたり、と、譜面を広げた状態で指を止めた。
思わず動きを止めてしまった私の瞳には、夜のガスパールの複雑な譜面。
そして、その譜面には、大量の赤ペンがびっしりと敷き詰められていた。
水口の文字だ。記号だ。クレッシェンドが幾重にも折り重なっている。彼女の人並外れた音色の使い分けの根源が確かにそこにあった。
私はそれを見つめたまま、数十分は動けずに、ジッと座り続けていた。
分かっていたはずだ。水口は天才だが、機械じゃない。練習をするのだ。私が彼女の背中を追いかけるために血を滲ませてきたように、彼女も、頭を抱えながら赤ペンを持って楽譜と睨みあってきたのだ。努力をし続けてきた。誰かに見えるなんて無様な真似はしなくても、確かに、頑張ってきたのだ。
ただ一度の事故で、それが全て壊れた。悔しくない訳がない。
私は、あの日の水口の無表情の裏側に思いを馳せた瞬間、目の奥が熱くなった。唇を噛んで、目尻を服の裾で拭う。
この曲を最後にピアノをやめて――もう一度彼女と会えば、その時は、友人として接することができるだろうか。
そんなことを考えながら、私は目を通すように譜面をぱらぱらと捲り、再び動きを止めた。
水口の字が一気に汚くなった。明らかに、利き腕ではない方の腕で書いていると分かるような、ガタガタの字。
腕を折ってもなお、演奏を続けるつもりだったのだろうか。私が恐怖と共に赤字に注目すると、すぐ、その恐怖が的外れであることは分かった。
――君は難しい部分ですぐに指が転ぶ
――難しい部分を難しいと考えてるから緊張するんだと思う
――目を瞑っても弾けるくらい、嫌になるくらいやった方がいいと思う
そんな言葉をはじめとした『君』に対するアドバイスの数々。
腕を折った後に彼女が書き加えたであろう汚い幾つもの文字が、先生よりも詳しく『君』の欠点を指摘していた。
私は、一瞬、楽譜が滲んで見えなくなった。横に結んだはずの口から、何故だか熱く震える息が出た。喉が、攣る。
目の奥が熱くなって仕方がなくて、瞬きを繰り返して、目尻を手の腹で拭う。そして、その手で楽譜を捲ると、更に幾つものメッセージ。
『君』が誰であるかは、考えるまでもなかった。彼女は、私でも知らないような私のことを知っていた。
きっと、彼女も知らないような彼女を知っていた、私のように。
だから、そう。背中を追い続けた私の視界だけではなく、前を走っていたと思い込んでいた彼女の瞳の中にも、私は居た。
あの天才の世界に、私も、確かに存在したのだ。
水口は果たして、どれほど私の先に居たのだろうか。それは分からない。
それでも、やっぱり追いかけようと思った。
もう二度と追い越せない背中を、それでも追い越すために、もう少しだけ、ピアノを続けることにした。