第48話 香の迷宮、鍵を握る影
書庫の窓から差し込む月光に、リンの影が長く伸びる。香炉の灰を指でかすめ、残り香を嗅ぎ分ける。沈香、蜜蠟、そしてほのかに甘い花の香――計算された組み合わせで、人の心理を揺らす。
「……やはり、この香はただの香ではない」
リンは小声で呟き、帳面を広げる。香木出納帳、香炉の使用記録、女官や宦官の動き……点と点が線になる。
「操る者は後宮の中にいる。そして、香を用いて私の行動を追っている」
机の上に置かれた香灰の微粒子を顕微鏡代わりに指先でなぞり、リンは思考を巡らせる。
「香の使用時間、微量成分の分布、香炉の位置……これらから、次に動く人物の癖が見えてくる」
その時、書庫の奥の棚の陰から微かな物音。リンは息を殺し、静かに耳を澄ませる。
「……誰かが近づいてきた」
音は一歩、また一歩と近づく。香の迷宮の中、影は動き、匂いは変化する。リンは机の上に置かれた布片に目をやる。沈香の残り香に紛れる、微かに異なる香の粒子。
「……この混ざり香。普通の香なら残らないはず」
音は止まり、代わりに囁き声が届く。
「……リン、君は本当に慎重だね」
声は低く、男のもの。宦官か、あるいは後宮の別の権力者か。香の仕掛けと心理操作のプロであることは明白だ。
リンは静かに立ち上がり、声の方へ向き直る。
「誰かを傷つけるつもりですか?」
「いや……私は、ただ君の知識を試しただけだ」
影は棚の後ろに隠れ、香と共に消える。その瞬間、リンは確信する。
「……この香の正体は、心理を揺さぶり、真実を隠すためのもの。でも、仕掛けを理解すれば、操る者も見える」
机に戻り、香灰を分析するリンの瞳は鋭く光る。夜の書庫に漂う沈香は、もはや単なる香ではなく、後宮の秘密と権力を映す鏡となった。
「迷宮の中に閉じ込められても、知識と観察眼があれば出口は見つかる」
リンは静かに息を整え、香灰を机に広げる。次の一手は、自分の手で決める。
「この影……必ず追い詰める」
夜の書庫に、月光と沈香の香りが混ざり合い、リンの決意だけが濃く、深く、漂っていた。




